透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

朝焼けの詩

2020-07-05 | E 朝焼けの詩


撮影日時2020.07.04 04:31AM

 今年もまた豪雨で大きな被害が出た。熊本では球磨川の氾濫で住宅地の水没が広範囲に及ぶ・・・。九州上空に停滞し続けた梅雨前線に暖かく湿った空気が流入して、線状降水帯が形成されたため、と今日(5日)の新聞記事に鹿児島県・熊本県に大雨をもたらした要因が載っている。

暖かく湿った空気か・・・、地球温暖化の影響で海水温が上昇していることが関係しているのであろう。災害列島日本、安心して暮らすことができるところがどこにあるのだろう・・・。

早朝、北東の空が鈍い赤に染まっていた。河川の氾濫で甚大な被害が出ていることを憂えているかのような空。暗澹たる気分。

さあ、元気を出して!


 


「落城・足摺岬」田宮虎彦

2020-07-04 | H ぼくはこんな本を読んできた

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 まだまだ本の話。

『落城・足摺岬』田宮虎彦(新潮文庫1965年25刷) ずいぶん昔の本だからパラフィン紙のカバーが劣化している。この文庫本は表題2作の他に5作を納める短編集。いつ読んだのか不明だが高校生の頃か。

『足摺岬』はおよそ30頁の短編。実に暗いトーンのストーリーだが、どうもぼくにはこのような小説を好む傾向があるらしい。今読んでいる荷風の『夢の女』もタイトルのイメージに反し、薄幸の若い女性が主人公で、ストーリーが暗い。

『足摺岬』は再読したい。


 


辰野町横川の道祖神

2020-07-04 | B 石神・石仏


撮影日2020.06.21

 辰野町横川の双体道祖神。像に横から光が当たり、より立体的に見えている。正面からの光だと、陰影に欠け、平面的にしか見えない。

仲睦まじい夫婦の立像で、お互いに相手の肩に手を掛け、杯と酒器をもう片方の手に持っている。酒器像と呼ばれる道祖神。

像の上に月と日を彫ってある。下の写真のように青面金剛像を彫った石仏には月と日が像の上にあることが少なくない。この月と日は何を意味しているのだろう。庚申の夜の祈りに関連して時間の経過、日替わりを願うものではないか。いや、もっと深い宗教的な意味があるだろう。

ではこのような月と日がなぜ道祖神に彫ってあるのだろう・・・。まあ、民間信仰はいろんなものが混淆しているだろうから、別に不思議なことでもないか(と、片づけてしまっては知識も深まらない)。



東京都江戸川区東瑞江にて 撮影2014年7月


本稿の道祖神は2011年8月にも載せている。


「人生論ノート」三木 清

2020-07-04 | H ぼくはこんな本を読んできた

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■ 『人生論ノート』三木 清(新潮文庫1974年49刷) 20代で読んだ本は、ぼくを木に喩えるなら、枝葉ではなく、幹になっているような気がする、ただ何となく。

**ハイデッカーに師事し、哲学者、社会評論家、文学者として昭和初期における華々しい存在であった三木 清の、肌のぬくもりさえ感じさせる珠玉の名論文集。**(カバー裏面の紹介文より)

あちこちに傍線を引いてあるから、この本も読んだのであろう。目次の「娯楽について」と「希望について」に△印をつけてある。

今なら「旅について」に印をつけ、次の一節(136頁)に傍線を引き、やはりそうだよな、と再確認というか、再認識するだろう。**何処から何処へ、ということは、人生の根本問題である。我々は何処から来たのであるか、そして何処へいくのであるか。これがつねに人生の根本的な謎である。そうである限り、人生が旅の如く感じられることは我々の人生感情として変わることがないであろう。(中略)人生は未知のものへの漂泊である。

ああ、46年ぶりの再読なり。


「方丈記」鴨長明

2020-07-03 | H ぼくはこんな本を読んできた


復元された鴨長明の方丈の庵

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『方丈記』鴨長明(岩波文庫2001年第25刷

 鴨長明は下鴨神社の禰宜(神職)の家系に生まれ育ったという。この神社の境内に鴨長明の方丈の庵が復元されている。方丈記の詳細な記述をもとに、中村昌生氏の監修により復元されたという。ぼくはこの庵を2015年の12月に見ている。方丈の庵は簡単に分解することができ、好きなところに運ぶことができるシステムなので、プレファブのルーツとして取り上げられることもある。私も学生の時にこのような説明を聞いた(ような気がする。あるいはその後の学習の成果かも)。

方丈の方は正方形の方で四角という意味。丈は長さの単位で1丈は10尺、約3m。従って方丈は1辺が約3mの正方形の意。方丈記はこのサイズの庵で書かれたエッセイ。

**ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。世中にある人と栖と、又かくのごとし。** この書き出しに長明の無常観が端的に表現されている。


 


「アポロンの島」小川国夫

2020-07-03 | H ぼくはこんな本を読んできた

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■『アポロンの島』小川国夫(角川文庫1975年6版)も、倉田百三の『出家とその弟子』と同じく学生のときに読んだ本。だが、この本は青春の思い出を負うてはいない。

減冊後に書棚に並ぶ文庫は20代で読んだものが多い。なぜだろう・・・。

歳をとると昔のことを懐かしく思う傾向が強くなるのかもしれない。そういえば未来より過去を語ることの方が多くなったように思う。追憶に生きる、か・・・。

解説文から引く。**小川国夫の文学の特質は、すべて、この『アポロンの島』にその原型があり、埋れた鉱石のかがやきを放っている。その言語、その思想が一体となって、従来の日本文学に少なかった形而上的な文学をつくりあげている。(後略)**


 


「出家とその弟子」に残る想い出

2020-07-02 | H ぼくはこんな本を読んできた

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『出家とその弟子』倉田百三(新潮文庫1976年49刷)


1977年7月 三宅島にて

 1976年、この年の夏、ぼくは得意だった。

当時在席していた大学の研究室は4年の卒研生も大学院生も男子ばかりだった。1976年、研究室恒例の夏合宿に女子大の学生が参加することになった。その中にHさんがいた。

この年の行き先は神津島だった。出かける何日か前、研究室で合宿の打合せをした。この時、落ち着いた雰囲気で美しいHさんに研究室のみんなが注目した。ところが、彼女は急に参加できなくなってしまったのだ・・・。

合宿から帰って、ぼくはHさんからデートの約束を取り付けることができた。 この頃もぼくはスケッチをしていて(*1)、神津島で描いたスケッチをプレゼントするということで。

記録をひも解くとこの年の神津島合宿は7月20日から24日まで、Hさんと大学近くのカフェで会ったのは28日。その時、どんな話をしたのか覚えていない。ただ、Hさんが倉田百三の『出家とその弟子』について話したことを、この文庫が教えてくれる。文庫の扉には8月1日から読み始めたことがメモしてある。それからカフェの名前も。

しばらく前にも書いたけれど、時に本は遙か遠くに過ぎ去った出来事を思い起こさせてくれる。


*1 上のスケッチは翌年、1977年の夏合宿で描いたもの。1976年の合宿で描いたスケッチは上記のような事情で手元に残っていない。

**本書には、青年がどうしても通らなければならない青春の一時期におけるあらゆる問題が、混淆したまま率直に示されており、発表後半世紀を経た今日でもその問題性は失われず、多くの青年に熱烈な感動を与え続けている。** カバー裏面の紹介文からの引用


「ロウソクの科学」ファラデー

2020-07-01 | H ぼくはこんな本を読んできた

 昨年(2019年)ノーベル化学賞を受賞した吉野 彰氏が小学生の時に熱中した本として挙げたファラデーの『ロウソクの科学』が話題になった。担任の先生からこの本を薦められて読み、化学に興味を持つきっかけとなったとのこと。



書棚に残したおよそ250冊の文庫本の中に『ロウソクの科学』ファラデー(岩波文庫1973年第44刷)が入っている。昔の文庫本はパラフィン紙のカバーがついていた。懐かしい。そのカバーを外して写真を撮ろうかとも思ったが、そのままにして撮った。

巻末の訳者附記には**これは一八六〇年のクリスマスのお休みにファラデーが(中略)特に少年少女のために六回にわたっておこなった講話を速記してウィリアム・クルックスが編さんしたものである。**(123頁)とある。

吉野氏は小学生の時に読んだそうだが、私は20代の時に読んだ。水色のテープがこのことを示している。名著は再読に耐える。書棚に残しはしたが、私にその機会があるかどうか・・・。


2020.04.28の記事再掲


「死の棘」島尾敏雄

2020-07-01 | H ぼくはこんな本を読んできた

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「ぼくはこんな本を読んできた」 今回は『死の棘』島尾敏雄(新潮文庫1981年発行)。奥付に発行が昭和56年1月25日と記されている。ぼくはこの本を発売直後の同年1月31日に大学生協で買い求めている。

例によってカバー裏面の本書紹介文から引く。**思いやりの深かった妻が、夫の〈情事〉のために突然神経に異常を来たした。狂気のとりことなって憑かれたように夫の過去をあばきたてる妻。ひたすら詫び、許しを求める夫。日常の平穏な刻は止まり、現実は砕け散る。狂乱の果てに妻はどこへ行くのか?――ぎりぎりまで追いつめられた夫と妻の姿を生々しく描き、夫婦の絆とは何か、愛とは何かを底の底まで見据えた凄絶な人間記録。**

なぜ当時20代で独身のぼくが発売と同時にこのような内容で500頁を超える長編小説を買い求めて読んだのか、今となっては分からない。

再読? たぶんしないだろう・・・。