(福知山城)
今年の全社野球大会は、播磨で開かれた。五年前、播磨で野球大会があったときは、試合の合間にジョセフ彦関係の史跡を訪問した。今回はレンタカーを借りて生野と福知山まで足を伸ばすことにした。
野球の方は、数ヶ月前から五十肩で左肩が上がらず、更に一週間前に庭の草刈をして腰を傷めた。キャッチボールもままならず、バットを振ることもできないような状態であったが、それでも野球大会に参加したのは、関西の史跡を訪ねるチャンスだからである。
試合の方は最終回に代走で出場しただけで、何とも不甲斐ない結果であったが、試合が終わると汗を拭く間もなく、生野に向かった。生野から更に小一時間のドライブで城下町福知山に行き着く。
福知山城
福知山城は、天正七年(1579)に明智光秀が丹波を平定したのを機に、当地にあった横山城を改築して近世城郭へと生まれ変わらせた。江戸時代に入って、有馬氏、岡部氏、稲葉氏、松平氏と目まぐるしく城主が変わったが、寛文九年(1669)、朽木稙昌(くつきたねまさ)が福知山藩三万二千石の城主に封じられると、その後廃藩置県までの二百年間、十三代に渡って朽木氏が続いた。
天守閣は昭和六十年(1985)に再建された復元天主で、外観は忠実に往時の姿を再現した鉄筋コンクリート製である。
福知山市
福知山城天守から市街を望む
(円覚寺)
円覚寺
円覚寺は、福知山城城主朽木氏の菩提寺で、第七代朽木舗綱(のぶつな)、第十二代朽木綱張および第十三代朽木為綱(もりつな)の妻の墓が置かれている。
従五位下朝散大夫兼近江守朽木綱張墓
錦光院殿成徳惟馨大居士
朽木綱張は、文化十三年(1816)に近江膳所藩主本多康禎の次男に生まれ、福知山藩朽木家の養子となって家督を継いだ。藩政では市川儀右衛門らを登用して財政建て直しに努めたが、これが領民の反発を招き大規模な一揆に発展した。市川は責任を負って切腹。佐幕派として禁門の変や第二次長州征伐にも参加した。慶応二年(1866)二月、病を得て死去。五十二歳であった。
綱張の死後、藩主は長男為綱に引き継がれ、明治維新、廃藩置県を迎える。為綱の墓は東京青山霊園にあるが、明治三年(1870)に二十歳という若さで亡くなった為綱の妻の墓が綱張の墓の傍らに在る。
今年の全社野球大会は、播磨で開かれた。五年前、播磨で野球大会があったときは、試合の合間にジョセフ彦関係の史跡を訪問した。今回はレンタカーを借りて生野と福知山まで足を伸ばすことにした。
野球の方は、数ヶ月前から五十肩で左肩が上がらず、更に一週間前に庭の草刈をして腰を傷めた。キャッチボールもままならず、バットを振ることもできないような状態であったが、それでも野球大会に参加したのは、関西の史跡を訪ねるチャンスだからである。
試合の方は最終回に代走で出場しただけで、何とも不甲斐ない結果であったが、試合が終わると汗を拭く間もなく、生野に向かった。生野から更に小一時間のドライブで城下町福知山に行き着く。

福知山城
福知山城は、天正七年(1579)に明智光秀が丹波を平定したのを機に、当地にあった横山城を改築して近世城郭へと生まれ変わらせた。江戸時代に入って、有馬氏、岡部氏、稲葉氏、松平氏と目まぐるしく城主が変わったが、寛文九年(1669)、朽木稙昌(くつきたねまさ)が福知山藩三万二千石の城主に封じられると、その後廃藩置県までの二百年間、十三代に渡って朽木氏が続いた。
天守閣は昭和六十年(1985)に再建された復元天主で、外観は忠実に往時の姿を再現した鉄筋コンクリート製である。

福知山市
福知山城天守から市街を望む
(円覚寺)

円覚寺
円覚寺は、福知山城城主朽木氏の菩提寺で、第七代朽木舗綱(のぶつな)、第十二代朽木綱張および第十三代朽木為綱(もりつな)の妻の墓が置かれている。

従五位下朝散大夫兼近江守朽木綱張墓
錦光院殿成徳惟馨大居士
朽木綱張は、文化十三年(1816)に近江膳所藩主本多康禎の次男に生まれ、福知山藩朽木家の養子となって家督を継いだ。藩政では市川儀右衛門らを登用して財政建て直しに努めたが、これが領民の反発を招き大規模な一揆に発展した。市川は責任を負って切腹。佐幕派として禁門の変や第二次長州征伐にも参加した。慶応二年(1866)二月、病を得て死去。五十二歳であった。
綱張の死後、藩主は長男為綱に引き継がれ、明治維新、廃藩置県を迎える。為綱の墓は東京青山霊園にあるが、明治三年(1870)に二十歳という若さで亡くなった為綱の妻の墓が綱張の墓の傍らに在る。