史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

田園調布

2010年10月09日 | 東京都
(東光院)


東光院

 田園調布といえば、高級住宅街の代名詞となっている。かつて多摩川沿いのこの地には、六郷用水が開削されていた。
 東光院は、東急目蒲線の沼部駅を降りて、徒歩数分の場所である。本堂の前に、注意しないと見過ごしてしまいそうな小さな石碑が建てられている。上部に「勇士碑」とあり、その下には三名の戒名が書かれているが、彼らの本名や素性は伝わっていない。
 三名が当地に来たのは、明治元年(1868)六月五日というから、上野戦争の落ち武者かもしれない。当地の住民との間でトラブルとなり、相継いで惨殺される。一人は東池の畔で、残る二人も逃げ回った挙句、多摩川河原で殺された。彼らの死を憐れんだ医師森某がこの碑を建てたと伝えられる。


勇士碑
常楽院苦心解脱居士
安楽院迷心得脱居士
明楽院疑頓心悟居士

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碑文谷

2010年10月09日 | 東京都
(正泉寺)


正泉寺

 東急東横線の都立大学駅から歩いたので、正泉寺に到着するまで三十分ほどかかってしまったが、同じ東急でも目黒線の西小山からの方が近い。正泉寺は、閑静な住宅街の中に位置している。


羽倉用九(簡堂)之墓

 正泉寺には、戯作者、浮世絵師として有名な式亭三馬の墓があるが、この日のお目当ては羽倉簡堂の墓である。
 羽倉簡堂は、寛政二年(1790)幕臣の家に生まれた。諱は用九。若くして古賀精里に学んだ。父の没後、幕府代官となって、大島、三宅島、八丈島を視察調査した。その一方で尚歯会にも参加して渡辺崋山らとも交友が深かった。天保十三年(1842)には納戸頭に上げられ、生野銀山を治め、大阪の民政にも参与したが、間もなく職を辞した。その後は幕府からの要請にも応じず、読書・著述を専らとした。嘉永年間に「海防私策」を著して攘夷を唱えた。文久二年(1862)、七十三歳で死去。

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