史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

舟形

2012年07月01日 | 山形県
(定泉寺)


定泉寺


堀彦右衛門
河上雅右衛門 墓
小屋春五郎

 新庄藩士三名の合葬墓である。三名とも慶應四年(1868)七月十三日の舟形口での戦死者である。

(舟形合戦古戦場碑)


舟形口合戦古戦場碑

 慶應四年(1868)七月十三日、この付近で、薩長および新庄藩を主力とする新政府軍と庄内藩を中心とする奥羽越同盟軍とが激突した。密かに小国川を渡った庄内勢は、北岸に布陣した新政府軍を急襲した。白刃を交えた激戦数刻におよび、新政府軍は大敗し、新庄へ退いた。この戦いで、新庄藩士六名と長州藩士一名が戦死した。

(戊辰戦争官軍之墓)


官軍 長州 大野坂次郎俊明墓(右)
白塚藤吾 伊藤亀助 齊藤行蔵 墓

 舟形口で戦死した長州藩の大野坂次郎と新庄藩の白塚藤吾、伊藤亀助、齊藤行蔵の合葬墓である。山ノ神麓における銃撃戦で、長州藩の大野と新庄藩の白塚、斎藤、河上が戦死。このうち河上は定泉寺に葬られている。小国川岸での白兵戦では、新庄藩の堀彦右衛門、小屋春五郎、伊藤亀助の三名が戦死した。彼らのうち、堀、小屋は、定泉寺に葬られた。

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新庄 Ⅱ

2012年07月01日 | 山形県
(観音寺)


観音寺

 観音寺は、慶應四年(1868)七月、庄内藩が新庄藩を攻撃したときに宿陣した寺の一つである。

(善龍寺)


善龍寺

 善龍寺には、五名の官軍戦死者の墓がある。うち四名が長州藩、一名は佐賀藩出身者である。いずれも清川村や長者ヶ原、金山での戦闘で戦死。


官軍五名の墓

(桂嶽寺)


桂嶽寺

 桂嶽寺は、慶應四年(1868)七月、庄内藩が新庄藩を攻撃したときに宿陣した寺の一つ。

(瑞雲院)


瑞雲院


御霊屋

 瑞雲院には、旧藩主戸沢家の菩提寺で、歴代藩主の墓所がある。六棟の霊廟は、御霊屋とよばれ、いずれも総欅造りで、土台石の上に柱を建てて、柱間に厚い板をはめ込んで壁状にし、床は石畳、屋根は茅葺となっている。(1798)に建てられた六棟目には、八代政親、九代正胤、十代正実ほか三基が収められている、なお、ニ代正誠のみは、桂嶽寺に葬られている。


正龍院殿實翁禅相大居士塔(戸沢正実墓)

 新庄藩最後の藩主、十一代戸沢正実の墓である。戸沢正実は、天保三年(1832)に前藩主戸沢正令の長男に生まれ、天保十四(1843)、新庄藩主となった。戊辰戦争では慶應四年(1868)、七月に奥羽越列藩同盟を脱退し、戦局を新政府軍有利に導いた。その功で戦後一万五千石の加増を受け、新庄藩知事に任じられた。明治十七年(1884)子爵。明治二十九年(1896)、年六十五で没した。

(英照寺)


英照寺


官修墓地

 英照寺には、官修墓地があり、遅澤嘉七と佐々木力平の二人が葬られている。

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新庄 Ⅰ

2012年07月01日 | 山形県
(最上公園)


最上公園

 当初の計画では、秋田のあと、山形県では遊佐、酒田、鶴岡と回る予定であったが、残り時間の関係で、鶴岡は諦めることとした。予定変更して、新庄、山形、上山方面を攻めることにした。こちらの方は事前にあまり調査してこなかったので、結果的には「とりこぼし」が多くなってしまった。いずれ山形県は再挑戦する必要がある。

 新庄は、戸沢氏六万八千二百石の城下である。新庄城は、藩祖戸沢政盛が築いたもので、寛永二年(1625)の完成と伝えられる。以来、十一代にわたって戸沢氏が支配した。慶応四年(1868)の戊辰戦争では、当初、新庄藩は奥羽越列藩同盟に参加していたが、秋田藩が脱盟したことに同調し、同盟から離脱した。これに激怒した庄内藩は新庄藩へと攻め入り、庄内藩兵と新庄藩兵の間で攻城戦が行われた。そのとき新庄城は陥落して、大部分が焼失した。藩主戸沢正実は秋田へ落ち延びた。新庄城は廃城となった。


新庄城


戸沢神社

 本丸址の戸沢神社には、藩祖戸沢政盛を祀る。城跡には堀や土塁のほか、表御門の土台として使用された石垣などが残されている。

(圓應寺)


圓應寺


白土保右衛門
渡部好右衛門 墓

 白土保右衛門は、新庄角沢村で戦死。渡部好右衛門は、羽後刈和野で戦死。いずれも新庄藩士である。

(如法寺)


如法寺


新庄藩 横山善太夫定仲の墓

 新庄藩士横山善太夫も慶應四年(1868)の新庄城攻防戦での戦死者である。

(長泉寺)


長泉寺


新庄藩士の墓

 長泉寺には、戊辰戦争で戦死した四名の新庄藩士の墓がある。

(善正寺)


善正寺


津田求馬 田口泰助 林順太郎 墓
夫卒 地主源七

 善正寺には、慶應四年(1868)七月十四日の新庄城攻防戦で戦死した四名の新庄藩士の墓がある。

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酒田 Ⅱ

2012年07月01日 | 山形県
(本間家旧宅跡)


本間家旧宅跡


別館

 酒田は、河村瑞賢が西廻り航路を開いてから、北前船の拠点として栄えた。その中心にあったのが豪商本間家である。本間家は、初代久四郎原光が元禄年間に開業以来、十代に渡ってこの地に歴史を刻んできた。今でいう商社のような事業であった。特に中興の祖といわれる三代光丘のときには、千石船により商いを拡大する一方で、農業振興のための土地改良、水利事業や風害軽減のための砂防林の植林などにまで心血を注いだ。現存する本間家旧宅は、三代光丘のときに幕府巡見使一行のために本陣宿として明和五年(1768)に新築されたものである。藩主酒井氏に一旦献上され、のちに拝領した。外観は二千石の旗本の格式を備えた長屋門構えの武家屋敷造りで、奥は商家造りとなっている。
 「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿さまに」と謳われるほどの圧倒的な財を蓄え、諸大名にも融資するほどの隆盛を誇った。幕末の庄内藩は、本間家からの莫大な献金を洋式兵器の購入に充てた。

(妙法寺前公園)


三烈士碑

 相生町の妙法寺前の公園の中央に「三烈士碑」が建っている。三烈士とは、幕臣天野豊三郎と佐藤桃太郎、岡崎藩士関口有之助の三名のことをいう。彼らは、箱根で伊庭八郎の率いる遊撃隊に属して戦ったが、庄内藩を頼って来藩したが、そのとき既に庄内藩も降伏していた。彼らは庄内林高院に潜伏しているところを捕えられ、明治二年(1869)四月、酒田で斬首された。

(日和山公園)


日和山公園 日枝神社山門


吉田松陰の碑

 最上川の河口に位置した風光明媚な場所が、日和山公園として整備されている。園内には、「文学の散歩コース」が整備されており、遊歩道沿いに酒田所縁の文学者や有名人の歌碑などが建てられている。
 吉田松陰は、嘉永五年(1852)二月二十一日、東北巡歴の途中、庄内に至った。石碑には、松陰の「東北遊日記」の一節が記載されている。

(瑞相寺)


瑞相寺


工兵隊之墓

 瑞相寺の場所は分かりにくい。結論からいうと、酒田南高校の構内に存在している。小さな墓地に酒田工兵隊の墓がある。

(酒田東高校)


酒田東高校


亀ヶ崎城址

 酒田東高校の所在地が、亀ヶ崎城跡である。庄内藩の城は、「鶴ヶ岡」と「亀ヶ崎」という誠に目出たいネーミングとなっている。元和八年(1622)最上氏が改易されて酒井忠勝が庄内藩主に封じられると、鶴岡城が居城となったが、亀ヶ崎城も存続が許され、江戸期を通じて松平氏を城代として配置した。一国一城令の唯一の例外といわれる。明治以降、一時酒田民政局が置かれ酒田県庁がとなったことがあったが、山形県の成立と同時に解体された。今はほとんど城郭を偲ぶものは残されておらず、土塁が唯一の遺構となっている。

(円通寺)


円通寺


亀ヶ崎城搦手門

 円通寺には、亀ヶ崎城の搦手門が移築されている。亀ヶ崎城の唯一の現存する構築物として貴重なものである。

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酒田 Ⅰ

2012年07月01日 | 山形県
(松山歴史公園)


出羽松山城大手門

 伊予、備中の松山城は有名であるが、東北にも立派な松山城がある。出羽松山城は、庄内藩の支藩二万石酒井氏の本拠である。
 私が出羽松山城を訪ねたとき、年に一回の松山城祭がちょうと始まったばかりであった。何という間の悪さ!
 武者に変装した行列に行く手をはばまれ、自動車は先に進めなくなってしまうし、やっとのことで公園内に入って大手門の写真を撮ろうにも何時までも武者行列が途切れない。半分、泣きそうになりました。

 松山城の大手門には一つのエピソードが伝わる。大手門は寛政二年(1790)に落雷により焼失したものを酒田の豪商本間家が寄進し、寛政四年(1792)に再建したもので、山形県内に残る唯一の城門建築である。明治二年(1869)、城郭破却中に検分のため松山に来た官軍按察使坊城俊章に対し、松山藩では旧知の田中静居画伯が応対した。両者は旧交を温め、坊城が帰路に着く際、「この大手門を残したところで、今さら謀反もないだろう」ということで破却を免れたといわれている。


松森胤保胸像


松森胤保肖像写真

 松山歴史公園内には、松森胤保の胸像が置かれている。松森胤保は、維新前長坂欣之助といい、文久三年(1863)庄内藩の物頭から松山藩の付家老となった。慶応三年(1867)十二月二十五日の三田薩摩藩邸焼き打ちに際して、松山藩の総大将として表門から突入した。慶応四年(1868)四月に松山藩軍務総裁に任じられ、翌五月には白河藩支援のため出兵を命じられた。七月、秋田藩が奥羽越列藩同盟に離反すると、反転して秋田へ向かい、横手、大曲、角館を転戦した。しかし、会津藩の降伏とともに庄内、松山両藩も降伏することになった。十一月、藩主酒井忠良と謝罪のため東京へ向かった。その後、藩主からそれまでの功績に対して「松守」の姓を賜ったが、畏れ多いとして「松森」と改姓した。明治後は県会議員などを歴任するとともに、博物学、考古学、機器の改良・発明、写真に取り組み、明治二十三年(1890)には奥羽人類学会の初代会長に就いた。超人的な博学ぶりから「日本のレオナルド・ダビンチ」と称された。明治二十五年(1892)、六十八歳で逝去。


川俣茂七郎顕彰碑

 同じく公園内には、川俣茂七郎顕彰碑が建立されている。
 川俣茂七郎は、天保十年(1839)松山藩主の侍医川俣玄璞の三男として江戸に生まれた。早くから尊王攘夷思想に目覚め、文久三年(1863)二十五歳のとき、江戸藩邸を脱して上州赤城山挙兵計画に加わったが失敗。江戸長州藩邸に匿われた。元治元年(1864)、天狗党の筑波挙兵に参加し、幕府軍と戦った。しかし、天狗党が次第に藩内抗争と化すのに嫌気がさし、分離して横浜での攘夷を企図した。その途上、幕府軍と衝突して壊滅。同志は四散し、川俣茂七郎も大橋村破衣(現・笠間市)にて自刃した。享年二十六。
 川俣茂七郎所持の槍には、辞世が刻まれていた。

 みちのくの木の間かくれの山桜
 ちりてぞ人や夫と知るらん


藩校里仁館

 松山公園近くの生涯学習施設「里仁館」が、藩校里仁館跡である。里仁館は、戊辰戦争後の明治二年(1869)、藩校文武講習所として開校し、明治四年(1871)一貫堂と改称、さらに里仁館と改名されたものである。校名は、論語の「里仁為美(仁に里(お)るを美と為す)」に由来する。その後、現在地に在った県立松山里仁館高校にその名を留めていたが、平成十四年(2002)に閉校となり、その建物が生涯学習施設として活用されている。

(南洲神社)


南洲神社

 南洲神社は、全国に四カ所ある。最も有名なのが西郷隆盛の墓がある鹿児島市内のものであるが、ほかにも沖永良部島、都城市(宮崎県)に所在している。酒田の南洲神社は、昭和五十一年(1976)に創建された。西郷隆盛と酒田との関わりは、戊辰戦争後まで遡る。帰順降伏した庄内藩に対し、新政府の措置は極めて寛大であった。その背後には西郷隆盛の指導があったことを知った庄内藩士は、明治三年(1870)、時の藩主酒井忠篤とともに鹿児島を訪れ、約半年にわたって西郷に触れた。そのときの西郷の発言を書き留めてまとめたものが「西郷南洲翁遺訓」である。庄内藩ではこれを明治二十三年(1890)に刊行した。西郷隆盛は、自ら文章を残すことが少なく、後世その思想を知ることは極めて難しい。「西郷南洲翁遺訓」は、辛うじてその一端を知ることができる貴重な資料となっている。


「徳の交わり」像

 鹿児島市武の西郷公園でも、西郷隆盛と菅実秀(臥牛)が向かいあう「徳の交わり」像を見ることができる。


西郷隆盛


菅実秀

 菅実秀(すげざねひで)は、天保元年(1830)に出羽鶴岡に生まれた。父は庄内藩校致道館典学菅基。豊かな学識と文名高い父に勝るとも劣らない才能と気骨を有していた。三十三歳のとき、藩の要職側用人を命じられて江戸に上り、時局に関する識見を高めた。文久三年(1863)、幕命により庄内藩が市中取締の任務を受けると、実秀は家老松平親懐を輔佐して活躍した。慶應三年(1867)十二月の薩摩藩邸焼き打ちをはじめ、戊辰戦争で新政府軍を苦しめた庄内藩は薩長の恨みを買うには十分な履歴を有したが、格別の寛大な措置を受けることになった。これに感激した菅実秀は、鹿児島を訪れて西郷隆盛との好誼を厚くした。明治二年(1869)大泉藩(旧庄内藩)の権大参事に就任。明治五年(1872)には士族救済のために松ヶ岡開墾の指導にもあたった。明治三十六年(1903)、年七十四で没。


南洲翁遺訓碑


敬天愛人碑


南洲会館

 南洲会館では、西郷隆盛の遺墨や関連資料のほか、幕末著名人の書などが展示されている。

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