史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

青山霊園 補遺 Ⅷ

2022年04月16日 | 東京都

(青山霊園)

山科元行

 

従五位勲四等 山科元行之墓

1種ロ7号4側

 

山科元行は文政八年(1825)の生まれ。山科家を継いで医学を修めた。赤報隊の結成には中心的な役割を果たしたといわれる。しかしながら、赤報隊結成後は、分離した滋野井隊とは距離を置いた。慶應四年(1868)正月、綾小路俊美とともに三十名ほどの浪士を引き連れて比叡山を越えて守山に出た。一同は金剛輪寺に集合し赤報隊が結成された。参加したのは脱藩浪士,農商民,神官,僧侶等々。またたく間に人数は増え三百人ほどに達したといわれる。維新後は宮内省に出仕し、侍医局に勤めた。明治四十三年(1910)、八十三歳で没。

 

醍醐忠順

 

従六位侯爵醍醐忠順之墓

1種ロ8号

 

醍醐忠順は天保元年(1830)の生まれ。二歳のとき、従五位に叙されて以来、累進して天保七年(1836)には正四位下に至り、天保十二年(1841)、左近衛権少将に任じられ、ついで中将に進み、天保十四年(1843)には従三位、翌年には正三位に叙された。安政元年(1854)の内裏炎上の際には、いち早く参内して剣璽を下賀茂社に奉遷し、後日孝明天皇の賞賜に与り、安政四年(1857)に権中納言に昇った。日米通商条約の勅許問題が起こると、現任の大納言、中納言、参議の一員として勅問に与り、ひとり畿内を除外して、開市開港を許可すべしと言上した。安政六年(1859)、正二位に進み、文久三年(1863)、権大納言に任じられた。王政復古の後、慶応四年(1868)正月、参与を拝命し、内国事務掛、大阪鎮台督、大阪裁判所総督を兼ね、同年三月には兵庫裁判所総督、五月、大阪府知事などの要職を歴任した。同年十二月、一条美子(昭憲皇太后)が皇后に立つに及び、皇后宮大夫に任じられ、その後、侍従、侍従番長として、天皇の側近に仕えた。明治九年(1876)、宮中祗候となり、明治二十三年(1890)には従一位に叙された。同年、国会開設に当り、貴族院議員に列した。明治三十三年(1900)、年七十一にて没。子に醍醐忠敬(ただゆき)がいる。

 

吉田重郎

 

吉田君碑

1種ロ8号1側

 

吉田重郎は、越前福井藩の出身。陸軍少尉兼二等少警部として明治十年(1877)三月、西南戦争に出征し負傷。同年十月二十一日、東京で没した。二十九歳。

この石碑は明治十一年(1878)一月に建てられたもの。

 

林董

 

 

令和三年(2021)十二月末時点で、林董の墓も撤去され、林董も合葬墓に集約されている。これも時の流れかもしれないが、有名人の墓が消えて行くのは残念としかいいようがない。

 

飯田武郷

 

幕末・明治の國学者 飯田武郷

1種ロ8号32側

 

文政十年(1827)の生まれ。平田篤胤の没後門人となり、安政元年(1854)、平田銕胤に入門。古典を学習し、海野游翁について和歌を学んだ。嘉永・安政以来の時勢に対応して尊攘の志を固めた。高島藩政改革に努めたが成功せず、慶応三年(1867)、脱藩して上洛。権田直助、落合直亮らと謀り活躍した。岩倉具視の下に参画。維新後は気比、貫前、諏訪、浅間各神社に奉仕。東京大学助教授、皇典講究所、国学院、慶応義塾講師を務め、大八州学会をつくった。「日本書紀通釈」は二十六歳で起稿、四十四年間をかけて完成した。日本書紀研究史上の名著といわれる。明治三十三年(1900)、年七十四で没。

 

東郷四郎左衛門

 

故東郷四郎左衛門平實武之墓

1種ロ10号34側

 

東郷四郎左衛門は嘉永五年(1852)の生まれ。東郷平八郎の末弟。一番遊撃隊。伏見から関東、奥州を転戦したが、明治元年(1868)九月二十七日、若松城下陣中で病死。十七歳。

加藤七郎兵衛

 

加藤家之墓

1種ロ12号1~6側

 

傍らの墓誌によれば、昭和初年、加藤家先祖から加藤七郎兵衛に至る十代は、青山霊園に改葬されたとある。加藤友三郎の父、七郎兵衛もここに眠っていると思われる。

広島藩儒。文化七年(1810)の生まれ。雅号は小松斎、竜鱗庵主人。藩校教授で広島藩尊攘派の指導者。藩政にも参画し、文久三年(1863)、京都に上り、諸藩の志士と交わったが、なかでも真木和泉と最も親交を結んだ。のち江戸に出たが同地で没した。年五十四。長男の種之介は戊辰戦争で神機隊の隊長として奥州を転戦した。友三郎は三男。

 

北郷資知

 

北郷家先祖各靈神

1種ロ12号25側

 

都城島津家老臣。安政三年(1856)、領主の命を受けて江戸の安井息軒に学び、安政六年(1859)、帰郷。その間、江戸の情勢をつぶさに報じた。番頭、用人役に進み、文久二年(1862)、禁闕守護のため領主島津久静に従って上京。しかし、久静の急死にあい、同年七月帰郷。文久三年(1863)、誠忠派幽閉事件に連座したが、元治元年(1864)冬、本藩の介入によって旧に復し、兵制改革に尽力した。明治元年(1868)の戊辰戦争では内政を掌り、武器軍資の支出に苦慮した。明治四年(1871)、廃藩後は旧主家に従い、その家令となった。

 

望月光蔵

 

富岡忠幸之墓

1種ロ16号5側

 

富岡忠幸こと望月光蔵は、文政四年(1821)生まれ。神奈川奉行所に仕え、戊辰戦争では会津まで転戦。清水屋で土方歳三と同宿し、そこで「枕投げ」をしたと伝わるが、我々が連想するような(修学旅行の定番である)枕投げではなく、口論の末、手元にあった枕を投げつけたというのが真相のようである。同年八月、米沢に援軍を要請に行くがそこで終戦を迎えた。維新後は、神奈川県、熊谷県に勤務した。「夢乃うわ言」と名付けた手記を残した。明治二十三年(1890)没。

 

角田秀松

 

海軍中将従三位勲一等功二級角田秀松墓

1種ロ16号21側

 

会津藩士。嘉永三年(1850)、会津藩医角田良智の二男に生まれた。朝敵とされた会津藩において初めて海軍将官となった。日露戦争では、竹敷要港部の指令官を務めたが、明治三十八年(1905)、戦病死した。

 

星野恒

 

星野恒墓

1種21号16側

 

天保十年(1839)の生まれ。二十一歳のとき、郷里を出て、京阪を遊歴して江戸に至り、塩谷宕陰の学僕となったが、慶応三年(1867)、宕陰が亡くなったため郷里に戻った。明治元年(1868)、水原学校の教官となり、明治八年(1875)、東京に出て修史局に入り「大日本史料」の編纂に従事。三等掌記を皮切りに、明治十四年(1881)、四等編修官、明治二十一年(1888)、文科大学教授、明治三十九年(1906)、学士院会員。明治四十三年(1910)には史学会会長に推された。大正六年(1917)、年七十九で没。

 

荒井東道

 

荒井家

1種ロ21号37側

 

会津藩士。十二人扶持、医師。慶應四年(1868)八月二十三日(墓誌によれば八月二十九日)、会津柳津向所沢にて自刃。六十五歳。

 

樋口光

 

樋口光之墓

2種イ6号33側

 

会津藩士。会津敗戦後、斗南に移り、明治二十三年(1890)、旧主に従って東京に移住して家令となった。明治三十二年(1899)、六十歳にて病没。

 

 

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