平成二十八年(2016)に逝去された佐々木克先生の遺した名著。本書は平成十三年(2001)に刊行され、昨年復刊されたものだが、四半期を経た今なお輝きを失っていない。
本書の肝は、「東京遷都令」と呼べるようなものが出されなかったことから、従来なしくずし的に実行されたとされていた東京遷都について、明治二年(1869)二月四日に太政官が東京移転を布告し、同年三月二十八日に東京城を「皇城」とする布告がだされた。この布告をもって実質的な「遷都宣言」と位置付けている。
明治元年(1868)、まだ鳥羽伏見の砲煙が消え去らぬときに早くも大阪遷都論が議論されていた。もっとも有名なものが大久保利通の大阪遷都論であるが、その背景にあったのが新国家の新たな政治を新しい土地で新鮮な気持ちで行う、即ち政治の一新である。第二には数百年にわたる「因循な腐臭」に凝り固まった朝廷を改革すること。そのような朝廷から若い天皇を引き離すことにあった。佐々木先生は、「大久保が遷都を決断したもう一つの大きな理由は、京都からの脱出ということにあったのではないか」と推定している。長く京都の行政に携わった槙村正直は「頑固、隘陋、柔奸、狐疑…」と口を極めて京都の風土と人情を罵っている。佐々木先生は長く京都大学で教鞭をとられ、京都とは縁浅からぬ人だが、ここで個人的な京都体験を紹介している。祇園祭りの最中に選挙の宣伝カーが四条通りをスピーカを鳴らして通るのを止めさせて欲しいという要望が出されたときのことである。
――― 祇園祭には一千年の伝統があり、我々の先祖が受け継いでやってきた。選挙などたかだか百年にも満たない実績しかないではないか。祭りの邪魔になる。だから遠慮すべきである。
佐々木先生はいう。「これが京都人の意識なのである。行政はこうした意識や主張に配慮しなければ、たちまち立ち往生してしまう。」
京都人の端くれとして思わず苦笑してしまった。冗談でこの手のことを口にすることはあっても、公けに言ってしまうとその瞬間「京都の人間はこれだから…」と呆れられてしまうのがオチである。
興味深かったのが、明治新政府の要人が腫物に触るように京都に気を遣っていることである。彼らは明白に帝都を東京へ遷すことを考えていたが、彼らの日記や書簡、意見書や彼らが残した記録を見ても、「東京遷都」という表現が一切見られない。彼らは遷都という言葉を発することに関して極めて慎重であった。これは京都の人心を深く配慮してのことであった。佐々木先生は「この時期の彼らは,再幸という言葉を、遷都の意味をこめて、遷都とほぼ同じ意味で使っていたのではないか」と推測している。
明治二年(1869)三月の東京再幸は、実質的な東京遷都であったが、「太政官を東京に移し、京都に留守官を置く」と布告された。この布告は明らかに京都の市民を強く意識して作られたものであった。当時、再幸は東京への遷都に違いないとする声が、京都の人びとの間でささやかれ、市民の不安をかきたてていた。
結果的に遷都の発令は最後まで出されなかった。長州藩出身の広沢真臣は「政府の基本(基礎・基盤)をしっかりさせることが先決で、遷都の発令を急ぐことはない、民心が安定してからでよい」と述べていたが、これが政府の総意であろう。
この問題に関して、三条実美と岩倉具視のスタンスは対照的であった。三条の方が公家としての家格が高く、京都への思い入れが強くても不思議はないが、彼は京都の人心に多少の動揺があっても仕方がないと割り切っている。より先進的に見える岩倉の方が京都人に気を遣っている。三条と岩倉のこの違いは、幕末七卿落ちで長く都を離れていた三条と、常に京都に居て策動していた岩倉の「京都観」の違いが如実に現れたものかもしれない。
明治十六年(1883)、岩倉は京都を保存し、かつ古都に新しい性格を与えて、世界にアピールしようと主張している。
一、三大礼(即位、大嘗祭、立后)を京都でおこなう。
二、賀茂祭り、石清水祭などの旧儀を再興する。
三、御苑中に洋館を建造する(迎賓館にあてる)。
四、宝庫を築造して拝観をゆるす。
五、御所・御苑の公開。
六、二条城の管理と公開。
岩倉の意見は上記三を除いて、時期をずらしながらもほとんどが実現している。京都市民はもっと岩倉に感謝しなければいけない。
第一章「江戸か京か―幕末の首都はどこか」では首都が江戸から京都に移った経緯が記述されており、開国から王政復古に至る幕末政治史がまとめられている。佐々木氏の史観が随所に光る一節となっている。
「薩長密約は、以前は討幕のための密約であるといわれてきたが、そうした評価は間違いである」と明確に指摘している。薩長同盟は討幕のための軍事同盟ではなく、主眼は長州藩の政治的復権に薩摩が協力するというところにあるという主張が今や定説となっているが、今から四半世紀近くも前にそのことを明確に主張していることに改めて佐々木先生の慧眼を再確認することができる。
佐々木先生は「京都は首都・帝都の位置を東京に譲ったが、歴史的遺産や景観を大切にして、世界にも広く知られた、心のなごむ美しい都市となった。一方、東京は江戸を破壊し尽くして近代化を突っ走り、世界有数の巨大都市となった。しかし今、東京は世界でも有数の人の住みにくい都市となってしまった」と評する。
京都が美しい街で、東京が住みにくい街かどうかは議論があるところかもしれない。少なくとも、総務省が先日発表した人口移動報告を見ると、東京への転入超過は7.9万人に及び、首都圏については13万人を越える転入超過となっている。東京の一極集中と地方の過疎化は明白である。本当に東京が住みにくい街であれば、かくも人々は東京を目指さないだろう。
東京に首都機能が集中し、大手企業の本社が東京に所在し続ける限り、東京の一極集中は今後も続くだろう。首都機能の移転を議論するなら今をおいてないと思うが、真剣にそのことが政府内で議論されている様子は見られない(政治とカネの問題よりもこっちのほうが余程緊急性と重要性の高い案件だと思うのだが…)。日本の将来に禍根を残さないことを願うばかりである。
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