史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

水戸 元吉田

2010年12月18日 | 茨城県
(清巌寺)
 この日は、水戸の史跡を訪ねるために朝七時前に八王子を出たが、調布辺りで渋滞に遭い、水戸市内まで三時間近くかかってしまった。帰りは夕食に間に合うように史跡巡りを早めに切り上げたが、常磐自動車道で自動車四台による事故が発生し通行止めになってしまった。一旦、高速道路を下りて国道六号線を走ったが、これまた大渋滞であった。柏で再び高速道路に乗ったがそこでも渋滞。更に中央高速でも事故渋滞があって、結局帰路は六時間もかかった。事故に遭った人も災難だったとは思うが、その影響は甚大である。くれぐれも安全運転で願いたいものである。


清巌寺


結城朝道
結城一万丸 墓
結城七之助

 清巌寺の墓地には結城家の墓域があり、その一角に結城寅寿(朝道)、その子の一万丸(種徳)の合葬墓がある。「水戸の先人たち」(水戸市教育委員会)によれば、結城寅寿の墓は常陸大宮の蒼泉寺にもあるらしい。

 結城寅寿は、水戸藩門閥派の中心人物である。結城氏は南朝に仕えた結城宗廣以来という名族の出である。寅寿は、六歳で家督を継ぎ、天保十一年(1840)、二十三歳で小姓頭、翌年には参政に昇進し、更に藤田東湖とともに勝手改正掛に任じられた。この頃から門閥派の首領として改革派と対立が顕在化し始めた。弘化元年(1844)、斉昭が幕府から譴責を受け、致仕、謹慎を命じられると、門閥派が藩政の要職を門閥派が占めるようになり、寅寿も江戸詰めの表勤となって活動することになった。改革派の巻き返しにより表勤を罷免され水戸に返され、弘化四年(1847)には隠居・謹慎を命じられる。嘉永二年(1849)、斉昭が藩政に復帰。嘉永六年(1853)ペリーが来航すると政権は改革派が掌握することになったが、門閥派との対立は深刻の度合いを強め、その中心人物と目される寅寿は長倉陣屋(常陸大宮)に拘禁された。安政の大地震で藤田東湖、戸田蓬軒を失った改革派が巻き返しを図り、門閥派を次々と処刑した。結城寅寿も安政四年(1857)、斬罪に処された。四十歳。
 その子、結城種徳(一万丸)も家禄と屋敷を没収され蟄居処分を受け、寅寿と同じく拘禁された。絶食して牢死したとされる。

(蓮乗寺)


蓮乗寺

 蓮乗寺本堂裏には、天狗党の戦死者を弔う弔魂之碑が建てられている。


弔魂之碑

(常照寺)
 常照寺はかつて馬場氏の居城吉田城の跡という。


常照寺

 蓮乗寺門前の小径を五分ほど歩いて登ると、常照寺の境内に行き当たる。広い墓地の奥の方に水戸藩士にして画家、萩谷せん(“せん”は「僊」の旁)喬の小さな墓がある。せん喬は、立原杏所、林十江と並んで水戸の三画人と称される、江戸後期の水戸を代表する画家である。藩主斉昭にも愛され、しばしば公命を受けて作品を制作した。安政四年(1857)七十九歳にて死去。


せん喬萩谷君墓
(“せん”は「僊」の旁)

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