(桜川市役所真壁庁舎)
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浅野長勲 綱子像
桜川市役所真壁庁舎に浅野長勲(ながこと)、綱子の石像が建てられている(桜川市真壁町飯塚911)。
この像は、以前浅野家の菩提寺である傳正寺にあったが、震災で甚大な被害を受けたため、現在地に移設されたものである。
従一位勲一等 侯爵浅野長勲公像
この像のことは、熊田忠雄著「お殿様、外交官になる」(祥伝社新書)で知った。本書によれば、浅野長勲は「おとぼけ顔」、妻の綱子は「垂れ目顔」と評しているが、実際に像を確認してみて、的確な表現だと得心した。
浅野長勲は、安芸広島の最後の藩主。昭和十二年(1937)、九十六歳という長寿を全うした。この石像は、綱子が亡くなる前年(大正七年(1918))に完成し、除幕式には長勲自身も出席した。
(傳正寺)
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傳正寺
広島藩の浅野家の菩提寺が、何故遠く離れた真壁にあるかというと、浅野家の始祖長政が徳川家康から隠居料として真壁・筑波一帯を拝領し、真壁藩五万石が誕生したという所縁があるからである。
浅野家の墓地を詣でるために傳正寺を訪ねたところ、七年前の東日本大震災の復旧工事がまだ終わっていない状況であった。相当な被害だったのであろう。
墓地へ進もうとすると、寺の方で出てきて誰何された。いかにも迷惑そうだったので、残念ではあるが、浅野家の墓参りは諦めて引き返した。
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浅野長勲 綱子像
桜川市役所真壁庁舎に浅野長勲(ながこと)、綱子の石像が建てられている(桜川市真壁町飯塚911)。
この像は、以前浅野家の菩提寺である傳正寺にあったが、震災で甚大な被害を受けたため、現在地に移設されたものである。
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従一位勲一等 侯爵浅野長勲公像
この像のことは、熊田忠雄著「お殿様、外交官になる」(祥伝社新書)で知った。本書によれば、浅野長勲は「おとぼけ顔」、妻の綱子は「垂れ目顔」と評しているが、実際に像を確認してみて、的確な表現だと得心した。
浅野長勲は、安芸広島の最後の藩主。昭和十二年(1937)、九十六歳という長寿を全うした。この石像は、綱子が亡くなる前年(大正七年(1918))に完成し、除幕式には長勲自身も出席した。
(傳正寺)
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傳正寺
広島藩の浅野家の菩提寺が、何故遠く離れた真壁にあるかというと、浅野家の始祖長政が徳川家康から隠居料として真壁・筑波一帯を拝領し、真壁藩五万石が誕生したという所縁があるからである。
浅野家の墓地を詣でるために傳正寺を訪ねたところ、七年前の東日本大震災の復旧工事がまだ終わっていない状況であった。相当な被害だったのであろう。
墓地へ進もうとすると、寺の方で出てきて誰何された。いかにも迷惑そうだったので、残念ではあるが、浅野家の墓参りは諦めて引き返した。
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