(善光寺つづき)
鍵のかけられた扉の奥に「人力車発明記念碑」がある。塀越しに撮影するしかない。石碑は上部が欠けているため、車という字から下しか残っていない。この石碑は、明治初期に人力車を発明した和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助の功を伝えるものである。
人力車発明記念碑
従二位勲四等子爵河鰭實文墓
無縁墓石の最前列に河鰭實文の墓石がある。河鰭實文は、内大臣三条実万の五男に生まれたが、弘化二年(1845)の生まれ。万延元年(1860)、河鰭公述の養子となり、従五位下に叙され、文久三年(1863)には従五位上に進んだ。慶應四年(1868)二月、有栖川宮熾仁親王が東征大総督に任命されると、錦旗奉行を拝命し、親王に従って京都を発し、同年四月には江戸城に入り、ついで大総督府参謀加勢に任じられた。帰郷して錦旗奉行を免じられると、明治二年(1869)正月、侍従(旧官)に任じられ、戊辰の戦功により賞典禄百石を永世下賜された。明治三年(1870)、東京府出仕を命じられ、同年十月、東京府権少参事となった。その後、内務省御用掛、内務権少書記官、元老院議官等を歴任し、貴族院議員に互選された。明治四十三年(1910)、死去に際して、特旨をもって従二位に昇叙された。没年六十六。
河鰭實文の墓は、多磨霊園の河鰭家の墓に合葬されたため、善光寺の墓は無縁となったとのことである。
令和三年(2021)の大晦日は、竹様に誘われて、都内の霊園を回ることになった。この日の案内は、探墓巡礼顕彰会のKさん。私は初対面であった。私よりずっと年齢は若い方だが、とても墓や人物に関して造詣の深い方で、非常に感銘を受けた。「墓地を歩いていると寺の方に追い払われた」とか「犬に吠えかけられた」とか「カラスに襲われた」といった「掃苔あるある」で盛り上がった。
この日は非常に寒い一日であったが、日の暮れるまで歩き回って、一日の歩数は久しぶりに三万歩を越えた。
地下鉄表参道駅で待ち合わせして、最初にご案内いただいたのが善光寺である。善光寺の墓地においても、私はこれまで中御門経之の墓くらいしか確認していなかったが、ほかにも多数の公家の墓を紹介していただいた。
勘解由小路家之墓
勘解由小路(かでのこうじ)家の墓には、幕末の当主勘解由小路資生(すけなり)、その子の資承(すけこと)らが葬られている。
勘解由小路資生は、文政十年(1827)の生まれ。父は従二位裏松恭公。弘化元年(1844)正月、中務権少輔、嘉永四年(1851)、中務少輔に任じられ、以後弁官を歴任。その間、文久二年(1862)五月、勅使大原重徳の東下に当り、幕府に示すべきいわゆる三事策について朝臣に勅門があると、三条西季知、三条実美ら二十数名と連署して奉答建言し、同年十二月、国事御用掛となり、文久三年(1863)二月、河鰭公述とともに在京各藩周旋方を学習院に招いて意見を問うなど、国事に活動した。慶應四年(1868)三月、新征大阪行幸に供奉、四月、弁事に任じられ、八月、即位新式取調御用掛を仰せ付けられた。明治二年(1868)四月、山陵総管、八月、侍従を歴任。明治五年(1872)五月、宮内省六等出仕、明治九年(1876)十二月、宮中祗候となった。明治二十六年(1893)、年六十七で没。
松木家之墓
何の変哲もない墓石であるが、この墓もKさんにご教示いただいたところによれば、公家の松木(まつのき)家の墓である。松木家は、藤原道長の子で、右大臣を務めた俊家の嫡流で中御門とも号した。幕末の当主は松木宗有。
土御門家之墓
Kさんによれば、公家の土御門家の墓は、京都(梅林寺)にあるらしいが、ほとんど無縁と化しているらしい。
幕末の当主土御門晴雄(はるお/はれたけ)は、文政十年(1827)の生まれ。父は、陰陽頭土御門晴親。天保十三年(1842)、父の後をうけて陰陽頭となった。嘉永二年(1849)、右兵衛佐に任じられ、安政二年(1855)正月、正四位下に叙された。安政五年(1858)三月、幕府の条約勅許奏請に対する勅裁案に関し、中山忠能らと廷臣八十八卿列参上書に加わり、朝議の変改を請うた。ついで安政六年(1859)八月、民部卿となり十二月には近習に加えられ、元治元年(1864)正月、正三位に叙された。また御祈祷たびたび勤仕の賞として文久三年(1863)十二月、直衣を許された。明治元年(1868)、江戸の天文方を京都に移すことを請うて赦され、造暦およびその頒布に当たった。明治二年(1869)、年四十三で没。
角田家之墓(角田良智の墓)
会津藩出身者として最初の海軍将官となった角田秀松の父にして、会津藩医を務めた角田良智の墓である。傍らの墓誌には「明治二十年七月一日没」とある。
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