(津向屋)
市川三郷町鴨狩津向(つむぎ)は、静かで小さな集落である。ここから津向の文吉と呼ばれる一人の侠客が出た。現在、津向の文吉の生家には、生誕地碑が建てられている。
津向文吉生誕の地
(津向共同墓地)
津向文吉墓
津向の文吉は、文化七年(1810)、名主宮沢勘右衛門の次男に生まれた。天保八年(1837)、車田村の市兵衛と喧嘩となった。てっきり殴殺したものを思った文吉は駿府に逃走したが、天保十年(1839)、密告により奉行所に捕えられた。ところが、甲州に照会したところ誤認と分かり釈放されて津向に返された。嘉永の博徒狩りにより八丈島に流された。文吉は寺子屋や医者の真似事をして生計を立て、島の娘との間に男女二人の子を成した。維新の大赦により二十一年振りに故郷に帰ることができた。文吉は清水次郎長の喧嘩の仲裁人として知られる。明治十六年(1883)十月、七十三歳にて死去。
市川三郷町鴨狩津向(つむぎ)は、静かで小さな集落である。ここから津向の文吉と呼ばれる一人の侠客が出た。現在、津向の文吉の生家には、生誕地碑が建てられている。

津向文吉生誕の地
(津向共同墓地)

津向文吉墓
津向の文吉は、文化七年(1810)、名主宮沢勘右衛門の次男に生まれた。天保八年(1837)、車田村の市兵衛と喧嘩となった。てっきり殴殺したものを思った文吉は駿府に逃走したが、天保十年(1839)、密告により奉行所に捕えられた。ところが、甲州に照会したところ誤認と分かり釈放されて津向に返された。嘉永の博徒狩りにより八丈島に流された。文吉は寺子屋や医者の真似事をして生計を立て、島の娘との間に男女二人の子を成した。維新の大赦により二十一年振りに故郷に帰ることができた。文吉は清水次郎長の喧嘩の仲裁人として知られる。明治十六年(1883)十月、七十三歳にて死去。
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