(興禅寺)
興禅寺
黒河内家墓
傍らの顕彰碑によれば、会津藩長沼流軍学者黒河内家中興の祖と称される黒河内松斎が安政五年(1858)五月に没した後、嫡男十太夫高興(式部)が跡を継ぎ、四百石軍事奉行を務めた。式部は慶應四年(1868)八月二十三日、藩主松平容保が滝沢本陣から引き上げ鶴ヶ城に入城しようとした際、周囲を敵兵が十万しており、甲賀町郭門を開くことができず、六日町郭門からの入城を試みた。式部も藩主の楯となり、進路を開いた。その結果、容保は入城を果たしたが、式部は多くの将兵とともに戦死した。五十三歳。軍事の家系らしく、墓は珍しい槍の穂の形をしている。
山本家之墓
黒河内家の背後の山本家の墓に山本季太郎が合葬されている。墓碑によれば、法名は「修覚院義山觀忠居士」。慶応四年(1868)八月二十三日戦死。
青柳家之墓
青柳篤四郎(「幕末維新全殉難者名鑑」では徳四郎)は米沢藩士。法名「威神院本極體明居士」。慶応四年(1868)七月二十五日、越後蒲原郡押切村にて戦死。四十二歳。
(正源寺)

正源寺
周囲をマンションに囲まれた正源寺に会津藩士瀬野久吾の墓がある(港区白金2‐7‐19)。
久光院忠山義芳清居士(瀬野久吾の墓)
墓石背面に記載されているところによれば、瀬野久吾は会津藩士。慶応四年(1868)八月二十三日、大野ヶ原にて戦死。遺体は戦地に埋められたそうである。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載無し。

興禅寺

黒河内家墓
傍らの顕彰碑によれば、会津藩長沼流軍学者黒河内家中興の祖と称される黒河内松斎が安政五年(1858)五月に没した後、嫡男十太夫高興(式部)が跡を継ぎ、四百石軍事奉行を務めた。式部は慶應四年(1868)八月二十三日、藩主松平容保が滝沢本陣から引き上げ鶴ヶ城に入城しようとした際、周囲を敵兵が十万しており、甲賀町郭門を開くことができず、六日町郭門からの入城を試みた。式部も藩主の楯となり、進路を開いた。その結果、容保は入城を果たしたが、式部は多くの将兵とともに戦死した。五十三歳。軍事の家系らしく、墓は珍しい槍の穂の形をしている。

山本家之墓
黒河内家の背後の山本家の墓に山本季太郎が合葬されている。墓碑によれば、法名は「修覚院義山觀忠居士」。慶応四年(1868)八月二十三日戦死。

青柳家之墓
青柳篤四郎(「幕末維新全殉難者名鑑」では徳四郎)は米沢藩士。法名「威神院本極體明居士」。慶応四年(1868)七月二十五日、越後蒲原郡押切村にて戦死。四十二歳。
(正源寺)

正源寺
周囲をマンションに囲まれた正源寺に会津藩士瀬野久吾の墓がある(港区白金2‐7‐19)。

久光院忠山義芳清居士(瀬野久吾の墓)
墓石背面に記載されているところによれば、瀬野久吾は会津藩士。慶応四年(1868)八月二十三日、大野ヶ原にて戦死。遺体は戦地に埋められたそうである。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載無し。
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