史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

野洲

2023年02月11日 | 滋賀県

 野洲という地名を聞くと、一種の恐怖感を覚える。東京でいえば、上野原か大月くらいの印象である。今はどうか分からないが、私が若い頃、野洲往きの快速電車で酔っ払って寝過ごしてしまい、駅員さんに起こされた人の何と多かったことか。当然、大阪方面に戻る電車は既になく、駅前にも宿泊施設らしきものは見当たらず、呆然とするしかない。一変に酔いが醒めてしまうのである。当時は、同じような境遇の人をまとめてタクシーに乗せて、大阪方面に送り届けるという「アリ地獄的商法」が存在していたが、今はどうなっているのだろうか。

 

(大篠原)

 

明治天皇聖蹟碑

 

 野洲市大篠原の旧道沿いに明治天皇聖蹟碑がある。昭和十五年(1940)の建碑。題字は、総理大臣近衛文麿。明治十一年(1878)十月十二日と同月二十一日に滞在。

 

(辻町)

 辻町の森石材店の裏の民家の前に明治天皇御遺蹟碑が建てられている。明治十一年(1878)十月十二日および二十一日に滞在。

 この碑の写真を撮影しようと近づくと、その民家から男性が現れ、「ここはうちの敷地だから、勝手に入っては困る」と抗議を受けた。慌てて敷地の外に出て、石碑の写真を撮影させてもらった。

 

明治天皇御遺蹟

 

(三上山登山口)

 三上山登山口に保民祠と天保義民碑が建てられている。天保十三年(1842)、当地で勃発した天保一揆の犠牲者を顕彰し、義挙の精神を後世に伝え、義民の遺徳を偲ぶためのものである。保民祠は、明治二十六年(1893)、天保義民碑は明治二十八年(1895)に建立された。なお、保民祠は損壊が著しいため、平成四年(1992)に旧祠と同じ様式で新築されている。

 

保民祠

 

天保義民碑

 

 天保一揆は、幕府役人が五尺八寸(百奈々十六センチメートル)の間竿に六尺一分(百八十二センチメートル)の目盛りを入れて、公然と不正検地によって年貢増徴を図ろうとしたことに、野洲、甲賀、栗太四万人の農民が、三上村庄屋土川平兵衛らを指導者として立ち上がったもので、幕府役人に検地を十万日日延べする証文を書かせて、一揆勢は勝利を収めた。ただし、土川平兵衛らは首謀者として江戸に送られ、苛酷な取り調べの後、獄死した。

 

 ここにきて突然雨が強く降り始めた。写真を撮影すると、走って自動車まで戻った。近くに駐車場がないので、相当距離走るはめになってしまった。

 

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