(山鹿市墓地公園)
史跡西南の役協同隊士三人野満顕彰の碑
野満安親 野満富記 墓
野満家累代墓
山鹿市墓地公園に野満三兄弟の墓がある。
野満安親と富記兄弟は、従兄弟長太郎とともに植木学校に学び、自由民権思想の宣揚に尽瘁した。明治十年(1877)二月、薩軍起つや、一同集まって参戦の是非を協議したが、議論百出する中、死を賭けた安親の一声で参戦が決まり、協同隊が結成された。二月二十二日、熊本城総攻撃が始まると、安親、富記の兄弟は、まっさきに城壁に取り付き奮戦。「我らの死にざまを見よ」と叫ぶと、兄弟互いにその名を連呼しつつ、弾丸雨中の中、壮烈な戦死を遂げた。
野満長太郎は、沈毅にして胆略があった。協同隊の幹部として各地を転戦したが、八月十七日、薩軍の解体宣言を受けて降伏した。投獄されたが、二年余にして放免され、爾来郷党の指導者として推重された。野満兄弟の一つおいて左の墓に合葬されている(周囲は野満家の墓がいくつもあって、どれに長太郎が葬られているのか簡単に特定ができない。K氏が縁者の方に連絡をとっていただき、ようやく判明した)。

史跡西南の役協同隊士三人野満顕彰の碑

野満安親 野満富記 墓

野満家累代墓
山鹿市墓地公園に野満三兄弟の墓がある。
野満安親と富記兄弟は、従兄弟長太郎とともに植木学校に学び、自由民権思想の宣揚に尽瘁した。明治十年(1877)二月、薩軍起つや、一同集まって参戦の是非を協議したが、議論百出する中、死を賭けた安親の一声で参戦が決まり、協同隊が結成された。二月二十二日、熊本城総攻撃が始まると、安親、富記の兄弟は、まっさきに城壁に取り付き奮戦。「我らの死にざまを見よ」と叫ぶと、兄弟互いにその名を連呼しつつ、弾丸雨中の中、壮烈な戦死を遂げた。
野満長太郎は、沈毅にして胆略があった。協同隊の幹部として各地を転戦したが、八月十七日、薩軍の解体宣言を受けて降伏した。投獄されたが、二年余にして放免され、爾来郷党の指導者として推重された。野満兄弟の一つおいて左の墓に合葬されている(周囲は野満家の墓がいくつもあって、どれに長太郎が葬られているのか簡単に特定ができない。K氏が縁者の方に連絡をとっていただき、ようやく判明した)。
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