史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

浜松 Ⅳ

2022年05月21日 | 静岡県

(浜松報徳館)

 本来、花粉症のシーズンであり、この時期に外出するのはあまり気が進まなかったが、浜松市内から史跡の旅を始めた。浜松のあとは掛川、焼津、藤枝、静岡を巡った。天気にも恵まれ、快適な旅となったが、かなりの量の花粉を浴びてしまった。

 

浜松報徳館

 

二宮尊徳像

 

安居院先生頌徳碑

 

 浜松報徳館には安居院庄七の顕彰碑がある。

 安居院(あごいん)庄七は、寛政元年(1789)の生まれ。父は権大僧都密正院秀峯。先祖は相模国大山の修験者で、代々権大僧都であった。長じて曾屋村の安居院家を継いだ。幼時より利発、大志を抱き、「一軒の家を興すより、一万軒の家を興す」と言って、天保十四年(1843)、小田原藩領下野国桜町に二宮尊徳を訪ね、報徳の教えを修得した。尊徳の理論を身をもって実践する決意を固め、弟の浅田勇次郎とともに浜松を中心に東海地方に遊説すること二十年。それより浜松在下石田報徳社をはじめ、着々と東海方面の村々を説いて、教化六十余村に及んだ。嘉永元年(1848)、庄屋岡田佐平治を説き、牛岡組報徳社を掛川在に結成したが、これが現在の報徳社の始まりで、その数は六十一社に達した。その後、嘉永六年(1853)、いわゆる遠州七人衆(内田啓助、岡田佐平治、竹田兵右衛門、桜井藤太夫、中村常蔵、山中利助、神谷与平治)を引き連れて二宮尊徳を日光に訪ね、ますます報徳の道に専心する覚悟を深めた。その後、十年間、驕る心をおさえ荒地を開墾し、用水路を開き、農耕を奨励し、善行の人を表彰。貧しい人を哀れみ、勤勉・倹約・清廉を旨として東海の村々を感化したが、文久三年(1863)、浜松の田中五郎兵衛方にて客死した。年七十五。

 「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば、安居院庄七の墓は浜松市田町の玄忠寺にあるという。玄忠寺は、浜松駅近くの繁華街に位置しており、しっかり鍵がかけられて中に入ることはできなかった。奥の方に寺族の墓地や墓石らしきものが複数確認できたが、残念ながら確信を得ることはできなかった。また玄忠寺の墓地は、市内の中沢霊園に移されているという情報を得たので、念のため中沢霊園にも足を運んでみたが、そこでも安居院庄七の墓を発見することはできなかった。

 

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