史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「開国のかたち」 松本健一著 岩波現代文庫

2008年11月29日 | 書評
 著者松本健一は、「評論家」と紹介されているが、この本を読むと立派な「歴史家」である。幕末に活躍した多くの思想家や活動家の言葉を紹介しながら、「開国のかたち」を明らかにしていく。
 まず冒頭でペリーが白旗をもって開国を迫ってきた事実を指摘する。ペリーは大統領フィルモアの国書を持参し、あたかも友好的に通商を迫ったかのように伝えられているが、真実は驕傲無礼な砲艦外交であったというのである。
 アメリカが砲艦をもって脅してきた事実を察知した佐久間象山は、「アメリカは本来法の国だったのではないか。イギリスが中国やインドでやったように、或いはフランスがベトナムでやったように、干戈に訴えて他人の国を奪うようなことをやってこなかったではないか。どうしてあのときだけ干戈に訴えたのか」とアメリカを舌鋒鋭く非難する。
 象山と並んでこの時代を代表する思想家である横井小楠の「外国と交遊するなら「有道の国」とのみ交遊すればよい。「無道の国」とはしなくてよい」という論は、果たして列強の砲艦の前に通用したかどうかは別として、当時のナショナリストの心を捉えるに十分であった。
 「南洲翁遺訓」において西郷隆盛は、西洋は野蛮だと主張する。なぜなら「西洋が文明ならば、未開の国に対して「慈愛」の心をもって、懇々とその未開のゆえんを説き、開明に導くべきであるのに、相手が未開だとみてとると「残忍」をきわめ、「己を利する」ような行為をする」からだという。松本氏は「(西郷が)西洋の帝国主義的な政策に倣った「征韓論」などを主張するはずがない」と説く。
 明治国家は西郷を捨てて、帝国主義へ走る。司馬遼太郎先生によれば「欧米の帝国主義列強に対抗するためには、明治政府であれ徳川幕府であれ、日本はヨーロッパにならった「帝国主義」的な国づくりをするしかなかったろう」といっている。
 そう考えると、西郷が政変で下野した明治六年は日本史の分岐点だったのかもしれない。明治政府が西郷を遣韓使節として朝鮮に送っていたら、その後の日中韓の不幸な歴史も塗り替えられていたとは考えられないだろうか。

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