「脱藩大名」とは上総請西藩主林忠崇のことである。林忠崇が藩を抜けて幕府のための戦いに挑んだのは、弱冠二十歳のときである。この結果、上総請西藩は戊辰戦争後に唯一改易処分(城地没収処分)を受けることになる。若さゆえの暴挙というべきかもしれない。しかし幕末の混乱期、保身のために右往左往している藩が圧倒的に多い中、一直線に己の信念を貫いた姿勢は爽快ですらある。
林忠崇は奥羽越列藩同盟の崩壊と同時に仙台で降伏した。忠崇は廃君となり、林家は弟忠弘に相続されることになった。謹慎処分が解けたあと、忠崇は元の領地に帰って農民として過ごし、更に東京府に出仕して下級官吏として勤務したこともあった。三年足らずで官を辞すると、今度は商家の番頭に就いたり、宮内省に出仕したり、日光東照宮の神官になったり…と職を転々としたが、要は当人にしてみれば長い余生だったのであろう。昭和十六年(1941)九十四歳で世を去ったが、死に際して辞世を求められると「明治元年にやった」と笑って答えたという。その明治元年に作られたという辞世―――
真心のあるかなきかはほふり出す
腹の血しをの色にこそ知れ
「長い余生」と言えば、明治元年(1868)時点で三十二歳だった徳川慶喜は七十七歳で亡くなっているから、四十年以上の余生を送ったわけだが、忠崇の余生は実に七十年以上に及ぶ。幕末とそれに続く明治時代は、その時代に生きた人たちに実に様々な人生をもたらしたが、かくも歪な人生も明治維新の所産といえるのかもしれない。
林忠崇は奥羽越列藩同盟の崩壊と同時に仙台で降伏した。忠崇は廃君となり、林家は弟忠弘に相続されることになった。謹慎処分が解けたあと、忠崇は元の領地に帰って農民として過ごし、更に東京府に出仕して下級官吏として勤務したこともあった。三年足らずで官を辞すると、今度は商家の番頭に就いたり、宮内省に出仕したり、日光東照宮の神官になったり…と職を転々としたが、要は当人にしてみれば長い余生だったのであろう。昭和十六年(1941)九十四歳で世を去ったが、死に際して辞世を求められると「明治元年にやった」と笑って答えたという。その明治元年に作られたという辞世―――
真心のあるかなきかはほふり出す
腹の血しをの色にこそ知れ
「長い余生」と言えば、明治元年(1868)時点で三十二歳だった徳川慶喜は七十七歳で亡くなっているから、四十年以上の余生を送ったわけだが、忠崇の余生は実に七十年以上に及ぶ。幕末とそれに続く明治時代は、その時代に生きた人たちに実に様々な人生をもたらしたが、かくも歪な人生も明治維新の所産といえるのかもしれない。
そうそう自分も持っていると、本棚から取り出しました。
私は本を読み終えると、最後のペ-ジに読み終わった、年月日を記してあります。
この本には記入がありません。積読だったようです。
本のカバ-に若干汚れがあります。この本に
申し訳ない。
で、読み始めることにしました。遅々とした、読み方なのですが。
本を読めば、その感想など書いておけば、記憶にも残るんでしょうが、記憶に残すためにはそんな
努力も必要なんでしょうね。
いつも有り難うございます。
私はいつも通勤電車の車内と寝る前にベッドで本を読んでいますので、常に複数の本を並行して読んでいます。そうすると、ついこの間読んだばかりのことでも、あとから思い出そうとしても、どの本に書いてあったのか分からなくなってしまいます。それも年を重ねるにつれて、ひどくなっているように感じます。情けないことですが…。という次第で備忘の意味も兼ねて「感想文」を残すようにしています。
記憶に残すためには感想文はやはり必要なんですね。
さて、私、先日から歯医者に通っていまして、その待ち時間のために、本屋で簡単な本をと思って、
山本周五郎の「ならぬ堪忍」という本を買い求めました。
その中で、こんなことってあるのかな、という一話があったので、植村様の感想をお聞きしたいと思いました。
「白魚橋の仇討ち」というのですが、隣同士仲良く暮らしていた、高木、太田両家。ある事で太田が
乱心し、高木が殺してしまいます。
それが元で、太田の家族は行方不明に。
そして、高木も自分の子供に、太田の家族をさがしだして、よく面倒を見てやるように言い残して亡くなります。
夫の実家に暮らしていた太田の家族、周りに攻め立てられて仇討ちに江戸に戻ります。
結局、「おなつかしや」と近づいた高木の子供が
太田の家族に仇討ちとして殺されてしまいます。
そして、高木の家は断絶、と。
殺した本人でなく、その子供が仇討ちの標的にされるなんて、実際理不尽に思いますが、こんなことも
あったんでしょうか。
長文で失礼しました。
私は山本周五郎の小説はあまり読まないのですが、多分「仇討ち」の話は創作なのでしょうね。でも仇討ちが当たり前の時代にあっては、そのような事故があって不思議もありませんが。