文久三年(1863)に長州藩が起こした攘夷戦争(下関戦争=広義ではその後の四か国連合艦隊との戦闘まで含むが、ここでは文久三年の攘夷戦争のことを指す。)の報復として、その翌年元治元年(1864)六月、英・仏・蘭・米の四か国連合艦隊が下関に来襲し、三日間に渡って戦闘が交わされた。連合艦隊は長州藩の砲台を破壊し、さらに上陸して大砲の火門に釘を打ったり、砲架に火を点けたりして使用不能にした。このとき下関の各砲台に設置されていた大砲のうち54門が、連合艦隊に戦利品として接収され、四か国に分配された。その一部が今もオランダ、ブランス、イギリス、アメリカに残されている。本書は筆者がその四か国に残る大砲を訪ねた記録であるが、単なる旅行記ではなく、大砲の詳細な調査研究成果の論文にもなっており、非常に読み応えがある。
山口県在住の直木賞作家古川薫氏(故人)がフランスのアンバリッド廃兵院で長州砲を発見し、その返還運動に尽くされたことは私も知っていた。そこで昨年のパリ訪問時には、アンバリッド廃兵院で長州砲を探してみたが、見つけることができなかった。本書第三章「パリの大砲」によれば、アンバリッドには三門が保管されていた。荻野流一貫目玉青銅砲(和式砲)は、回廊の内側に置かれていたというが、昭和五十九年(1984)、フランス大統領の好意により、長州藩主の甲冑と相互貸与の形で返還され、現在は長府博物館に展示されている。
残る二門は西洋式カノン砲である。一門は北門を入ってすぐのところ、向かって右側(西側)の大砲群の中にあったという。本稿が書かれたのが令和十六年(2004)のことで、私が訪れたのとは二十年の時差がある。この二十年で保管場所が二転三転している。第六章「欧州の長州砲のその後」によれば、その後「アンバリッドの北門前庭に置かれていた十八ポンド砲は砲架に乗せられ、さらに西の端(エッフェル塔寄り)に移された」という。さらに令和二十六年(2014)には北門前庭東側に移されたとされている。そこは見たはずなんだけど、なぜ見つけられなかったのだろう???
なお、残る一門(二十四ポンドカノン砲)は行方不明となっていたが、これもアンバリッドの中庭に置かれていることが判明した。中庭も一周したんだけど。いやあ、気が付かなかったな。
第二章は「オランダの下関砲」。古川薫氏の著作によれば、一門はアムステルダム国立博物館(おそらくアムステルダム国立美術館のことだろう)、一門は所在不明とされていた。筆者はデン・ヘルダー(アムステルダムから電車で約一時間半)の海軍博物館を訪ね、そこで一門の青銅砲と対面している。その砲耳に刻まれた「26」という数字が、イギリスの海軍が鹵獲・分配した際に作成した記録(ヘイズ・リスト)の識別番号26であることを突き止めた。この辺りの記述は、一片のミステリー小説のようである。
筆者はイギリスとアメリカの長州砲も丹念に追跡している。イギリスの長州砲は、ウリッジ(Woolwich)の王立大砲博物館敷地内にあるロタンダ展示館に二門が展示されているとされている。ところが、ウリッジの王立大砲博物館(Fire Power Royalartillery. Museum)を調べてみると、2018年に閉鎖されてしまったようで、その後、長州砲がどこに保存されているのか行方が分からない。また、かつてイギリスのポーツマスには三門の長州砲が存在していたことが確認されているが、これも行方知れずとなっている。ロタンダ展示館にあった長州砲が同じ運命をたどらないよう祈るばかりである。
アメリカの長州砲は、ワシントンDCのネイヴィーヤード内ダールグレン通りの西側に保存されている。ヘイズ・リストによれば、アメリカに分配された長州砲は一門しかなく、それがこのボンベカノン砲である。具体的な計画があるわけではないが、いつかワシントンDCにあるこの長州砲も見てみたいと思う。
一般的には、四か国連合艦隊の近代兵器の前に、長州藩は旧式の兵器によって対抗したため、あっけなく敗北したとされている。筆者は「連合艦隊側ないし英国側の防長制圧からさらに大阪等への進撃・制覇の意図を結果的に阻止できたことを考えれば、欧米連合艦隊に対して良く頑張ったというべきであろう」としている。「連合艦隊側ないし英国側の防長制圧からさらに大阪等への進撃・制覇の意図」というのは、本書で初めて知ったのだが、新しい解釈を提示するのであれば、その根拠(できればイギリス側の資料)を開示してもらいたいものである。筆者は参考文献として「拙著前掲」書を挙げているが、「大阪学院大学通信」という大学の発行している論文集のようで、残念ながら一般的には入手が難しそうである。
筆者が指摘するように、長州藩が旧式で戦ったという従来の見方は改める必要があるだろう。長州藩では天保十二年(1841)、高島秋帆が行った徳丸原での西洋流銃陣演習にも人を送り、それを契機に和流から西洋流への転換を図っている。「旧式とはいえ、当時欧州でも前年までは通常実戦に使用されていたレベルの大砲を、鉄製と銅製の違いはあるが」使っていたという指摘は正確である。技術の差といえば、数年の間に生じたイノベーションまで取り入れることはできなかった。その程度の差であったが、この時代、戦争の続いた欧米での兵器の革新が目覚ましかったのも事実である。
長州藩の戦国期の砲術家郡司讃岐は「当初、防府三田尻に住み、朝廷から認められた参内鋳物師の塚本家を継ぎ洪鐘・仏具等の鋳造に携わるとともに、岳父中村若狭守隆安(隆康)から隆安流(隆安函三流・隆康流、・高安流ともいう)砲術を伝授され、仏郎機、石火矢とも呼ばれる大銃の鋳造にも携わっていた。(中略)彼は砲術と鋳砲の技により毛利家に召し抱えられ、防府から萩へ移住した。」とされる。
その後、郡司讃岐は、松本(松下村塾のあった松本村)と椿青海に鋳造所を開いた。その二つの鋳造所は幕末まで存続した。彼の子孫は、砲術家五家と鋳造家二家に分れ、代々大砲の運用(砲術)と大砲あるいは洪鐘等の鋳造に関わってきた。筆者は、青海鋳造所を継ぐ郡司家(幕末期の当主は郡司富蔵信成)の末裔である。本書奥がきによれば、連結会計について著書もある公認会計士が本職のようだが、本書は歴史家顔負けの仕上がりとなっている。執筆動機には先祖の製造した大砲の行く末を知りたいという熱意があるだろうが、それにしても凄まじい執念を感じる一冊である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます