本書は、今から二十年前の平成十六年(2004)に講談社+α文庫より「日本警察の父 川路大警視」として発刊されたものを再編集して改題したものである。さすがにこの二十年で見直された歴史について、最新の知見が反映されていないのはしょうがないとして、明らかな誤り(たとえば、出羽米沢出身の千阪高雅を石川県士族としたり、京都府参事の槇村正直のことを植村正直と表記したり…)は訂正して欲しかった。
川路利良という人物の特質が一番よく表れているのが、明治六年の政変の後、西郷隆盛が辞職して帰郷すると、文武の薩摩系官吏が一斉にあとを追って辞職した場面である。この時、警保助兼大警視であった川路は、ほかの警保寮の奏任官とともに太政官に上申書を提出している。
「臣等惶恐(せいきょう)俯(ふし)て惟(おも)ふ。刑罰は国家を治ル要具、則(されば)一人を懲して千万人恐る。」
公明正大であるべき法の執行に愛憎(私情)を挟むのはおかしい。「曩(すで)に京都府参事槇村正直、拒刑の罪あり」――― それを拘留しておきながら、今ふいにそれを解くのは「臣等驚き且つ怪しむ」。邏卒たちが懸命にその職務を遂行するのは「一に信賞必罰法令厳重にして、以て之を約束せざるなし」だからであって、「今若し政府愛憎を以て、法憲軽重するが如き曖昧倒置の挙措ありと誤認せば、即ち曰はん、国家の大臣信ずるに足らざるべしと、既に如斯(そのごとく)、況(いわん)や区々の法令約束何の頼む所ありて能く勤労せん。数千の属員をして一度離心を抱かしめ、法令行はれざるに及んで、遂に制馭する能はざるの勢に至る必せり」これは「近衛の士卒非役を命ずる者数千人」も同罪と断じた。
川路は幕末以来、西郷によって卑賎の身から引きたてられた経歴をもつ。周辺の人間は誰もが川路も西郷のあとを追って下野するだろうと考えていたが、川路の発想は全く異なっていた。ここに彼の思想や国家観を見ることができる。国家の仕事を遂行するのに、愛憎だとか恩義とかを持ち込むべきではないというのである。
川路は「冀(ねがわ)くば政府速(すみやか)に明諭し、(槇村)正直の為に下す所の特命の旨と近衛兵動揺のことの由とを審」せよと主張し、この上申書の勢いそのまま上司である大久保利通に迫った。大久保は川路に対して懸命の説得を行い、最後は「もう少し時期を待って欲しい」と懇願することで川路はようやく矛を納めるところとなった。川路は、よく言えば筋を通す熱血漢、悪く言えば融通がきかない頑固者であった。
川路と対照的だったのが、同じ薩摩出身の同僚、坂元純煕であった。坂元は、川路が洋行する直前に川路と並んで警保寮助大警視に就任し、川路の留守中警保助として実質的に警察を取り仕切った人物である。坂元は警保寮が司法省から内務省に移管された明治七年(1874)一月十日、辞表を提出した。この時、鹿児島出身の警察官吏約百余人もこれに従った。坂元は一旦鹿児島に戻ったものの、旧近衛兵の連中とはそりが合わず、間もなく東京に戻ってきた。しかし、さすがに内務省には戻れず、陸軍省に入った。西南戦争にも少佐として従軍した(因みに川路は西南戦争時には臨時的に陸軍少将に昇進している)。
彼は連日眠る時間を惜しんで職務に尽くした。睡眠時間を四時間と定め、死ぬまでそれを実践した。己に厳しいだけではく、警察官に「警官は人民のために死すべし」と訓示し、警察官は国家、国民の盾であり、滅私奉公以外につとめようはないとし、厳格な規律をもとめた。今なら過労死を厭わないパワハラ上司ということになるだろう。しかしながら、我が国の警察の草創期にこのような意思堅固な指導者を頂いたことは、現代日本の警察の姿を思い合わせると警察にとっても幸運だったのではないだろうか。
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