史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

伊達

2015年11月28日 | 北海道
(伊達開拓記念館)
伊達市は、その名のとおり明治三年(1870)、仙台藩の亘理領主伊達邦成とその家臣団が集団移住して、開拓したという歴史を持つ。
街の中心部に開拓記念館があり、開祖伊達邦成ゆかりの史料や書画、美術工芸品などが展示されている。
私が訪れた日、「だて食のフェスティバル」と呼ばれるイベントが開かれており、たくさんの家族連れが集まっていたが、幸いにして開拓記念館の方はさほど人気はなく、落ち着いて見学することができた。
伊達保子ら歴代の姫様が持参した雛人形四十五体など、展示品の数々に目を奪われた。


伊達開拓記念館


瓶子

 梨地蒔絵瓶子は、江戸初期の作品である。


雛人形

 迎賓館は、仙台の伊達邸を建てた大工田中長吉を棟梁とし、明治二十五年(1892)に開拓者の総力を集めて建てられたもので、洋風(公の場)と和風(私の場)を配した数寄屋風の書院造りとなっている。当時、開拓状況を視察した政府高官や開拓使などの接待のために利用され、昭和十年(1935)から昭和三十年(1950)までは伊達家の居所として利用された。その後、敷地とともに伊達市に寄付された。


迎賓館


開拓記功碑

 迎賓館の近くには、伊達邦成像や田村顕允像、開拓記功碑、伊達町百年記念碑などが建てられている。


伊達邦成公像

伊達邦成(くにしげ)は、第十四代亘理領主。岩出山伊達氏の出で、亘理伊達氏に婿養子に入った。当別の開拓に当たった伊達邦直は実兄である。戊辰戦争における仙台藩の降伏後、石高を二万三千石からわずか五十八石に減らされたため、家老田村顕允の進言を容れ、明治三年(1870)、北海道への移住を決意。明治二十五年(1892)、開拓の功により勲四等瑞宝章を受勲、男爵に叙せられた。


田村顕允翁像

(伊達市霊園)
伊達市営墓地は、道央自動車道伊達ICの直ぐ近く、日当たりの良い斜面に設けられている。墓地の一番下の一番奥に伊達家の墓域があり、そこに伊達邦成夫妻、そしてそれを見守るかのように伊達保子(貞操院)の墓がある。そこから少し離れたところに、家老田村顕允の墓もある。


後大雄寺殿天山慈照大居士(伊達邦成墓)


伊達邦成肖像(伊達開拓記念館蔵)


貞操院殿眞顔淳榮大姉(伊達保子墓)


伊達保子肖像(伊達開拓記念館蔵)

伊達保子(やすこ)は、第十一代仙台藩主伊達斉義の娘に生れた。藩主伊達慶邦の妹である。天保十五年(1844)、亘理領主伊達邦実に嫁いだ。安政六年(1858)夫と死別し、邦成を養子に迎える。維新後、邦成の北海道移住計画に協力して、明治四年(1871)自らも北海道に移住した。移住には動揺する家臣も多かったが、保子の存在は家臣団の精神的支柱となったという。現地では自ら養蚕に着手するなど、伊達市における養蚕の基礎を築いたといわれる。明治三十七年(1904)、七十三歳にて死去。


正六位勲六等田村顕允之墓

田村顕允(あきまさ)は、旧名を常盤新九郎といった。邦成に対し北海道有珠郡への移住を進言し、自ら牧畜を進め、農社の結成などを図り、今日の伊達市の基礎を築いた。大正二年(1913)、八十二歳にて死去。

(有珠善光寺)


有珠善光寺


河西祐助・うめの墓

有珠善光寺は、十代将軍家斉によって蝦夷三官寺の一つに指定され、住職が鎌倉五山から送られたという由緒正しい寺院である。
八王子千人同心河西祐助・うめ夫婦の墓を参るため有珠善光寺を訪ねた。境内を2周したが、それらしい墓が見つけられない。そこで本堂に入ってそこにいた女性に尋ねたところ、彼女は副住職を呼んでくれた。副住職も女性の方であったが、分かり易くその場所を教えてくださった。
河西祐助夫妻の墓は、阿弥陀堂裏の道をひたすら真っ直ぐ行けばよい。左に曲がれば展望台、右に折れれば石割桜という辻があるが、そこを直新すると、墓地がある。墓地入口付近に古い墓石が並べられているが、その中央辺りにある「男 河西稿太郎建之」と書かれた墓石がそれである。


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