(黒羽城址公園)
黒羽城 本丸跡
黒羽城は、外様大名大関氏一万八千石の居城である。大関氏は、江戸期を通じて一度も改易・転封がなく、明治四年(1871)の廃藩置県まで約三百年間、黒羽を本拠とした。黒羽城は、廃藩置県とともに廃城となり、現在は公園として整備されている。城郭らしいものは一切残っていないが、土塁や堀といった遺構は、今でもよく保存されている。
幕末の藩主、大関増裕は、外様大名ながら幕府の若年寄に抜擢され、陸海軍奉行等を歴任した。藩政改革にも取り組んだが、慶応三年(1867)十二月、帰城して遊猟していた際に病を発して急死した。三十歳という若さであった。
黒羽城 土塁跡
黒羽藩は、奥州に接した場所にあって、いち早く新政府への恭順を表明した。この地域では珍しく、洋式化された近代的装備を備え、各所で善戦した。また那珂川を通して、食糧、武器、弾薬等を輸送し、越堀河岸から揚げて白河へと運びこんだ。これらの功から戦後の論功行賞では高く評価され、一万五千石という破格の賞典禄を与えられた。
(大雄寺)
大雄寺山門
大雄寺(だいおうじ)は、戦乱により焼失したが、第十代大関忠増によって再建され、天正四年(1576)第十四代大関高増のとき居城を余瀬白旗城から黒羽に移したときに、現在地に移設された。以来、大関氏の菩提寺となり、墓所には代々の墓が整然と並べられている。
大雄寺本堂
大雄寺は、曹洞宗の禅寺である。本堂など七つの茅葺の建物が非常に落ち着いた雰囲気を醸している。
戦死吊祭塔
明治二年(1869)十二月、旧藩主大関増勤(ますとし)や藩士らが祭主となって、戦死した二十四名の藩士を弔う招魂場を大雄寺に設けた。その際、戦死吊祭塔(ちょうさいとう)が建立された。吊祭塔には戦死した藩士の名が刻まれている。同時に黒羽表忠碑と軍夫死亡之墓が建てられた。
黒羽表忠之碑
黒羽表忠之碑は、黒羽藩が高い論功を得たのは、二十余士の力によるものと称える。
軍夫死亡之墓
大雄寺には、黒羽藩主大関氏代々の墓がある。これだけの墓が一か所にあるのは全国的にも珍しい。東日本大震災で崩落した墓石もあり、私が訪れたとき、ちょうどユンボで復旧作業中であった。
従五位下肥後守丹治真人増裕公墓
墓に刻まれた「丹治」とは大関氏の本姓である。
大関増裕は、遠江横須賀藩西尾忠宝のニ男で、文久元年(1861)養子となって大関家を継いだ。文久二年(1862)には幕府の講武所奉行、同年十二月初代陸軍奉行、慶応元年(1865)海軍奉行といった幕府の重職を歴任し、幕府軍隊の洋式化に大きな功績があった。慶応三年(1867)には若年寄まで昇進した。黒羽藩主としては、富国強兵のスローガンを掲げて、藩政改革を断行した。特に殖産興業と農兵取り立てを中心とした軍制改革に取り組んだ。改革に対して、藩内の守旧派や農民の反対があったが、これを排除して推進した。慶応三年(1866)十二月に三十歳という若さで急死したのは惜しまれる。
大関増勤公墓
最後の黒羽藩主となった大関増勤の墓は震災で横倒しになったままであった。
急死した藩主大関増裕の死はしばらく伏せられ、藩では養子探しに奔走し、ようやく慶応四年(1868)三月、丹波山家藩より増勤を迎え入れた。このとき増勤は十九歳であった。維新後は黒羽藩知藩事などを歴任。明治五年(1872)には米国に留学した。明治三十八年(1905)五十七歳にて死去。
官修墓地 高橋亘理墓
官修墓地 益子四郎墓
官修墓地 藪智次郎墓
大雄寺墓地には、いつくか官修墓地がある。いずれも戊辰戦争で戦死した黒羽藩士のものである。
益子四郎は小隊長。慶応四年(1868)下野小谷村にて戦死。二十二歳。
高橋亘理も同じく小隊長。慶応四年(1868)若松城下にて戦死。三十五歳。
藪智次郎は、五月の白河での戦闘で負傷。翌明治二年(1869)四月に死去した。十七歳であった。
(常念寺)
常念寺
官修墓地 紀匡隆(益子理右衛門)之墓
黒羽市街地の常念寺には、官修墓地がある。やはり戦死した益子理右衛門が葬られている。益子理右衛門は、慶応四年(1868)八月、下野駒返坂にて戦死。四十二歳。
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黒羽城 本丸跡
黒羽城は、外様大名大関氏一万八千石の居城である。大関氏は、江戸期を通じて一度も改易・転封がなく、明治四年(1871)の廃藩置県まで約三百年間、黒羽を本拠とした。黒羽城は、廃藩置県とともに廃城となり、現在は公園として整備されている。城郭らしいものは一切残っていないが、土塁や堀といった遺構は、今でもよく保存されている。
幕末の藩主、大関増裕は、外様大名ながら幕府の若年寄に抜擢され、陸海軍奉行等を歴任した。藩政改革にも取り組んだが、慶応三年(1867)十二月、帰城して遊猟していた際に病を発して急死した。三十歳という若さであった。
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黒羽城 土塁跡
黒羽藩は、奥州に接した場所にあって、いち早く新政府への恭順を表明した。この地域では珍しく、洋式化された近代的装備を備え、各所で善戦した。また那珂川を通して、食糧、武器、弾薬等を輸送し、越堀河岸から揚げて白河へと運びこんだ。これらの功から戦後の論功行賞では高く評価され、一万五千石という破格の賞典禄を与えられた。
(大雄寺)
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大雄寺山門
大雄寺(だいおうじ)は、戦乱により焼失したが、第十代大関忠増によって再建され、天正四年(1576)第十四代大関高増のとき居城を余瀬白旗城から黒羽に移したときに、現在地に移設された。以来、大関氏の菩提寺となり、墓所には代々の墓が整然と並べられている。
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大雄寺本堂
大雄寺は、曹洞宗の禅寺である。本堂など七つの茅葺の建物が非常に落ち着いた雰囲気を醸している。
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戦死吊祭塔
明治二年(1869)十二月、旧藩主大関増勤(ますとし)や藩士らが祭主となって、戦死した二十四名の藩士を弔う招魂場を大雄寺に設けた。その際、戦死吊祭塔(ちょうさいとう)が建立された。吊祭塔には戦死した藩士の名が刻まれている。同時に黒羽表忠碑と軍夫死亡之墓が建てられた。
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黒羽表忠之碑
黒羽表忠之碑は、黒羽藩が高い論功を得たのは、二十余士の力によるものと称える。
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軍夫死亡之墓
大雄寺には、黒羽藩主大関氏代々の墓がある。これだけの墓が一か所にあるのは全国的にも珍しい。東日本大震災で崩落した墓石もあり、私が訪れたとき、ちょうどユンボで復旧作業中であった。
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従五位下肥後守丹治真人増裕公墓
墓に刻まれた「丹治」とは大関氏の本姓である。
大関増裕は、遠江横須賀藩西尾忠宝のニ男で、文久元年(1861)養子となって大関家を継いだ。文久二年(1862)には幕府の講武所奉行、同年十二月初代陸軍奉行、慶応元年(1865)海軍奉行といった幕府の重職を歴任し、幕府軍隊の洋式化に大きな功績があった。慶応三年(1867)には若年寄まで昇進した。黒羽藩主としては、富国強兵のスローガンを掲げて、藩政改革を断行した。特に殖産興業と農兵取り立てを中心とした軍制改革に取り組んだ。改革に対して、藩内の守旧派や農民の反対があったが、これを排除して推進した。慶応三年(1866)十二月に三十歳という若さで急死したのは惜しまれる。
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大関増勤公墓
最後の黒羽藩主となった大関増勤の墓は震災で横倒しになったままであった。
急死した藩主大関増裕の死はしばらく伏せられ、藩では養子探しに奔走し、ようやく慶応四年(1868)三月、丹波山家藩より増勤を迎え入れた。このとき増勤は十九歳であった。維新後は黒羽藩知藩事などを歴任。明治五年(1872)には米国に留学した。明治三十八年(1905)五十七歳にて死去。
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官修墓地 高橋亘理墓
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官修墓地 益子四郎墓
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官修墓地 藪智次郎墓
大雄寺墓地には、いつくか官修墓地がある。いずれも戊辰戦争で戦死した黒羽藩士のものである。
益子四郎は小隊長。慶応四年(1868)下野小谷村にて戦死。二十二歳。
高橋亘理も同じく小隊長。慶応四年(1868)若松城下にて戦死。三十五歳。
藪智次郎は、五月の白河での戦闘で負傷。翌明治二年(1869)四月に死去した。十七歳であった。
(常念寺)
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常念寺
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官修墓地 紀匡隆(益子理右衛門)之墓
黒羽市街地の常念寺には、官修墓地がある。やはり戦死した益子理右衛門が葬られている。益子理右衛門は、慶応四年(1868)八月、下野駒返坂にて戦死。四十二歳。
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