史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

東京 Ⅴ

2015年10月17日 | 東京都
(割烹 嶋村)


割烹 嶋村

 三澤敏博著「江戸東京幕末維新グルメ」によれば、割烹嶋村は創業嘉永三年(1850)。桜田門外の変の当日には、二代嶋村善吉と板場を預かる加藤(のちの三代目善吉)と小僧の延太郎(四代目善吉)は、桜田門外の変に出合わせたという。維新後、嶋村は徳川家の駿府移住とともに駿府に移ったが、江戸の店は加藤が譲り受けた。新政府の要人となった伊藤博文や山県有朋、井上馨らがしばしば嶋村を訪れた。
 明治九年(1876)の神風連の乱では、嶋村で密議が交わされたという。嶋村が日本橋から現在地に移ったのは関東大震災以降というが、現代に幕末維新の味を伝える生きた史跡と呼ぶに相応しい。

(千葉定吉道場跡)


千葉定吉道場跡

 先日、京橋で接待があり、そこから歩いて東京駅に戻る途中、中央区教育委員会が設置した千葉道場跡の説明板を発見した。この時は客人も一緒だったし、夜中だったのでそのままやり過ごしたが、早速、その週末ここを訪ねた(中央区八重洲2‐8‐5付近)。都内には、まだ個人的に未発見の史跡があることを思い知らされた。

 千葉定吉は、北辰一刀流剣術の創始者千葉周作の弟であり、自身も北辰一刀流の使い手として知られている。周作が神田お玉が池に開いた玄武館は、江戸三大道場の一つに数えられるほどの隆盛を極めた。弟定吉は、兄の道場を助けた後、自らもこの地付近に道場を開いた。「小千葉道場」と称された。嘉永六年(1853)、剣術修行のために江戸へ出てきた土佐藩士坂本龍馬は、定吉の門に入った。この時、定吉は、鳥取藩池田家に仕官していたため、龍馬は定吉の息子千葉重太郎のもとで修行に励んだとされる。安政三年(1856)、再び江戸に出府した際にも、定吉の道場で剣術修行を行い、安政五年(1858)正月には北辰一刀流長刀法の目録を伝授された。

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日本橋 Ⅱ

2015年10月16日 | 東京都
(にんべん)


にんべん

 日本橋周辺は、江戸時代から続く老舗が集中する土地でもある。成田から上海に出張する日の午前中、この界隈を歩いた。
 この日訪ねた店は、いずれも三澤敏博著「江戸東京幕末維新グルメ」で紹介されているものである。にんべん(中央区日本橋室町2‐2‐1)は鰹節の専門店。創業は元禄十二年(1699)という老舗である。当時、屋号は伊勢屋伊兵衛といったが、伊兵衛の伊と金を現す¬とを組み合わせて商標としたが、いつしか「にんべん」と呼ばれるようになった。
 幕末の「にんべん」を支えたのは、八代・伊兵衛。幕府の長州征伐には一万両もの献金を行っている。さらに慶応四年(1868)には、新選組から分派した永倉新八らが率いる靖共隊にも資金を提供している。

(千疋屋)
 にんべんの入っているコレド室町の向い側辺りに千疋屋総本店(中央区日本橋室町2‐1‐2)がある。千疋屋は江戸時代から続く高級果物店である。明治初年、新政府に出仕した西郷隆盛は、ここに近い日本橋人形町に住んでいたが、千疋屋を贔屓にしていたという。
 現在、千疋屋は果物だけでなく、洋菓子やジャム、フルーツジュースなどを手広く扱っている。


千疋屋総本店

(神茂)
 神茂(中央区日本橋室町1‐11‐8)は、明暦二年(1656)に創業されたかまぼこ店である。その後、はんぺんの製造販売も手掛けるようになった。明治天皇の即位の際にも神茂の極上かまぼこは宮中に納められ、その後も大正・昭和天皇の即位の時にも使われたという高級品である。現在、神茂は立派なビルとなっている。日曜日は休みだが、ネットでも購入可である。


神茂

(丸善)
 丸善(中央区日本橋2‐3‐10)といえば本屋であるが、その三階にカフェがある。ここの定番メニューであるハヤシライスは、丸善の創始者早矢仕有的が考案したメニューで、言わばここはハヤシライス発祥の地というわけである。さすがにこの後、弁松の弁当を食べることにしていたので、ハヤシライスをここで取るわけにはいかなかったが、せっかくだから一度はここでハヤシライスを食べてみたいものである。


マルゼン カフェ

 丸善の百年史によるとハヤシライスの由来を次のとおり説明している。
――― 幕末か明治の初年のことであろう。友人が訪問すると、有的は有り合わせの肉類や野菜類をゴッタ煮にして、飯を添えて饗応するのが常であった。そこから人々はこの料理をハヤシライスといい、ついにはレストランのメニューに書かれるようになった。

 早矢仕有的は、福沢諭吉の門下生であった。明治二年(1869)、商社丸善を興したことで知られる。

(とよだ)


とよだ

 とよだ(中央区日本橋1‐12‐3)は文久三年(1863)の創業という老舗割烹である。幕末には、西郷隆盛が屋台寿司時代のとよだに立ち寄ったという逸話が残る。「江戸東京幕末維新グルメ」によれば、とよだが現在地に移ったのは昭和三十六年(1961)のことという。

(山本海苔店)


山本海苔店

 山本海苔店(中央区日本橋室町1‐6‐3)が創業したのは、嘉永二年(1849)のことで、以来この場所で営業を続けている。新社屋が建ったのは、昭和四十年(1965)のことである。
 山本海苔店の二代・徳治郎は商人でありながら剣も学び、北辰一刀流の玄武館で汗を流していた。そこで知遇を得たのが山岡鉄舟であった。鉄舟と徳治郎の交友は維新後も続き、現在も包装シールに使われている「東海名産無双佳品」という文字は鉄舟の揮毫によるものである。

(弁松総本店)


弁松総本店

 弁松総本店(中央区日本橋室町1‐10‐7)の弁当は予約制である。事前に注文せずにいきなりここで手に入れることはできない。ただし、幸いにして三越百貨店の地下の食料品売り場に弁松の弁当を売っていて、ここでなら普通に買うことができる。


赤飯弁当

 明治十一年(1878)五月十四日、大久保利通が紀尾井坂にて暗殺された。その日、大久保家には旧知の人々や親類が集まり大混乱となったが、西郷従道が手配した弁松の弁当が届いたため、一同大いに驚いたという話が伝わる。

 上海出張に向かう成田エクスプレスの車中で弁松の赤飯弁当を食べた。少し濃い目の味付けが特徴である。

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京丹後

2015年10月10日 | 京都府
(久美浜小学校)


久美浜小学校


久美浜代官陣屋跡と県庁跡

 京丹後市は、峰山町や大宮町、丹後町、弥栄町などが統合して成立した市である。このうち一番西側、すなわち兵庫県側に位置するのが、旧久美浜町である。かつて久美浜は天領であり、幕府は代官所を置いて統治していた。
 現在、久美浜小学校のある場所が、代官所のあった陣屋跡である。久美浜代官の所管は、丹後、但馬七万石に及び、維新後は久美浜県の成立とともに県庁が置かれた。
 今となっては陣屋跡を示す遺構はほとんど見られないが、校舎の前に陣屋橋と呼ばれる橋を確認することができる。また、お隣の豊岡市本町の神谷神社境内には、玄関棟が移築保存されているそうである。
 生野挙兵を調べていると、久美浜代官が登場する。挙兵前夜、農兵組立が具体化されると、久美浜代官所にも農兵募集の周旋要請が届いた。時の代官は斎藤六蔵といった。斎藤代官は農兵募集に消極的であった。そればかりか、周囲の諸藩に出兵を要請するなど警戒心を露わにした。

(稲葉家)


稲葉家

 豪商稲葉本家は、織田信長の家臣団の縁者にその元を発するといわれ、江戸期には麹屋や沿岸交易にて財を成した。維新時には、山陰道鎮撫総督西園寺公望が稲葉家を本陣とした。

(本願寺)


本願寺

 本願寺といえば、浄土真宗と思っていたが、久美浜の本願寺は浄土宗である。
 慶応四年(1868)一月、山陰道鎮撫総督は稲葉家と本願寺に分宿した。

 この日は滋賀県の高島市から福井県おおい町を経由して舞鶴、宮津、京丹波を回った。結構、ハードな一日であった。翌日、京都から八王子に戻る途中、名古屋で途中下車して四日市、桑名を訪ねようと考えていたのだが、無理が祟ったのか、持病である腰痛を発症し「とても無理」という状態だったので、そのまま八王子に戻ることにした。この判断は正解だった。その後、一週間ほど腰痛に悩まされたが、何とか会社を休むことなく皆勤することができた。年齢とともに無理がきかなくなってきたことを実感した。

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宮津

2015年10月10日 | 京都府
(宮津城跡)
 宮津といえば、日本三景の一つ天橋立がとにかく有名である。小学生の頃、祖父に連れられて天橋立見物に宮津まで来たことがある。ひどい渋滞に巻き込まれ、長時間バスに閉じ込められた苦い思い出しか記憶に残っておらず、今回、宮津まで来たものの、決して天橋立には近づくまいと決めていたのである。


宮津城跡

 宮津駅の近く、JA宮津の向い側、関西電力宮津営業所の東側に宮津城がここにあったことを記載した説明が掲げられている。全く城跡という痕跡は残っていない。これほどまでに痕跡をとどめない城跡は他に無いのではないか。
 宮津城は、織田信長の命により丹後を領した細川幽斎、忠興父子が、天正八年(1580)に宮津に入り、急いで城郭および城下の建設に取り掛かったことを端緒とする。しかし、慶長五年(1600)、忠興が会津上杉征伐に出陣すると、大阪方が宮津に兵を向けたので、留守を守っていた幽斎は宮津城を自焼して、田邊城(舞鶴城)に移った。関ヶ原戦後、細川家は豊後中津に移封され、あとは京極氏が入った。京極氏は丹後を三分し、嫡男が宮津城主となった。改めて城郭・城下が整備されたが、この時、細川氏の縄張りがどの程度踏襲されたかは不明である。その後、江戸時代を通じて宮津城主は目まぐるしく交代したが、宝暦八年(1758)、本庄松平家が移封され、明治維新まで続いた。
 幕末の藩主は、本庄宗秀である。大阪城代、京都所司代や老中といった幕府の重職を務めた人物で、その関係もあって宮津藩は一貫して佐幕であった。長州再征にも参加した。しかし、戊辰戦争では、家老河瀬秀治の説得により恭順と決し、山陰道鎮撫使を通して藩の保全に成功した。

(宮津小学校)
 太鼓門は、宮津城の数少ない遺構の一つで、現在宮津小学校の正門として移設されている。


宮津城太鼓門


天橋義塾の跡

 宮津小学校の場所は、宮津藩校礼譲館(のちに文武館)の跡地である。明治八年(1875)、藩校の校舎を使って、この地に天橋義塾が開かれた。当時、宮津には二つの小学校があったが、その上級の学校がなかったため、有志の人々が相談して設立されたものである。当時、自由民権運動が最盛期を迎えており、天橋義塾は宮津におけるその中心となった。明治政府は、こういった活動を弾圧したが、ここに集まった教師・学生はひるまなかった。しかし、明治十七年(1884)、自由民権運動が下火になると、天橋義塾も閉鎖に追い込まれた。

(桜山天満宮)
 桜山天満宮には、第六代藩主本庄宗秀、第七代藩主本庄宗武という二人の宮津藩主の墓がある。


桜山天満宮


神宮故大宮司兼中教正従四位本荘宗秀之墓

 本庄宗秀は、天保十一年(1840)、前藩主宗発(むねあきら)より家督を継ぎ、寺社奉行、大阪城代、京都所司代、老中等幕府要職を歴任した。慶応二年(1866)には長州再征に副総督として広島に出征したが、捕虜の長州藩家老宍戸備後介らを独断で釈放した事件を巡って譴責を受け、副総督、老中を罷免され、家督を宗武に譲った。晩年は文芸書画を好み、また伊勢神宮大宮司となった、明治六年(1873)、六十五歳で死去。


従四位子爵本荘宗武之墓

 宗武は家督を継いで間もない慶応四年(1868)正月、戊辰戦争を迎えた。当時、山城八幡の警備にあたっていた宮津藩士の中から官軍への発砲事件が起き、宗秀・宗武父子は朝廷から入京を差し止められた。時あたかも山陰鎮撫使西園寺公望一行が宮津に到着するところであった。随行の長州藩士らの説得に応じて、朝廷からの疑いは晴れ、宗秀・宗武の入京も許されることになった。宗武は、明治二年(1869)、版籍奉還により宮津藩知事。廃藩置県後も宮津県知事となった。明治六年(1873)には北海道農園開拓に従事したが、その年、宗秀が死去すると、宮津に帰って籠神社宮司になった。天橋義塾創設、維持にも関与し、文芸を好んだ。明治二十六年(1893)四十八歳にて死去。

(大頂寺)


大頂寺

 大頂寺は、慶長十一年(1616)、宮津藩主京極高知が菩提寺として建立されたのがその始まりである。その子、高広が宮津城の再建、城下の整備の際、妻の寿光院の養父二代将軍徳川秀忠、義兄三代将軍家光の御法楽のために宝篋印塔を建てた。その後、本堂には歴代将軍の位牌を祀っている。また本堂左側の霊屋には歴代本荘氏の位牌が安置されている。


宝篋印塔


本荘家霊屋
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舞鶴

2015年10月10日 | 京都府
(舞鶴公園)
 田辺城は別名舞鶴城という。城の名前が舞鶴という地名の由来となった。紀州田辺と混同され易いため、舞鶴藩と呼ばれることが多い。
 築城は、天正八年(1580)細川幽斎が織田信長に丹後国をあてがわれ、その子忠興とともに縄張りしたことに始まり、天正十年代に完成したといわれる。細川家が関ヶ原の戦いの戦功により豊後中津に転封となると、代わって京極高知が入国した。元和八年(1622)、高知の遺命により丹後を三分割して、庶子の京極高三が城主となって田辺藩が成立した。京極氏のあとは、牧野氏が城主となり明治維新まで続いた。


田辺城 彰考館

 牧野家は代々京都所司代、奏者番、寺社奉行などの幕府要職を歴任した。鳥羽伏見戦後は恭順を貫いた。


田辺城城門


牧野氏紀功碑


心種園

 寛文八年(1668)、摂津から入国した牧野親成は、荒れていた田辺城の修復に取り掛かり、大手門を始め、北の船着門、東の大内門のほか、石垣や心種園が整備された。

(明倫小学校)
 田辺藩の藩校は、天明年間に明倫斎として創立され、文久年間に明倫館と改称された。明治五年(1872)の学制頒布により明倫校となった。現在、藩校門が明倫小学校に残されている。


明倫館校門

(見樹寺)
 大名墓というのは、これまでの経験上、その寺の一番高い場所にある。見樹寺(舞鶴市西96)の牧野誠成の墓も例外ではなく、舞鶴の港を見下ろす、見晴らしの良い丘の上に墓が造られている。


見樹寺

 牧野誠成(たかしげ)は、天保三年(1832)、江戸藩邸に生まれた。嘉永五年(1852)、父節成の致仕により家督を相続した。翌年、西ノ丸の普請方手伝、安政二年(1855)、大阪加番代、さらに仏人の宿舎である麻布済海寺、正泉寺、大僧寺の警備役を命じられた。元治元年(1864)、将軍家茂在京中、二条口および御所警衛役を務めた。同年の長州征伐ならびに慶応二年(1866)の再征にも出陣した。慶応四年(1868)の山陰道鎮撫総督入城の際には、病気のため家老をもって恭順誓紙を提出した。明治二年(1869)、年三十八にて病没。


故田邊城主従三位下牧野源公誠成墓

 舞鶴といえば、東郷平八郎が初代司令長官として赴任した土地であり、東郷平八郎所縁の司令長官官舎や海軍記念館などの見どころも多い。今回は時間の関係でスキップしたが、チャンスがあれば再訪したい。

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おおい

2015年10月10日 | 福井県
(小浜藩松ヶ瀬台場跡)
 福井県おおい町というと、大飯原発で有名である。原発前のものものしい警備の前を通り過ぎると、静かな漁港が現れる。海水浴場に隣接したキャンプ場の中に幕末小浜藩が築造した台場が再現されている。


史跡小浜藩台場跡
松ヶ瀬台場跡 鋸崎台場跡


大砲

 松ヶ瀬第2号台場は、直径約八十mの土塁中央部に回転式の大砲を設置した半円型の砲座が一基、その両側に固定式の砲座が二基ずつ、合わせて五基の大砲を設置していた。

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高島

2015年10月10日 | 滋賀県
(曹澤寺)
 元治元年(1864)十二月三日、天狗党追討の将として京都を出発し、翌四日には大津で軍議を開いた。天狗党が新保宿に着いた十二月十一日には、湖西を通り湖北の海津願慶寺に約八百の兵とともに宿陣した。慶喜隊は、今津の曹澤寺に宿陣した後、海津に向かった。曹澤寺にはその前日まで軍監永原甚七率いる加賀藩兵七百が宿陣していたが、急遽命令を受けて葉原に向かった直後であった。


曹澤寺

(正行院)


正行院

 松平康正、通称松平大弐。文政六年(1823)、加賀金沢藩士松平久兵衛の次子として生まれ、宗家松平康職の跡を継いで禄四千石を受けた。安政三年(1856)、小松城番となり、安政五年(1858)には算用場奉行に転じ、万延元年(1860)、藩主泰斉の世子慶寧の側用人に抜擢され、文久三年(1863)、家老となった。元治元年(1864)、命を受けて京都に駐在し、藩邸事務を統括していたが、慶寧が入京し、長州藩のために周旋するに当たり、常に公武の間を奔走した。禁門の変に際し、慶寧は一部の守備兵を留めて退京したが、松平大弐はその進退の責めを一身に負い、八月十一日、近江海津正行院で自刃した。年四十二。


贈従四位大弐松平君碑

 正行院には、本堂左手に松平大弐の顕彰碑があり、墓地には大弐の灰塚がある。


加州松平大貮灰塚

(願慶寺)
 一橋慶喜が宿陣した願慶寺である。
願慶寺は、江戸時代以前、伊香郡、敦賀、マキノに二十数カ所の末寺を持ち、加賀、越前の諸侯が上洛の際の宿舎になるほどの名刹であった。
境内には木曽義仲の側室であった山吹御前ゆかりの老紅梅がある。その前には井伊直弼の歌を刻んだ碑がある。


願慶寺


古紅梅
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烏丸 Ⅳ

2015年10月02日 | 京都府
(佐賀藩屋敷跡)


佐賀鍋島藩屋敷跡

 四条通り沿いの東京三菱UFJ銀行の前に佐賀藩屋敷跡碑を発見した。これまで何度もこの場所は通過していたはずだが、気が付かなかったのが不思議なくらいである。たまたまバスから外を眺めていて、見つけることができた。京都では至るところに石碑があり、まだまだその気になって街を歩けば、新たな発見があるかもしれない。この石碑は平成三年(1991)に佐賀県人会の手によって建立されたものである。

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新京極 Ⅱ

2015年10月02日 | 京都府
(誠心院)


吉岡庄助墓

 積み重ねられた墓石の中に長州藩士吉岡庄助のものがある。隙間から辛うじて長州藩の「長」という文字が確認できる。新選組による池田屋襲撃の夜、一斉に残党狩りが行われた。その時、川端四条下るにあった料理茶屋近江屋にて襲われて女将とともに殺害されたのが、長州藩作事方吉岡庄助であった。吉岡は、その夜、酒を飲んでいたところを会津勢に踏み込まれ、酔いながらも刀を抜いて応戦したが、遂に討たれた。三十四歳。

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大宮 Ⅳ

2015年10月02日 | 京都府
(妙恵会総墓所)


元恭廣瀬先生墓

 妙恵会総墓所は、複数の寺院の墓地を集めたものである。その中の一つが観持院という寺で、入り口右手の一角が観持院墓地らしい。そこに廣瀬元恭の墓がある。
 広瀬元恭(がんきょう)は、文政四年(1821)、甲斐巨摩郡藤田村(現・山梨県南アルプス町)の医師広瀬周平の次男に生まれた。江戸の平井誠軒の蘭学塾にあること十年。弘化元年(1844)、京都に蘭学塾時習館を開いた。時に二十四歳。講義は語学、医学、軍学、天文、地理と多彩で、門下生から陸奥宗光、佐野常民、田中久重らを生んだ。津の藤堂家から客臣として遇され、それに報いるため「築城新法」「砲術新書」を翻訳して献じた。文久元年(1861)、和宮降嫁には侍医として奉仕した。戊辰戦争では官軍病院長として施設と治療に尽力した。「理学提要」「知生論」「西医脉鑑」「人身究理」「新訂牛痘奇法」など多数の著作がある。明治三年(1870)十月、五十歳にて没。

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