(割烹 嶋村)
割烹 嶋村
三澤敏博著「江戸東京幕末維新グルメ」によれば、割烹嶋村は創業嘉永三年(1850)。桜田門外の変の当日には、二代嶋村善吉と板場を預かる加藤(のちの三代目善吉)と小僧の延太郎(四代目善吉)は、桜田門外の変に出合わせたという。維新後、嶋村は徳川家の駿府移住とともに駿府に移ったが、江戸の店は加藤が譲り受けた。新政府の要人となった伊藤博文や山県有朋、井上馨らがしばしば嶋村を訪れた。
明治九年(1876)の神風連の乱では、嶋村で密議が交わされたという。嶋村が日本橋から現在地に移ったのは関東大震災以降というが、現代に幕末維新の味を伝える生きた史跡と呼ぶに相応しい。
(千葉定吉道場跡)
千葉定吉道場跡
先日、京橋で接待があり、そこから歩いて東京駅に戻る途中、中央区教育委員会が設置した千葉道場跡の説明板を発見した。この時は客人も一緒だったし、夜中だったのでそのままやり過ごしたが、早速、その週末ここを訪ねた(中央区八重洲2‐8‐5付近)。都内には、まだ個人的に未発見の史跡があることを思い知らされた。
千葉定吉は、北辰一刀流剣術の創始者千葉周作の弟であり、自身も北辰一刀流の使い手として知られている。周作が神田お玉が池に開いた玄武館は、江戸三大道場の一つに数えられるほどの隆盛を極めた。弟定吉は、兄の道場を助けた後、自らもこの地付近に道場を開いた。「小千葉道場」と称された。嘉永六年(1853)、剣術修行のために江戸へ出てきた土佐藩士坂本龍馬は、定吉の門に入った。この時、定吉は、鳥取藩池田家に仕官していたため、龍馬は定吉の息子千葉重太郎のもとで修行に励んだとされる。安政三年(1856)、再び江戸に出府した際にも、定吉の道場で剣術修行を行い、安政五年(1858)正月には北辰一刀流長刀法の目録を伝授された。

割烹 嶋村
三澤敏博著「江戸東京幕末維新グルメ」によれば、割烹嶋村は創業嘉永三年(1850)。桜田門外の変の当日には、二代嶋村善吉と板場を預かる加藤(のちの三代目善吉)と小僧の延太郎(四代目善吉)は、桜田門外の変に出合わせたという。維新後、嶋村は徳川家の駿府移住とともに駿府に移ったが、江戸の店は加藤が譲り受けた。新政府の要人となった伊藤博文や山県有朋、井上馨らがしばしば嶋村を訪れた。
明治九年(1876)の神風連の乱では、嶋村で密議が交わされたという。嶋村が日本橋から現在地に移ったのは関東大震災以降というが、現代に幕末維新の味を伝える生きた史跡と呼ぶに相応しい。
(千葉定吉道場跡)

千葉定吉道場跡
先日、京橋で接待があり、そこから歩いて東京駅に戻る途中、中央区教育委員会が設置した千葉道場跡の説明板を発見した。この時は客人も一緒だったし、夜中だったのでそのままやり過ごしたが、早速、その週末ここを訪ねた(中央区八重洲2‐8‐5付近)。都内には、まだ個人的に未発見の史跡があることを思い知らされた。
千葉定吉は、北辰一刀流剣術の創始者千葉周作の弟であり、自身も北辰一刀流の使い手として知られている。周作が神田お玉が池に開いた玄武館は、江戸三大道場の一つに数えられるほどの隆盛を極めた。弟定吉は、兄の道場を助けた後、自らもこの地付近に道場を開いた。「小千葉道場」と称された。嘉永六年(1853)、剣術修行のために江戸へ出てきた土佐藩士坂本龍馬は、定吉の門に入った。この時、定吉は、鳥取藩池田家に仕官していたため、龍馬は定吉の息子千葉重太郎のもとで修行に励んだとされる。安政三年(1856)、再び江戸に出府した際にも、定吉の道場で剣術修行を行い、安政五年(1858)正月には北辰一刀流長刀法の目録を伝授された。