史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

石川町 Ⅵ

2016年05月20日 | 神奈川県
(横浜外国人墓地つづき)


Nathan Brown

 ネーサン・ブラウンは、1807年、米国ニューハンプシャー州ニューインプスウィッチに生まれた。マサチュセッツ州ウイリアムズタウンのウイリアムズ大学に入学した。この大学は東洋伝道発祥の地と呼ばれるほど、多くの宣教師を産んでいる。1832年、応募によりビルマに赴任。さらに四年後、インドに渡り十九年に渡って伝道に従事した。明治六年(1873)、六十五歳の時、来日すると、すぐさま聖書の日本語訳に取り組み、明治十二年(1879)、新約聖書を我が国で初めて全文和訳した「志無也久世無志与(しんやくぜんしよ)」を刊行した。多くの日本人が読めるように、全文ひらがなで制作された。明治十九年(1886)、七十九歳にて死去。


Thomas Thomas

 トーマスは、イギリスの絹織物業の町、マクルスフィールドの出身。文久元年(1861)、十九歳の時に来日した。元治元年(1864)、ストラチャンと組んで商社を設立し、生糸や茶の輸出、綿織物の輸入などを手掛けた。トーマスは、競馬マニアであった。慶応元年(1865)には、日本馬バタヴィアにエドワード・スネルが乗り、中国馬ラットにトーマスが騎乗してマッチ・レースが仕組まれた。このレースは、トーマスの勝利に終わった。維新後は、日本初の西洋式競馬場「根岸競馬場」理事なども務めた。大正十二年(1923)関東大震災の犠牲となった。享年八十一。


James Stuart Eldridge

 エルドリッジは、アメリカ、ペンシルバニア州フィラデルフィアの出身。南北戦争では北軍トーマス将軍の参謀将校を務めた。戦後はハワード将軍のもとでワシントンの奴隷解放局に勤務した。1869年に農務省の図書館司書となったが、この縁で明治三年(1871)、農務長官ケプロンの秘書兼医師として来日することになった。当初は開拓使付医師として函館に赴任し、開拓使函館医学校の教官となった。明治八年(1875)、開拓使との契約が切れると、横浜山手病院に転じて、明治二十年(1887)まで勤務した。明治十六年(1883)には政府から中央衛生委員を委嘱された。明治三十四年(1901)、体調を崩して死去。火葬を提唱したが、自らも遺言により火葬された。日本政府より勲三等瑞宝章を贈られた。


James Walter

 ウォルターはイギリス、リヴァプールの出身。ロンドンの生糸商のもとで経験を積んだ後、慶応三年(1867)に来日した。ウォルターは語学の天才であった。フランス語、ドイツ語、イタリア語のほか、スペイン語、ロシア語にも通じ、特に日本語も流暢であった。濃尾の震災や青森の飢饉、日露戦争傷病兵の福祉に多大な援助をし、「ワタリさん」と呼ばれ、親しまれた。明治四十一年(1908)、帰国して三人の子供との再会を果たしたが、食道癌を患っていることが発覚し、治療の望みがないことが分かると、横浜に戻って翌年二月に死去した。日本政府は、勲五等旭日賞を贈った。


John Frederic Lowder

 ラウダーは、横浜税関法律顧問。万延元年(1860)、十七歳のラウダーはイギリスの外務省領事部門の日本語通訳生に採用され来日した。文久元年(1861)七月には、江戸東禅寺で水戸浪士の襲撃に遭い、ピストルで応戦した。文久二年(1862)九月、結婚。相手は宣教師ブラウンの娘ジュリアである。なお、同じ年の七月、ラウダーの母は初代駐日公使オールコックと再婚している。その後、ラウダーは長崎に赴任し、元治元年(1864)の四国連合艦隊による下関砲撃の際には通訳をつとめた。そこから大阪副領事、兵庫領事代理、新潟領事代理を歴任し、弱冠二十六歳で横浜駐在領事に昇任した。明治三年(1870)一時帰国したが、二年後に再来日し以降は大蔵省に雇用され、明治二十一年(1888)まで法律顧問として横浜税関の整備に貢献した。横浜税関在任中にハートレーによるアヘン輸入を条約違反として摘発したり、座礁した外国船ノルマルトン号の日本人犠牲者への補償追及に功績があった。条約改正問題では、領事裁判権の廃止は時期尚早として強硬な反対論者であった。明治二十三年(1890)にはジャパン・ガゼット新聞社を買収し、条約改正反対の論陣を張った。


Carlo de N. Gonzaga

 ネンブリニ=ゴンザカは、イタリアのダルマチア地方の北西部ザーラ(現在はクロアチア領)という街の出身。サムライに憧れて来日したといわれる。来日は明治十一年(1878)。少なくとも五か国語に通じていたというが、語学力を活かして通訳や語学教師として活躍した。明治二十一年(1888)には外務省、翌年には神奈川県に雇用され、十数年にわたって通訳官をつとめた。明治三十六年(1903)、鎌倉の自宅で死去。


James Favre-Brandt

 ファヴル=ブラントは、スイス出身の商人。文久三年(1863)アンベールを団長とするスイスの特派使節団が来日した際、団長に随行して来日し、そのまま日本に居住して開業した。ファヴル=ブラントは子供の頃から東洋に憧れを抱き、遣日使節団の報を耳にすると志願して随行を決めた。武器、機械、時計、宝飾品等の輸入に従事した。幕末には薩摩藩の大山弥助が武器購入係としてファヴル=ブラント商会を訪れ、スナイドル後装銃を購入したという。大山以外にも、西郷隆盛、従道、黒田清隆、伊藤博文、山県有朋、桂太郎、井上馨らと交遊関係があった。明治に入ると時計の輸入と啓蒙、日本人時計師の育成に尽力した。日本各地における塔時計の設置にも貢献した。日本人女性松野久子と結婚して七人の子供をもうけたが、久子は明治十五年(1882)、三十歳の若さで死去した。その後、久子の姪松野くま子と再婚し、二人の子をなしたが、くま子も二十五歳で病死した。また五人の子供にも先立たれる等、事業では成功を収めたものの、私生活では不幸が多かった。大正十二年(1923)、八十二歳で永眠。


Camus J.J.Henri

 井土ヶ谷事件の犠牲者カミュの墓である。カミュは十八歳の時志願兵となり、イタリア遠征に従軍した。その後、中国に派遣され、コーチシナ(ヴェトナム南部)遠征にも参加した後、駐屯軍の一員として横浜にきた。文久三年(1863)十一月十五日午後二時頃、一人で武器も持たずに馬で散策にでたところを襲われ斬殺された。一人だったため犯人の情報が得られず、真相は分からずじまいであった。カミュの葬儀には各国の軍人、外交団、居留民の多数が参列し、参列は周辺の道路にあふれたという。フランス公使ベルクールは幕府に抗議するとともに、事件の謝罪と下関海峡で砲撃されたフランス船キャンシャン号に対する賠償金の解決のため、フランスへ使節を派遣することを提案した。幕府はこれを受け入れ、池田長発を正使とする使節団(第二次遣欧使節)を派遣した。使節はカミュの遺族に扶助料として三万五千ドルを支払った。


Roman Mophet
Ivan Sokoloff

 横浜開港後間もない安政六年(1859)八月二十五日、来日中のロシア使節の随員、モフェトとソコロフが横浜市中で殺害された。二人は青物屋徳三郎方で買い物を済ませて出てきたところを攘夷派の武士に襲われた。これに対し、ロシア使節は船将ウンコフスキーを通じて、賠償金ではなく、幕府が墓標を立てて丁重に埋葬し、永久に保護することを要求した。当初、彼らの墓は、横浜村の寺院増徳院に仮埋葬された。犯人は永らく不明であったが、のちに敦賀で拘束されていた水戸天狗党の一員小林幸八の自供によって判明し、直ちに小林は横浜に移送されて処刑された。


Wessel De Vos
Jasper Nanning Dekker

 万延元年(1860)二月二十六日午後七時半頃、三日前にオープンしたばかりの横浜ホテルに知人を訪ねたオランダ人フォスとデッケルの二人は、買い物をして船に戻ろうとした時に暴漢に殺害された。フォスはクリスチャン・ルイス号、デッケルはヘンエリッタ・ルイーゼ号の船長であった。遺体は横浜ホテルに運ばれそこで検死を受けた。犯人は不明のままである。オランダ、イギリス、フランスの三国は共同で被害者一名につき、二万五千ドルの賠償金を要求したが、幕府はオランダに千七百両を支払い、これが以降の外国人被害者に対する賠償金の前例となった。


William Marshall

 マーシャルは、イギリスのマンチェスターとリヴァプールの中間に位置するウィガンの出身で生麦事件の時、三十五歳。妻の妹のマーガレットは、香港でウォーカー・ボラデイル商会を経営するトーマス・ボラデイルの夫人である。マクファーソンと立ち上げた商社は、日本系商社ではトップ3位に入る有力な企業となっていた。文久二年(1862)九月十四日、マーシャル、リチャードソン、クラークと義妹ボラデイル夫人らとともに川崎大師へ遠足に出かけたところ、生麦事件に遭遇した。このとき、マーシャルも重傷を負い、神奈川の本覚寺(アメリカ領事館)に逃げ込み、ヘボンの治療を受けて一命をとりとめた。マーシャルは外国人商業会議所の会頭を二度にわたって務め、明治五年(1872)、横浜駅で行われた鉄道開業式では居留民を代表して明治天皇の前で祝辞を述べた。また、競馬愛好団体の横浜レース・クラブの役員を務める等、当時の居留民を代表する名士であった。明治六年(1873)、働き盛りの四十六歳で急死した。


Robert Nicholas Bird


George Walter Baldwin

 ボールドウィン少佐とバード中尉は、いずれもイギリス陸軍第二十連隊第二大隊に所属。元治元年(1864)十一月二十一日午後三時から四時の間、二人は鎌倉の長谷の大仏を見物した後、鶴岡八幡宮の参道に入ったところで二人組の浪人に殺害された。犯人は清水清次と間宮一の二人。事件後、旧知の蒲池源八と稲葉丑次郎とともに京都に出ようとしたが、資金が足らなくなったため藤沢宿近くで強盗を働いた。この事件で蒲池と稲葉が捕縛され、彼らの自供から清水の犯行が明らかになった。二人は鎌倉における外国人殺害事件とは関係はなかったが、犯人に仕立てられ横浜の戸部刑場で処刑された。その後、清水も逮捕され、やはり戸部刑場で処刑されて吉田橋際に梟首された。処刑の際の清水の落ち着いた様子は、見物に来ていた外国人に感銘を与えたらしい。写真を撮影したベアトは「処刑の際の彼の冷静さと勇気は驚くべきもので、もっと良いことのために用いられればと惜しまれる」と述べている。

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石川町 Ⅴ

2016年05月20日 | 神奈川県
(横浜外国人墓地つづき)

 この度、「横浜外国人墓地に眠る人々 ― 開港から関東大震災まで」(斎藤多喜夫著 有隣堂)を入手した。本書には横浜外国人墓地に眠る百名以上の外国人を紹介するものである。本書を片手に外国人墓地を再度歩いてみよう。


John Trumbull Swift

スウィフトは日本YMCA草創期の功労者。


Clarence Griffin

 我が国におけるボーイスカウトの開拓者と称されるグリフィンは、1873年の北アイルランド出身。二歳のときから貿易商の両親とともに横浜に居住した。明治四十四年(1911)、グリフィンを隊長として、横浜山手に外国人子弟によるボーイスカウト隊が発足した。大正十四年(1925)、関東大震災の後、横浜YMCA会館に本部を定め、ボーイスカウト研究会を発足させ、昭和五年(1930)には、横浜市長を聯盟長としたボーイスカウト横浜聯盟が発足した。グリフィンは横浜のボーイスカウト発展の草分けである。戦後、上海より横浜に帰り、昭和二十六年(1951)死去。


Henry James Black


快楽亭ブラック

 父ジョン・ブラックは、当初海軍士官を志したが、いつしかテノール歌手に転向し、来日して居留地でコンサートを開いた。本人は「お別れコンサート」のつもりだったようで、その後ハンサード商会に入社し、慶応元年(1865)にはジャパン・ヘラルド社の編集者となった。この年に夫人とともに長男ヘンリーが来日している。維新後には「日新真事誌」を刊行した。しかし、明治六年(1873)、民撰議員設立建白書を掲載したことから、明治政府はブラックを左院法制課で雇用し、そのために「日新真事誌」は廃刊に追い込まれた。その後、開国以降の日本の年代記の執筆に没頭し、明治十三年(1880)、西南戦争の手前まで来たところで脳卒中のために急死した。
 ヘンリー・ブラックは、講釈師松林(しょうりん)伯円から演説術を学び、父とともに自由民権運動を側面援助するような内容の演説を行ったといわれる。さらに三遊亭円朝の率いる三遊派に加わって落語を学んだ。明治二十六年(1893)、浅草の菓子商石井ミネの娘アカの婿養子となり日本に帰化した。日本名を石井貌刺窟(ブラック)といった。落語家としては、快楽亭ブラックと名乗り、各地の寄席で新作人情話や落し話を披露した。明治三十六年から三十七年(1903~1904)、落語や浪曲をレコードに吹き込んだ。これが我が国最初のレコードといわれる。今でこそ、外国出身のタレントがテレビなどで当たり前に活躍しているが、ブラックはその草分けといえよう。大正十二年(1923)九月、関東大震災の直後、東京で病死した。


Hans kurt V. Seebach

 ゼーバッハは、明治二十一年(1888)、時の内務大臣山県有朋が軍事施設や地方制度の視察のためにドイツを訪れた際、そこで目をつけられ日本へ招聘を受けた。翌年、内務省監務顧問として来日し、東京集治監(東京拘置所の前身)内の監獄官練習所の主任教授として、各地の監獄を視察して改革の提言を行った。明治二十四年(1891)、東北・北海道地方視察後健康を害し、横浜山手のドイツ海軍病院で死去した。墓碑は、教え子の手によって建てられたもの。政府は、生前の功績に報いるために勲五等瑞宝章を贈った。


Edward Charles Kirby

 カービーはイギリス・ウスターシャー州スタウアブリッジの生まれ。1860年、新天地を求めて上海に渡り、そこで薬局に勤めた。さらに寧波に移って、薬局のほか、雑貨店や船舶供給業からホテルまで経営した。慶応元年(1865)日本に渡り、横浜の居留地で雑貨店や精肉・製パン店を営んだ。明治元年(1868)に神戸が開港されると、神戸に移り広壮な煉瓦造りの店舗を建設した。カービーが設立した小野浜鉄工所は、のちに日本海軍が買収して呉の海軍工廠支部へと発展した。


佛蘭西人理學士邁譽君墓
(Henry Maillot)

 外国人墓地で異色を放つ日本風の墓石に、漢字で文字が刻まれているのは、フランス人マイヨのものである。マイヨは明治三年(1870)に来日し、大学南校(現・東京大学)のフランス語と物理学の教師となった。明治五年(1872)には、明治天皇がフランス語の授業に臨席したこともある。


Henry Houghton


Charles S. Kingston


Theobald Andrew Purcell

 ヘンリー・ホートンやキングストン、パーセルらは、いずれも我が国の鉄道草創期に技術者として来日した人たちである。キングストンは最年少の二十八歳で死去している。彼らの墓標は、昭和五十五年(1980)の鉄道記念日に準鉄道記念物に指定された。


オネイダ号慰霊碑

 明治三年(1870)一月二十四日午後六時半頃、アメリカの軍艦オネイダ号は、東京湾の入口でイギリスのPO汽船の貨客船ボンベイ号が衝突し、オネイダ号は沈没。多数の死者が出た。碑文によれば犠牲者の数は百十人とされている。


Edwin Wheeler

 ウィーラーはアイルランド出身の医師。明治三年(1870)、イギリス海軍医として来日し、当初は公使館付医師であった。同年八月に起こったシティ・オブ・エド号の汽缶破裂事件の被害者や、翌年一月の暴漢に襲われた大学南校の御雇教師ダラスとリングの治療に当たっている。明治四年(1871)には鉄道建設工事の本格化に伴い、工部省に雇われて鉄道医を兼ね、外国人医師の治療にあたった。明治九年(1876)契約が満期を迎えたのを機に、医院を開業。その後もエルドリッジとともに山手病院や十全病院(横浜市立大学医学部病院の前身)などで働いた。明治四十一年(1908)、政府より勲三等瑞宝章を授与された。ヨットや競馬にも情熱を注いだ。ジャパン・ガゼットの記者によれば「横浜在住の多数の外国人の中で、E・ウィーラー博士ほど広く知られ、深く尊敬されている人はいない」と述べている。大正十二年(1923)の関東大震災の折、八十二歳で死去。


Eliza Scidmore
George H.Scidmore

 兄シッドモアは、アメリカ・アイオワ州ダブューク出身の法律家で、横浜の領事館に勤務した。その間、英吉利法律学校(現・中央大学)で講義を行い、同校からアメリカの領事裁判権に関する著作を出版している。大正二年(1913)には横浜駐在の総領事に就いている。
 妹エリザ・シッドモアは写真家、紀行文学者として活躍。明治十七年(1884)以降、兄の伝手で来日し、「日本人力車旅情」「極東への西回りの旅」などを出版した。また、ワシントンのポトマック河畔への桜の植樹に貢献したことでも知られる。大正十三年(1924)の排日移民法によりスイスのジュネーブに移住し、1928年に死去したが、生前エリザと親交のあった新渡戸稲造らの計らいにより、遺骨が横浜に運ばれ、兄の眠る墓に葬られた。


Hermann L. Grauert
Herman C. Grauert

 グラウェルトは多分野で横浜の発展に貢献した実業家であり、父子二代にわたって合計四十一年間、横浜外国人墓地の管理委員会の委員を務めた。ヘルマン・グラウェルトは、明治元年(1868)前後に来日し、兄の設立した商社を継いだ。グラウェルトの葬儀の際には、葬列が一キロ半を越えたと伝わる。昭和三十七年(1962)にはヘルマンの胸像が墓地に設置された。息子クレメンス・グラウェルトは、ミュンヘン大学で医学を学んだ医師であった。


Felix Evrard

 エヴラールは、フランス語教育に尽力した宣教師で、明治憲法制定にあたって伊藤博文に協力したことでも知られる。


Jennie Mary Kuyper

 カイパーはフェリス大学の第三代校長カイパーは、米国アイオワ州ペラ市の生まれで、シカゴ大学卒業後、ウィスコンシン州のロチェスター・アカデミーの校長を務めた。来日は、明治三十八年(1905)。フェリス和英女学校の教師となり、大正十一年(1922)に校長に就任した。翌年の関東大震災の際、火災に襲われた校舎内で殉職した。なお、カイパーの墓に隣接しているDavid Hendricksは、カイパーの後を継いでフェリス和英女学校の校長となったルーマン・シェーファーの子息。震災後学校の再建に尽力しているさ中にわずか十三歳で死去した。

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山手

2016年05月20日 | 神奈川県
(根岸外国人墓地)
JR山手駅を北に出て徒歩一分。根岸外国人墓地の入口がある。横浜外国人墓地が手狭になったため、明治十三年(1880)、新設を認められたものである。しかし、墓地の管理問題や立地が不便だったこともあり、本格的に使用されたのは、明治三十五年(1903)以降と考えられるが、確認しうるもっとも古い被葬者の没年は二十四年(1892)まで遡るという。


J.H.Dunker Cuirtius
Kin
Anna


Boudewyn
2nd Beloved Son of J.H.Dunker Curtius

 まず、ドンケル・クルチウス兄弟の墓である。ドンケル・クルチウス(1813-1879)といえば、幕末の最後のオランダ商館長。ライデン大学法学部を卒業後、東インド高等軍事法院議官などを歴任。(1852)長崎に赴き商館長に就いた。安政二年(1855)、外交代表を兼ね、日蘭和親条約に調印。安政五年(1858)には日蘭修好通商航海条約を締結した。在任中にはオランダの支援により長崎海軍伝習所の設立に関与し、そのために軍艦ズームビング号(日本名・観光丸)を寄贈し、カッティンディーケらの派遣に尽力した。万延元年(1860)に帰国している。
 クルチウスの七人の子供のうち、三男ボードウィン・クルチウスと四男ヤン・ヘンドリック(二世)・クルチウスの兄弟はともに父がインドネシア、スラマン勤務時に現地で生まれた。ヤン・ヘンドリック二世は明治三年(1870)十月から明治六年(1873)十月まで、ボードウィンは明治四年(1871)九月から明治五年(1872)八月まで、徳島藩の外国語学伝習所の教師として英語やフランス語、ドイツ語を教授し、藩主蜂須賀茂韶の家庭教師を務めた。茂韶は語学力を活かして、イギリス・オックスフォード大学に留学し、帰国後は東京府知事、貴族院議長、文部大臣などを務めた。兄弟はオランダ公使館勤務を経て横浜に定住し、ボードウィンはメンデルソン兄弟商会などに勤務した。ヤン・ヘンドリックもオランダ貿易会社勤務の後、日本優先に奉職。明治二十八年(1895)には社長に就任している。墓石に刻まれているKinとは、夫人小山キンのことで、六人の子供に恵まれた。


Edward Edmund Kildoyle

 キルドイルは、居留地の堀川通りで最大手の鉄工所を営んでいた。来日は明治十一年(1878)頃といわれる。最初は小さな鍛冶工場から始め、明治二十年(1887)には日本人職工数三百八十四名を抱えるまでになった。その後、ほかの工場を合併する等して職工数五百人を越えた。昭和三年(1928)死去。なお、子息デニスは、極東国際軍事裁判の被告となった東郷茂徳の通訳を務めた。


Alan Owston

 オーストンはイギリスのサリー州パーブライトの出身。明治四年(1871)頃、レーン・クロフォード商会の社員として来日し、明治十四年(1881)には輸入商のオーストン・スノー紹介を設立した。オーストンは明治十八年(1885)にスノーとの共同経営を解消し、個人で営業を続け、蒸気機械や船具、鉄管類、ゴムなどを扱った。オーストンはヨットマンとして有名で、横浜セーリング・クラブの初代評議員に就任し、明治三十五年(1902)には横浜ヨットクラブの副会長にもなっている。また海洋生物を中心とする動物の研究家でもあった。明治二十八年(1895)には横浜動物商会を設立した。


John Hartley

 ハートレーは元治元年(1864)十月、来日。加賀藩のサムライに英語を教える代わりに日本語を習い、商用に差し支えないくらの日本語を習得して、薬品を輸入するほか、茶、生糸、銅貨、ボロ布の輸出を手掛けた。明治十年(1877)にはアヘンを輸入して問題となった。翌年商館を閉鎖して帰国したが、明治三十二年(1899)、再び横浜に戻って知人らと旧交を温めた。明治四十四年(1911)死去したが、没地は不明。何故、横浜に墓があるかも不明であるが、故人の遺志か、周囲の人たちの配慮により、思い入れのある土地に埋葬されたものであろう。
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大多喜 Ⅱ

2016年05月14日 | 千葉県
(円照寺)


円照寺

 戊辰戦争後、大多喜藩主大河内正質(まさただ)は、円照寺に謹慎した。何かその証跡らしきものが残っているかと期待したが、何もそれらしいものは見つけられなかった。この寺は、天智天皇九年(670)の創建という古い寺であるが、外から見た限り、今は無住の寺となっているようである。
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富津 Ⅲ

2016年05月13日 | 千葉県
(佐貫城跡)


佐貫城跡

 佐貫城の築城は室町時代にまで遡る。江戸時代に入って、内藤氏が二代にわたって城主となり、その跡を松平氏が継いだが一時廃城となった。その後、元禄年間、五代将軍綱吉の寵愛を受けた柳澤保明(吉保)氏が加増されて城主となった。吉保の転封後、再び廃城となった。宝永七年(1710)、三河刈谷より阿部正鎮が一万六千石で移り、以降、正興、正賀、正實、正簡、正、正身、正恒と続き、維新を迎えた。戊辰戦争に際し、内紛があり、態度決定に時間を要した。最終的には勤王に落ち着いたが、新政府より疑意を持たれることになった。

(安楽寺)


安楽寺


開闡院一乗日松居士(相場助右衛門墓)
演寶院妙義日相大姉(妻 寿美子)

 安楽寺に佐貫藩士相場勘右衛門の墓と慰霊碑がある。
 相場助右衛門は、文武両道の達人といわれる。文を大槻磐渓に、剣術を斎藤弥九郎の門下で、神道無念流の免許皆伝を得た。佐貫藩主阿部正身、正恒の二代にわたって家老として仕え、特に正身の信任が厚かった。藩主正恒が大坂城御加番を命じられたとき、側用人として随行。在坂中に天下の大勢を知った正恒は、助右衛門の意見を容れて、尊王に傾いた。しかし、このことが引き金となって、慶応四年(1868)四月二十八日、佐貫城大手門にて佐幕派三十二人の襲撃を受け、最期を遂げた。相場家は一家断絶、家族追放という悲劇に見舞われ、妻寿美子は後始末をして二年後に自害して果てた。墓石の背後に慰霊碑が建てられている。

 安楽寺は、西南戦争で戦死した佐貫出身の巡査八森良輔の菩提寺でもある。八森良輔の墓が残っていないか探してみたが、見つけることはできなかった。

(飯野神社)


飯野神社


飯野陣屋跡

 飯野陣屋は、初代藩主保科弾正忠正貞が、慶安元年(1648)に築造したもので、明治維新に至るまで、十代にわたって藩主の居所として利用された。正貞は、信州高遠上州保科正直の三男で、会津藩は本家に当たる。弘化四年()から嘉永六年(1853)まで会津藩が房総沿岸警備を命じられた際には、名代となって従事している。歴代藩主は、大坂定番、加番や江戸城門番等を務めることが多く、陣屋には代官を置いていた。禄高二万石のうち、飯野周辺は約三千石で、残りは関西地方にあった。
 現在、陣屋中心部には飯野神社が鎮座している。往時は約四万坪、陣屋内に本丸、二の丸、三の丸を備えた堂々たる陣屋で「三大陣屋」の一つと称される(残る二つがどこか不明ながら、現存しているのは、飯野陣屋のみだそうな)。周囲を巡る濠は、幅五メートル、底部がV字形の薬研堀で、部分的に往時の姿を留めている。
 のちほど調べたところ、三大陣屋とは上総飯野のほか、周防徳山と敦賀のことを指すそうである。


飯野陣屋濠

 戊辰戦争に際して、飯野藩も藩論を勤王に統一したが、藩内佐幕派との確執があって手間取った。そのため新政府から疑惑の目で見られることになった。

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君津

2016年05月13日 | 千葉県
(神野寺)
 実は鹿野山神野寺を訪れたのは、二回目である。前回も見付けられなかった榎本武揚筆招魂之碑を目指して再訪した。
 神野寺の寺務所で招魂之碑を尋ねてみたが、残念ながら寺の方では分からないという。そこから九十九谷公園やら、白鳥神社やら、鹿野山古道やらを歩き回ること約二時間。結局、招魂之碑の手掛かりすらつかめないまま、撤退することになった。かくなる上は、次回は必ずや発見するぞ、と固く誓った。


神野寺山門

(最勝福寺)
 春分の日の三連休、連日花粉が激しく飛散していたので、ほとんど家の外に出なかったが、さすがに三日も籠っているとストレスがたまる。三日目の早朝、五時に起床して、まだ暗い中を君津方面に向かった。
 最初の目的地は、君津市新御堂に所在する最勝福寺である。この境内に田沼意尊の墓があるはずであった。しかし、墓地を二~三周したが、出会うことはできなかった。田沼の墓、そしてその後の鹿野山の招魂之碑と、とにかくこの日は空振りが続いた。


最勝福寺

 田沼意尊は、有名な田沼意次の末裔で、天保十一年(1840)、家督を継いだときは相良藩主であった。元治元年(1864)の天狗党追討には、天狗党を追って敦賀に走り、そこで武田耕雲斎らを極刑をもって処断したことで知られる。慶応四年(1868)の鳥羽伏見の戦争でも会津・桑名藩兵とともに従軍したが、戦後、駿州方面の諸藩・旗本の情勢を知った意尊は急ぎ帰国して、二月二十三日、勤王証書を提出した。徳川家の駿府移封により上総小久保藩に転封された。

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伏見 Ⅷ

2016年05月07日 | 京都府
(宝塔寺)


宝塔寺

 文久三年(1863)八月の禁門の変の際、御所付近における戦闘が始まる数時間前、深草周辺で武力衝突があった。当時、伏見街道守備の任にあたっていた大垣藩は、伏見に駐屯していた長州藩兵が夜半に進軍するとの報に接し、宝塔寺に一隊を集めた。八月十九日の午前一時頃、伏見街道を北上する長州藩福原越後隊は、大垣藩兵と遭遇した。会津、桑名、彦根藩からも応援が駆け付け、隊長福原越後が被弾落馬したこともあり、長州藩兵は入洛を果たせず伏見藩邸に引き返した。


亡洋山本先生之墓

 宝塔寺墓地には、本草学者山本亡洋を産んだ山本家の墓地や、大丸創業者下村家の墓地、孝明天皇の侍医をつとめた伊良子家の墓などがある。

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五条西洞院

2016年05月07日 | 京都府
(山本亡洋讀書室舊蹟)


山本亡洋讀書室舊蹟

 山本亡洋(1778~1859)は、本草学者で薬草園を備えた読書室を開いて門弟の指導にあたったという人物である。平成二十六年(2014)二月、この読書室から大量の史料が発見され、注目を集めた。中には、戊辰戦争の際、江戸総攻撃の延期を求めた皇女和宮の哀訴状や、最後の将軍、徳川慶喜の同様の哀訴状なども含まれている。いずれも筆跡や包み紙の記述から直筆のものであることが確認されている。岩倉具視が西南戦争で使った暗号表も発見されている。当時、東京にいた岩倉は、電報や暗号表を使って、九州の戦地や大阪の大久保利通から情報を集めていた。その秘密通信文六十一通も見つかっている(徳川宗英著「徳川家が見た幕末の怪」より)。

(下京図書館)


明治天皇行幸之地

 新町通り松原を下った下京図書館は、かつて修徳小学校があった場所で、そう言われてみると何となく小学校らしい雰囲気が残る。この場所には、明治二年(1869)には町会所を兼ねた我が国最初の町組立下京第一四番組小学校が設立された。明治七年(1874)に修徳小学校と改称されている。明治十年(1877)には明治天皇が臨幸され、そのことを記念した石碑が建てられている。

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「司馬遼太郎に日本人を学ぶ」 森史朗著 文春新書

2016年05月06日 | 書評
今年は司馬遼太郎先生の没後二十年となる。「司馬遼太郎、急死」の報に触れた日のことは、昨日のことのように覚えているが、あれからもう二十年が経ったのかというのが実感である。それにしても、没後二十年を経て、未だに人気が高く、関連本が次々と出版される作家は、司馬遼太郎をおいていない。
筆者は、長年司馬遼太郎の担当編集者として近しく接した方で、この本でも数多くの裏話を披露している。
この本は、若い世代から「司馬さんの作品を何から読めばいいのか」という問いへの答え、つまり「膨大な作品の山をきりくずす、一つの方法を提示しよう」というのが執筆の動機となっている。言わば「作品ガイド」というわけである。
 本書では「燃えよ剣」「竜馬がゆく」「最後の将軍」「世に棲む日日」「翔ぶが如く」を紹介する。この選考、順番に特に異論はないが、個人的に残念なのは傑作「胡蝶の夢」「北斗の人」が入っていないこと。まったく言及がないのは少々不満である。とにかく司馬作品はどれを読んでも面白い。つべこべ言わずにそれでも良いから読むことをお勧めしたい。
さて、本書後半では司馬遼太郎先生が何故ノモンハン事件の執筆を断念したのか、何故昭和の戦争のことを書かなかったのかを解説している。司馬遼太郎先生は生前ノモンハン事件について「書いたら死んでしまう」と話していたという。同じようなことを「ノモンハン」を週刊文春史上に連載した五味川純平は「あまりに愚劣な戦闘」「いったいどれだけの兵士が死んでいったのか」「ところが作戦を強行した参謀たちは生き残り、処断されてもそれは形式だけで、また返り咲く」「こんな破廉恥な奴らがいるのか、と思うと、腹が立つし夜も眠られない」と語ったという。恐らく司馬先生も同じ想いだっただろう。
司馬先生が「ノモンハンや太平洋戦争を書いた小説を読み、その時代の日本を読者として受け止めてみたかった」とは、司馬先生の知人である元筑波大学教授青木彰元の言である。
しかし、ノモンハン事件や太平洋戦争を題材とした小説は、読者が求めているような「痛快で感動的な」作品には成りえないだろう。私は司馬先生が書かなかった方が良かったような気がしている。
実は最近枕元に「この国のかたち」を置いて、睡眠の前に少しずつ読んでいる。司馬先生はこの本で繰り返し昭和の軍閥の愚行、統帥権の問題を説いている。司馬先生の主張はこの本を読めば良く分かる。これで十分ではないか。

コメント (3)
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「豊前幕末傑人列伝」 三浦尚司著 海鳥社

2016年05月06日 | 書評
豊前というのは、現在の地名でいうと福岡県北九州市の一部(小倉辺り)から行橋市、みやこ町、豊前市、さらに大分県の中津市や宇佐市まで広がる地域である。さして広いともいえないこの地域から幕末傑人が巣立っていった背景には、蔵春園という私塾が大きな役割を果たした。蔵春園は、文政七年(1824)、恒遠醒窓によって上毛郡薬師寺村(現・豊前市)に開設された漢学塾で、醒窓の死後、その子精斎が継承し、明治二十八年(1895)までの七十年以上にわたって多くの人材を輩出した。本書で紹介されている人物は、いずれも多かれ少なかれ蔵春園で薫陶を受けた者である。
筆頭に紹介されている白石廉作は、有名な白石正一郎の弟である。奇兵隊に属していたが、文久三年(1863)、河上弥市らとともに生野に走って挙兵。こと破れて自刃したという人物である。また、同じ長州人では、海防僧として知られる月性も蔵春園に学んでいる。
本書では、ほかにも農政の振興に業績を挙げた曽木墨荘、巨万の富を惜しげもなく学校や病院の建設など社会事業に投じた豪商小今井潤治、矢方池築造に命をかけた高橋庄蔵ら、蔵春園における教育を受け、社会に貢献した人物に触れている。彼らの私財をなげうってでも社会に貢献しようという事績や情熱を通して、蔵春園における教育がどういうものだったかを伺い知ることができよう。恒遠醒窓は、若い頃、広瀬淡窓の咸宜園で学んでいる。咸宜園も、大村益次郎や高野長英、上野彦馬、長三州、清浦圭吾などの個性を生んだ。醒窓も当然咸宜園における教育の影響を強く受けた。咸宜園から蔵春園に至る系譜から、多くの人材が育ったことを見ると、改めて教育の重要性を痛感する。著者は「多くの知識を吸収することを最優先する考え方よりも、人間教育に重きを置いた私塾の思想を現在の社会によみがえらせる必要がある」と説く。そのことに全く異存はないが、私塾で行われていた教育とはどんなものだろうか。

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