(横浜外国人墓地つづき)
Nathan Brown
ネーサン・ブラウンは、1807年、米国ニューハンプシャー州ニューインプスウィッチに生まれた。マサチュセッツ州ウイリアムズタウンのウイリアムズ大学に入学した。この大学は東洋伝道発祥の地と呼ばれるほど、多くの宣教師を産んでいる。1832年、応募によりビルマに赴任。さらに四年後、インドに渡り十九年に渡って伝道に従事した。明治六年(1873)、六十五歳の時、来日すると、すぐさま聖書の日本語訳に取り組み、明治十二年(1879)、新約聖書を我が国で初めて全文和訳した「志無也久世無志与(しんやくぜんしよ)」を刊行した。多くの日本人が読めるように、全文ひらがなで制作された。明治十九年(1886)、七十九歳にて死去。
Thomas Thomas
トーマスは、イギリスの絹織物業の町、マクルスフィールドの出身。文久元年(1861)、十九歳の時に来日した。元治元年(1864)、ストラチャンと組んで商社を設立し、生糸や茶の輸出、綿織物の輸入などを手掛けた。トーマスは、競馬マニアであった。慶応元年(1865)には、日本馬バタヴィアにエドワード・スネルが乗り、中国馬ラットにトーマスが騎乗してマッチ・レースが仕組まれた。このレースは、トーマスの勝利に終わった。維新後は、日本初の西洋式競馬場「根岸競馬場」理事なども務めた。大正十二年(1923)関東大震災の犠牲となった。享年八十一。
James Stuart Eldridge
エルドリッジは、アメリカ、ペンシルバニア州フィラデルフィアの出身。南北戦争では北軍トーマス将軍の参謀将校を務めた。戦後はハワード将軍のもとでワシントンの奴隷解放局に勤務した。1869年に農務省の図書館司書となったが、この縁で明治三年(1871)、農務長官ケプロンの秘書兼医師として来日することになった。当初は開拓使付医師として函館に赴任し、開拓使函館医学校の教官となった。明治八年(1875)、開拓使との契約が切れると、横浜山手病院に転じて、明治二十年(1887)まで勤務した。明治十六年(1883)には政府から中央衛生委員を委嘱された。明治三十四年(1901)、体調を崩して死去。火葬を提唱したが、自らも遺言により火葬された。日本政府より勲三等瑞宝章を贈られた。
James Walter
ウォルターはイギリス、リヴァプールの出身。ロンドンの生糸商のもとで経験を積んだ後、慶応三年(1867)に来日した。ウォルターは語学の天才であった。フランス語、ドイツ語、イタリア語のほか、スペイン語、ロシア語にも通じ、特に日本語も流暢であった。濃尾の震災や青森の飢饉、日露戦争傷病兵の福祉に多大な援助をし、「ワタリさん」と呼ばれ、親しまれた。明治四十一年(1908)、帰国して三人の子供との再会を果たしたが、食道癌を患っていることが発覚し、治療の望みがないことが分かると、横浜に戻って翌年二月に死去した。日本政府は、勲五等旭日賞を贈った。
John Frederic Lowder
ラウダーは、横浜税関法律顧問。万延元年(1860)、十七歳のラウダーはイギリスの外務省領事部門の日本語通訳生に採用され来日した。文久元年(1861)七月には、江戸東禅寺で水戸浪士の襲撃に遭い、ピストルで応戦した。文久二年(1862)九月、結婚。相手は宣教師ブラウンの娘ジュリアである。なお、同じ年の七月、ラウダーの母は初代駐日公使オールコックと再婚している。その後、ラウダーは長崎に赴任し、元治元年(1864)の四国連合艦隊による下関砲撃の際には通訳をつとめた。そこから大阪副領事、兵庫領事代理、新潟領事代理を歴任し、弱冠二十六歳で横浜駐在領事に昇任した。明治三年(1870)一時帰国したが、二年後に再来日し以降は大蔵省に雇用され、明治二十一年(1888)まで法律顧問として横浜税関の整備に貢献した。横浜税関在任中にハートレーによるアヘン輸入を条約違反として摘発したり、座礁した外国船ノルマルトン号の日本人犠牲者への補償追及に功績があった。条約改正問題では、領事裁判権の廃止は時期尚早として強硬な反対論者であった。明治二十三年(1890)にはジャパン・ガゼット新聞社を買収し、条約改正反対の論陣を張った。
Carlo de N. Gonzaga
ネンブリニ=ゴンザカは、イタリアのダルマチア地方の北西部ザーラ(現在はクロアチア領)という街の出身。サムライに憧れて来日したといわれる。来日は明治十一年(1878)。少なくとも五か国語に通じていたというが、語学力を活かして通訳や語学教師として活躍した。明治二十一年(1888)には外務省、翌年には神奈川県に雇用され、十数年にわたって通訳官をつとめた。明治三十六年(1903)、鎌倉の自宅で死去。
James Favre-Brandt
ファヴル=ブラントは、スイス出身の商人。文久三年(1863)アンベールを団長とするスイスの特派使節団が来日した際、団長に随行して来日し、そのまま日本に居住して開業した。ファヴル=ブラントは子供の頃から東洋に憧れを抱き、遣日使節団の報を耳にすると志願して随行を決めた。武器、機械、時計、宝飾品等の輸入に従事した。幕末には薩摩藩の大山弥助が武器購入係としてファヴル=ブラント商会を訪れ、スナイドル後装銃を購入したという。大山以外にも、西郷隆盛、従道、黒田清隆、伊藤博文、山県有朋、桂太郎、井上馨らと交遊関係があった。明治に入ると時計の輸入と啓蒙、日本人時計師の育成に尽力した。日本各地における塔時計の設置にも貢献した。日本人女性松野久子と結婚して七人の子供をもうけたが、久子は明治十五年(1882)、三十歳の若さで死去した。その後、久子の姪松野くま子と再婚し、二人の子をなしたが、くま子も二十五歳で病死した。また五人の子供にも先立たれる等、事業では成功を収めたものの、私生活では不幸が多かった。大正十二年(1923)、八十二歳で永眠。
Camus J.J.Henri
井土ヶ谷事件の犠牲者カミュの墓である。カミュは十八歳の時志願兵となり、イタリア遠征に従軍した。その後、中国に派遣され、コーチシナ(ヴェトナム南部)遠征にも参加した後、駐屯軍の一員として横浜にきた。文久三年(1863)十一月十五日午後二時頃、一人で武器も持たずに馬で散策にでたところを襲われ斬殺された。一人だったため犯人の情報が得られず、真相は分からずじまいであった。カミュの葬儀には各国の軍人、外交団、居留民の多数が参列し、参列は周辺の道路にあふれたという。フランス公使ベルクールは幕府に抗議するとともに、事件の謝罪と下関海峡で砲撃されたフランス船キャンシャン号に対する賠償金の解決のため、フランスへ使節を派遣することを提案した。幕府はこれを受け入れ、池田長発を正使とする使節団(第二次遣欧使節)を派遣した。使節はカミュの遺族に扶助料として三万五千ドルを支払った。
Roman Mophet
Ivan Sokoloff
横浜開港後間もない安政六年(1859)八月二十五日、来日中のロシア使節の随員、モフェトとソコロフが横浜市中で殺害された。二人は青物屋徳三郎方で買い物を済ませて出てきたところを攘夷派の武士に襲われた。これに対し、ロシア使節は船将ウンコフスキーを通じて、賠償金ではなく、幕府が墓標を立てて丁重に埋葬し、永久に保護することを要求した。当初、彼らの墓は、横浜村の寺院増徳院に仮埋葬された。犯人は永らく不明であったが、のちに敦賀で拘束されていた水戸天狗党の一員小林幸八の自供によって判明し、直ちに小林は横浜に移送されて処刑された。
Wessel De Vos
Jasper Nanning Dekker
万延元年(1860)二月二十六日午後七時半頃、三日前にオープンしたばかりの横浜ホテルに知人を訪ねたオランダ人フォスとデッケルの二人は、買い物をして船に戻ろうとした時に暴漢に殺害された。フォスはクリスチャン・ルイス号、デッケルはヘンエリッタ・ルイーゼ号の船長であった。遺体は横浜ホテルに運ばれそこで検死を受けた。犯人は不明のままである。オランダ、イギリス、フランスの三国は共同で被害者一名につき、二万五千ドルの賠償金を要求したが、幕府はオランダに千七百両を支払い、これが以降の外国人被害者に対する賠償金の前例となった。
William Marshall
マーシャルは、イギリスのマンチェスターとリヴァプールの中間に位置するウィガンの出身で生麦事件の時、三十五歳。妻の妹のマーガレットは、香港でウォーカー・ボラデイル商会を経営するトーマス・ボラデイルの夫人である。マクファーソンと立ち上げた商社は、日本系商社ではトップ3位に入る有力な企業となっていた。文久二年(1862)九月十四日、マーシャル、リチャードソン、クラークと義妹ボラデイル夫人らとともに川崎大師へ遠足に出かけたところ、生麦事件に遭遇した。このとき、マーシャルも重傷を負い、神奈川の本覚寺(アメリカ領事館)に逃げ込み、ヘボンの治療を受けて一命をとりとめた。マーシャルは外国人商業会議所の会頭を二度にわたって務め、明治五年(1872)、横浜駅で行われた鉄道開業式では居留民を代表して明治天皇の前で祝辞を述べた。また、競馬愛好団体の横浜レース・クラブの役員を務める等、当時の居留民を代表する名士であった。明治六年(1873)、働き盛りの四十六歳で急死した。
Robert Nicholas Bird
George Walter Baldwin
ボールドウィン少佐とバード中尉は、いずれもイギリス陸軍第二十連隊第二大隊に所属。元治元年(1864)十一月二十一日午後三時から四時の間、二人は鎌倉の長谷の大仏を見物した後、鶴岡八幡宮の参道に入ったところで二人組の浪人に殺害された。犯人は清水清次と間宮一の二人。事件後、旧知の蒲池源八と稲葉丑次郎とともに京都に出ようとしたが、資金が足らなくなったため藤沢宿近くで強盗を働いた。この事件で蒲池と稲葉が捕縛され、彼らの自供から清水の犯行が明らかになった。二人は鎌倉における外国人殺害事件とは関係はなかったが、犯人に仕立てられ横浜の戸部刑場で処刑された。その後、清水も逮捕され、やはり戸部刑場で処刑されて吉田橋際に梟首された。処刑の際の清水の落ち着いた様子は、見物に来ていた外国人に感銘を与えたらしい。写真を撮影したベアトは「処刑の際の彼の冷静さと勇気は驚くべきもので、もっと良いことのために用いられればと惜しまれる」と述べている。
Nathan Brown
ネーサン・ブラウンは、1807年、米国ニューハンプシャー州ニューインプスウィッチに生まれた。マサチュセッツ州ウイリアムズタウンのウイリアムズ大学に入学した。この大学は東洋伝道発祥の地と呼ばれるほど、多くの宣教師を産んでいる。1832年、応募によりビルマに赴任。さらに四年後、インドに渡り十九年に渡って伝道に従事した。明治六年(1873)、六十五歳の時、来日すると、すぐさま聖書の日本語訳に取り組み、明治十二年(1879)、新約聖書を我が国で初めて全文和訳した「志無也久世無志与(しんやくぜんしよ)」を刊行した。多くの日本人が読めるように、全文ひらがなで制作された。明治十九年(1886)、七十九歳にて死去。
Thomas Thomas
トーマスは、イギリスの絹織物業の町、マクルスフィールドの出身。文久元年(1861)、十九歳の時に来日した。元治元年(1864)、ストラチャンと組んで商社を設立し、生糸や茶の輸出、綿織物の輸入などを手掛けた。トーマスは、競馬マニアであった。慶応元年(1865)には、日本馬バタヴィアにエドワード・スネルが乗り、中国馬ラットにトーマスが騎乗してマッチ・レースが仕組まれた。このレースは、トーマスの勝利に終わった。維新後は、日本初の西洋式競馬場「根岸競馬場」理事なども務めた。大正十二年(1923)関東大震災の犠牲となった。享年八十一。
James Stuart Eldridge
エルドリッジは、アメリカ、ペンシルバニア州フィラデルフィアの出身。南北戦争では北軍トーマス将軍の参謀将校を務めた。戦後はハワード将軍のもとでワシントンの奴隷解放局に勤務した。1869年に農務省の図書館司書となったが、この縁で明治三年(1871)、農務長官ケプロンの秘書兼医師として来日することになった。当初は開拓使付医師として函館に赴任し、開拓使函館医学校の教官となった。明治八年(1875)、開拓使との契約が切れると、横浜山手病院に転じて、明治二十年(1887)まで勤務した。明治十六年(1883)には政府から中央衛生委員を委嘱された。明治三十四年(1901)、体調を崩して死去。火葬を提唱したが、自らも遺言により火葬された。日本政府より勲三等瑞宝章を贈られた。
James Walter
ウォルターはイギリス、リヴァプールの出身。ロンドンの生糸商のもとで経験を積んだ後、慶応三年(1867)に来日した。ウォルターは語学の天才であった。フランス語、ドイツ語、イタリア語のほか、スペイン語、ロシア語にも通じ、特に日本語も流暢であった。濃尾の震災や青森の飢饉、日露戦争傷病兵の福祉に多大な援助をし、「ワタリさん」と呼ばれ、親しまれた。明治四十一年(1908)、帰国して三人の子供との再会を果たしたが、食道癌を患っていることが発覚し、治療の望みがないことが分かると、横浜に戻って翌年二月に死去した。日本政府は、勲五等旭日賞を贈った。
John Frederic Lowder
ラウダーは、横浜税関法律顧問。万延元年(1860)、十七歳のラウダーはイギリスの外務省領事部門の日本語通訳生に採用され来日した。文久元年(1861)七月には、江戸東禅寺で水戸浪士の襲撃に遭い、ピストルで応戦した。文久二年(1862)九月、結婚。相手は宣教師ブラウンの娘ジュリアである。なお、同じ年の七月、ラウダーの母は初代駐日公使オールコックと再婚している。その後、ラウダーは長崎に赴任し、元治元年(1864)の四国連合艦隊による下関砲撃の際には通訳をつとめた。そこから大阪副領事、兵庫領事代理、新潟領事代理を歴任し、弱冠二十六歳で横浜駐在領事に昇任した。明治三年(1870)一時帰国したが、二年後に再来日し以降は大蔵省に雇用され、明治二十一年(1888)まで法律顧問として横浜税関の整備に貢献した。横浜税関在任中にハートレーによるアヘン輸入を条約違反として摘発したり、座礁した外国船ノルマルトン号の日本人犠牲者への補償追及に功績があった。条約改正問題では、領事裁判権の廃止は時期尚早として強硬な反対論者であった。明治二十三年(1890)にはジャパン・ガゼット新聞社を買収し、条約改正反対の論陣を張った。
Carlo de N. Gonzaga
ネンブリニ=ゴンザカは、イタリアのダルマチア地方の北西部ザーラ(現在はクロアチア領)という街の出身。サムライに憧れて来日したといわれる。来日は明治十一年(1878)。少なくとも五か国語に通じていたというが、語学力を活かして通訳や語学教師として活躍した。明治二十一年(1888)には外務省、翌年には神奈川県に雇用され、十数年にわたって通訳官をつとめた。明治三十六年(1903)、鎌倉の自宅で死去。
James Favre-Brandt
ファヴル=ブラントは、スイス出身の商人。文久三年(1863)アンベールを団長とするスイスの特派使節団が来日した際、団長に随行して来日し、そのまま日本に居住して開業した。ファヴル=ブラントは子供の頃から東洋に憧れを抱き、遣日使節団の報を耳にすると志願して随行を決めた。武器、機械、時計、宝飾品等の輸入に従事した。幕末には薩摩藩の大山弥助が武器購入係としてファヴル=ブラント商会を訪れ、スナイドル後装銃を購入したという。大山以外にも、西郷隆盛、従道、黒田清隆、伊藤博文、山県有朋、桂太郎、井上馨らと交遊関係があった。明治に入ると時計の輸入と啓蒙、日本人時計師の育成に尽力した。日本各地における塔時計の設置にも貢献した。日本人女性松野久子と結婚して七人の子供をもうけたが、久子は明治十五年(1882)、三十歳の若さで死去した。その後、久子の姪松野くま子と再婚し、二人の子をなしたが、くま子も二十五歳で病死した。また五人の子供にも先立たれる等、事業では成功を収めたものの、私生活では不幸が多かった。大正十二年(1923)、八十二歳で永眠。
Camus J.J.Henri
井土ヶ谷事件の犠牲者カミュの墓である。カミュは十八歳の時志願兵となり、イタリア遠征に従軍した。その後、中国に派遣され、コーチシナ(ヴェトナム南部)遠征にも参加した後、駐屯軍の一員として横浜にきた。文久三年(1863)十一月十五日午後二時頃、一人で武器も持たずに馬で散策にでたところを襲われ斬殺された。一人だったため犯人の情報が得られず、真相は分からずじまいであった。カミュの葬儀には各国の軍人、外交団、居留民の多数が参列し、参列は周辺の道路にあふれたという。フランス公使ベルクールは幕府に抗議するとともに、事件の謝罪と下関海峡で砲撃されたフランス船キャンシャン号に対する賠償金の解決のため、フランスへ使節を派遣することを提案した。幕府はこれを受け入れ、池田長発を正使とする使節団(第二次遣欧使節)を派遣した。使節はカミュの遺族に扶助料として三万五千ドルを支払った。
Roman Mophet
Ivan Sokoloff
横浜開港後間もない安政六年(1859)八月二十五日、来日中のロシア使節の随員、モフェトとソコロフが横浜市中で殺害された。二人は青物屋徳三郎方で買い物を済ませて出てきたところを攘夷派の武士に襲われた。これに対し、ロシア使節は船将ウンコフスキーを通じて、賠償金ではなく、幕府が墓標を立てて丁重に埋葬し、永久に保護することを要求した。当初、彼らの墓は、横浜村の寺院増徳院に仮埋葬された。犯人は永らく不明であったが、のちに敦賀で拘束されていた水戸天狗党の一員小林幸八の自供によって判明し、直ちに小林は横浜に移送されて処刑された。
Wessel De Vos
Jasper Nanning Dekker
万延元年(1860)二月二十六日午後七時半頃、三日前にオープンしたばかりの横浜ホテルに知人を訪ねたオランダ人フォスとデッケルの二人は、買い物をして船に戻ろうとした時に暴漢に殺害された。フォスはクリスチャン・ルイス号、デッケルはヘンエリッタ・ルイーゼ号の船長であった。遺体は横浜ホテルに運ばれそこで検死を受けた。犯人は不明のままである。オランダ、イギリス、フランスの三国は共同で被害者一名につき、二万五千ドルの賠償金を要求したが、幕府はオランダに千七百両を支払い、これが以降の外国人被害者に対する賠償金の前例となった。
William Marshall
マーシャルは、イギリスのマンチェスターとリヴァプールの中間に位置するウィガンの出身で生麦事件の時、三十五歳。妻の妹のマーガレットは、香港でウォーカー・ボラデイル商会を経営するトーマス・ボラデイルの夫人である。マクファーソンと立ち上げた商社は、日本系商社ではトップ3位に入る有力な企業となっていた。文久二年(1862)九月十四日、マーシャル、リチャードソン、クラークと義妹ボラデイル夫人らとともに川崎大師へ遠足に出かけたところ、生麦事件に遭遇した。このとき、マーシャルも重傷を負い、神奈川の本覚寺(アメリカ領事館)に逃げ込み、ヘボンの治療を受けて一命をとりとめた。マーシャルは外国人商業会議所の会頭を二度にわたって務め、明治五年(1872)、横浜駅で行われた鉄道開業式では居留民を代表して明治天皇の前で祝辞を述べた。また、競馬愛好団体の横浜レース・クラブの役員を務める等、当時の居留民を代表する名士であった。明治六年(1873)、働き盛りの四十六歳で急死した。
Robert Nicholas Bird
George Walter Baldwin
ボールドウィン少佐とバード中尉は、いずれもイギリス陸軍第二十連隊第二大隊に所属。元治元年(1864)十一月二十一日午後三時から四時の間、二人は鎌倉の長谷の大仏を見物した後、鶴岡八幡宮の参道に入ったところで二人組の浪人に殺害された。犯人は清水清次と間宮一の二人。事件後、旧知の蒲池源八と稲葉丑次郎とともに京都に出ようとしたが、資金が足らなくなったため藤沢宿近くで強盗を働いた。この事件で蒲池と稲葉が捕縛され、彼らの自供から清水の犯行が明らかになった。二人は鎌倉における外国人殺害事件とは関係はなかったが、犯人に仕立てられ横浜の戸部刑場で処刑された。その後、清水も逮捕され、やはり戸部刑場で処刑されて吉田橋際に梟首された。処刑の際の清水の落ち着いた様子は、見物に来ていた外国人に感銘を与えたらしい。写真を撮影したベアトは「処刑の際の彼の冷静さと勇気は驚くべきもので、もっと良いことのために用いられればと惜しまれる」と述べている。