(安国寺)
安国寺
建部武彦墓
建部武彦は文政三年(1820)、福岡藩士建部孫左衛門自福の長男に生まれた。諱は自強。大組頭で、加藤司書とともに福岡藩尊王派藩士の領袖と称された。元治元年(1864)第一次征長軍の解兵に際し、征長総督徳川慶勝の旨を受け、浅香市作、喜多岡勇平ら三人の副使を伴い、正使として山口に使し、藩主黒田長溥の意のあるところを伝えた。帰藩するや藩論一変、佐幕派の台頭するところとなり、同志衣非茂記らとともに加藤司書ら尊王派藩士の救出を試みたが成功せず、かえって私曲をもって国法を犯すとの罪により自宅に禁固され、衣非とともに安国寺にて自刃を命じられた。年四十五。
衣非茂記墓
衣非(いび)茂記は、天保二年(1831)の生まれ。諱は直正。初め三郎右衛門と称した。小姓頭、無足頭、徒士頭等を経て、文久三年(1863)九月、藩世子黒田長知の上京に際し、大監察として随行した。長知の帰途の長州藩世子との会見の際にはその機密に与った。元治元年(1864)の征長軍解兵、五卿西渡の時には納戸役として大いに尽力した。翌慶応元年(1865)六月、藩論一変して佐幕となり乙丑の獄に連座、屛居を命ぜられた。ついで安国寺において自刃を命じられた。年三十五。一説には藩論転換の際、大宰府の五卿を擁して兵を挙げよと説き、これが藩主の廃立問題に発展したという。
福岡市観光案内ガイドの調査結果によれば、「建部、衣斐の二名は寺の記録に残らず不明。五十年前に墓地を整理し、納骨堂に祀りなおしたが、現在の記録にない」という回答であったが、何故だかこの二人については簡単に墓石を見付けることができた。一方、喜多岡勇平については戒名「自得悟宗居士」とまで説明があり、今も安国寺にあるはずだが、いくら探しても見付けられなかった。残念…。
喜多岡勇平は文政四年(1831)筑前那珂郡下警固村に生まれた。平野國臣や野村望東尼らと親交があり、文久二年(1862)四月、抜擢されて祐筆御用掛頭取となった。文久三年(1863)、福岡藩世子黒田長知の参府に随行し、帰途長州小郡での世子と長州藩主との会見実現に尽力した。ついで元治元年(1864)、第一次征長戦では建部武彦とともに加藤司書に従い、解兵、五卿西渡に努力した。慶応元年(1865)、福岡藩論の転換に際して、黒田播磨一葦、矢野相模幸賢と謀って浦上数馬ら佐幕派の排斥の建議書を提出したが容れられなかった。同年六月、尊王過激派の伊丹真一郎、藤四郎らによって暗殺された。年四十五。
(少林寺)
少林寺
少林寺の入口付近に月形家の墓がある。
格葊月形先生墓(月形洗蔵墓)
漪嵐月形先生墓(月形深蔵墓)
月形深蔵は寛政十年(1798)の生まれ。父は藩儒月形鶴窠。十七歳のとき、父に従い江戸に出て、古賀精里に学び、文政二年(1819)、藩地に帰り、学校加勢小役となり、累進して赤間駅町奉行に転じた。嘉永三年(1850)致仕し、子洗蔵に跡を譲って家居した。早くより勤王憂国の志あり、外国人が幕府に迫って通商貿易の許可を求めると、「辺防之策」を草して、海防の重要なることを説き、また尊王を唱えて藩風の振起を期し、洗蔵とともに密かに同志とかたらい、藩論の転換を試みたが果たせず、文久元年(1861)には父子とも藩政を乱すとの罪名を得て、秩禄を奪われて自宅に禁固され、孫の恒にわずかな扶持が与えられた。蟄居中病死。年六十五。
月形洗蔵は文政十一年(1828)、藩儒月形深蔵の子に生まれた。嘉永三年(1850)、家督を継ぎ、馬廻組に加わり、のち大島の定番となったが、まもなくこれを辞した。万延元年(1860)五月、藩主黒田長溥の参勤交代に際し、尊王的立場から参勤交代の非を説き、さらに八月には藩政の腐敗を批判した建言を提出した。このため同年十一月捕えられ、翌文久元年(1861)、家禄没収の上、御笠郡古賀村に幽閉された。文久三年(1863)六月、加藤司書らの建言により帰宅するが、なお門外に出ることを禁止され、元治元年(1864)五月、ようやく罪を許されて家禄を復し、町方詮議掛および吟味役を命じられ、爾来薩長二藩の宥和に奔走し、長州征伐軍の解兵に努め、慶応元年(1865)正月、五卿が筑前大宰府に移る時、早川勇と下関に迎えてこれを案内した。しかし、幕府の長州再征が決定されると藩論は一変し、佐幕派の専制に帰した。加藤司書ら勤王派藩士とともに捕えられて処刑された。年三十八。
鷦窠月形先生墓
月形深蔵、洗蔵父子の墓に並べられて、もう一つ月形姓の墓がある。深蔵の父で儒者の月形鷦窠のものである。
(西郷南洲翁隠家の跡)
西郷南洲翁隠家の跡
福岡市中央区鶴舞一丁目の「兼平鮮魚」店の前に西郷南洲翁隠家の跡と記された石碑が建てられている。西郷が何時、どういう事情でここに逗留したのか詳細は不明。
(玄洋社跡)
中央区舞鶴のNTTドコモ舞鶴ビルの前に「玄洋社跡」碑が建てられている。
玄洋社跡
(長円寺)
今回、乙丑(いっちゅう)の変で犠牲となった二十四名の墓を訪ねるにあたって、それが現存しているのかどうか心許なかったので、福岡市の観光案内ボランティアに事前に確認のメールを送らせていただいた。先方では寺院に直接問い合わせていただいたりして、結果かなり明確になった。事前に回答をいただいた中で、長円寺の万代十兵衛の墓については「住職いわく 当寺の檀家にはいない」とのことであった。諦めきれずに長円寺の墓地を歩いてみたが、かなりの墓が新しいものになっており、古い墓石は相当数が整理されたものと思われる。
長円寺
万代(ばんだい)十兵衛は天保六年(1835)、福岡藩士の家に生まれた。諱は常徳。武術に長じ、ことに射芸を好み、弓馬の故実を江上善述(江上栄之進の父)に受けた。文久三年(1863)、藩世子黒田長知に扈従して上京、禁闕を守護した。たまたま八月十八日の政変に遭い、森安平、尾崎惣左衛門らと長州藩に投じた。その後、帰藩し、森および喜多岡勇平と藩命をもって再び長州に使し、三条実美に謁見して知遇を得た。慶応元年(1865)正月、五卿が筑前大宰府に移るに際し、これを周旋したが、藩論一変により同年六月の乙丑の獄に連座して禁固に処され、福岡香正寺にて自刃を命じられた。
(香正寺)
乙丑の変で万代十兵衛が自刃した香正寺には、大隈言道の墓がある。
香正寺
大隈言道墓
大隈言道は寛政十年(1798)、福岡城下、薬院(現・福岡市中央区)にあった安学橋の側で商家を営んでいた大隈言朝の第四子に生まれた。文化二年(1805)に父言朝、翌三年に兄言愛が相次いで亡くなったため、わずか九歳で家業を継ぐことになった。一方、父が亡くなった頃には、福岡藩の歌人でもあった二川相近(ふたがわすけちか)について書や和歌などを学んだ。家業の傍ら三十五歳頃から従来とは異なる独自の歌風を模索するようになり、天保七年(1836)、家業を弟言則に譲り、歌道に専念した。この時、隠棲した今泉の居宅を「池萍堂」「ささのや」と名付けた。言道は多くの弟子をとり、福岡に限らず芦屋や飯塚、久留米、鳥栖、田代などに赴き、歌の指導にあたった。幕末の女流歌人として知られる野村望東尼も言道の門下である。天保十年(1839)には日田の咸宜園に入門し、廣瀬淡窓に師事した。わずか数か月のことであったが、淡窓とは後年も交流を深めた。安政四年(1857)、歌集を出版するために大阪に上った。大阪では歌集出版に奔走する一方で適塾の緒方洪庵とも交流をもった。大阪滞在の七年目の文久三年(1863)、歌集「草径集」を上梓。慶応三年(1867)、福岡に戻ったが、体調を崩し翌年七月に亡くなった。年七十一。
(今泉公園)
大隈言道翁舊宅
大隈言道の隠棲地は、現在「ささのやの園」として整備され、歌碑や文学碑が建てられている。大隈言道翁舊宅碑は金子堅太郎の書。
大隈言道大人舊宅の碑
大隈言道大人舊宅の碑は、昭和四年(1929)建立。佐々木信綱の書によるもの。佐々木信綱は、言道の「草径集」を古書屋で買い求め、その和歌にうたれ世に紹介したことで知られる。
淡窓詩碑
言道と交流のあった廣瀬淡窓の漢詩を刻んだ碑である。やはり昭和四年(1929)建立。咸宜園の同門となる清浦奎吾の書。碑の下部は特に摩耗が激しく読み取れない文字も多い。
大隈言道文学碑
大隈言道歌碑
植ゑおきて 旅には行かん櫻花
帰らん時に咲きてあるやと
なにをする暇もなしと年ごとに
日の短さを侘ぶるころかな