史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

福岡 城南

2016年06月18日 | 福岡県
(天福寺)
 かつて福岡の中心部にあった天福寺であるが、現在城南区南片江という、博多から十キロメートル近く離れた場所に移転している。山門の前に加藤司書の歌碑が建てられている。刻まれている歌は、西公園の歌碑と同じものである。


天福寺


加藤司書歌碑

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福岡 南

2016年06月18日 | 福岡県
(平尾霊園)
 平尾霊園には番号の付いた区画のほかに「特別区」と名付けられた一角がある。そこが玄洋社墓地である。そこに福岡の変の慰霊碑や玄洋社社員の箱田六輔や松浦愚らの墓碑がある。


福岡の変慰霊碑「魂の碑」

 「魂の碑」は、明治十二年(1879)、頭山満らの手により、福岡の変の殉難者を慰霊するために、建立された石碑である。


福岡の変碑

 福岡の士族が蹶起すると、萩の乱に連座して獄に繋がれていた頭山満、箱田六輔、進藤喜平太ら、堅志社の若者たちに激しい拷問が加えられた。堅志社のほとんどが武部の門下生であったことから、これを知った武部小四郎は自ら名乗り出た。これにより、頭山満らは九死に一生を得た。
 福岡の変の首謀者、越智彦四郎と武部小四郎とは明治十年(1877)五月、処刑された。福岡の変による戦死者は五十四人、刑死五人、獄死四十三人、懲役囚は四百二十二人を数え、その多くが二十歳前後の若者だったという。


清水正次郎の碑

 清水正次郎は玄洋社の社員というわけではない。一介の鉄道員である。
 明治四十四年(1911)十一月十日、明治天皇が筑紫野で開かれた陸軍大演習統監のために西下。門司桟橋で休息した。その際、御召し列車を入れ替える最中に脱線する事故が起きた。このため当初、五分という予定であった明治天皇の休憩時間が一時間に及び、沿道の予定が全て変更となってしまった。鹿児島本線門司駅の構内主任清水正次郎は、鉄道員総裁に宛てて「お召し列車を脱線した責任をとる」という遺書を残して、翌日下関の幡生トンネル付近で列車に身を投じて自殺した。三十三歳。
 玄洋社系の日刊紙「九州日報」の社説で「清水氏の自殺は国民の精華なり」と絶賛され、顕彰碑建立計画を発表した。このことを当時の玄洋社社長進藤喜平太が知り、顕彰碑建立を買って出た。
 この顕彰碑は、戦後博多の東公園に破棄されかけていたものを、昭和五十二年(1977)、筥崎宮宮司田村克喜らの発起によって現在地に再建したものである。

(興宗寺)


興宗寺

 興宗寺(こうしゅうじ)は、別に穴観音と呼ばれる。この付近一帯には多くの古墳があったが、福岡城築城の際に石垣の石として抜かれ、古墳は壊滅したといわれる。興宗寺境内に残された古墳は横穴式の石室で、巨大な岩を用いた市内屈指の巨石墳である。石室内に阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩が彫られていることから、いつしか穴観音と呼ばれるようになった。
 明治十年(1877)三月十九日、「西郷発つ」の報を受けて武部小四郎や越智彦四郎らが密かに集まり、この穴の中で謀議を交わした。

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福岡 早良

2016年06月18日 | 福岡県
(修猷館高校)


修猷館高校

 県立修猷館高校は、言うまでもなく藩校修猷館(東学問所)の流れを汲む名門高校である。藩校修猷館が廃校となったのは、明治四年(1871)のことであるが、明治十八年(1885)、金子堅太郎の建言を容れて県立学校として修猷館が再興された。以来、政財界や官界・法曹界等、多分野に多くの人材を供給している。

(紅葉八幡宮)


紅葉八幡宮

 明治十年(1877)薩摩の西郷隆盛が起ったとの知らせに九州諸藩は色めき立った。福岡でも当初薩軍蹶起と同時に立ちあがる予定であったが、征討総督有栖川宮熾仁親王が福岡入りし、征討本営を置いたことや、旧藩主黒田長知の説得工作などによって延期されていた。結局、福岡の武部小四郎や越智彦四郎らが立ちあがったのは、三月二十八日。午前一時、越智隊が早良郡宮の森に集結し、同時刻に武部隊が住吉神社の境内に集合した。また越智隊別動隊の村上彦十の小隊は、紅葉八幡に集合した。越智隊、武部隊合わせて四百人の予定であったが、実際には越智隊は百余人、武部隊に至っては十五六人しか集まらなかった。それでも越智隊は二方向から福岡城を攻撃したが、鎮台兵の防御は固く、多数の犠牲者を出して潰走した。結局、福岡から薩軍に合流できたのは、平岡浩太郎(のちに玄洋社初代社長)一人だけであった。福岡の変という。


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福岡 博多 Ⅱ

2016年06月18日 | 福岡県
(聖福寺)


聖福寺

 やはり福岡市観光案内ガイドの調査によれば、聖福寺に斎藤五六郎の墓があることが確認できたということであったが、実際に聖福寺に行ってみると墓地には立ち入りができなかった。諦めきれずに本堂の角に立って塀越しに墓地を見渡してみると、偶然にも斎藤五六郎の墓を発見することができた。望遠レンズにて撮影。執念の一枚である。


禅機院心應一腫居士(斉藤五六郎墓)

 斎藤五六郎は文政十二年(1829)、江戸福岡藩邸に生まれた。父は福岡藩士斎藤儀一郎定得。諱は定広。安政年間より加藤司書と協力して藩論の一致に努めた。元治元年(1864)の禁門の変に際して、福岡藩は禁裏守護のために加藤を長として派兵することになり、五六郎は大組頭助役としてこれに従い、加藤の補佐役に勤めた。第一次征長の役により派兵は中止となったが、征長軍の解兵のことに尽力し、また五卿保護の任に尽くした。のち大目付に進んだが、時に勤王・佐幕の二派に分れて争い、五六郎は尊王の藩論確立に努めたが、佐幕派の台頭により、翌慶応元年(1865)六月、職を追われて屛居させられ、博多天福寺にて自刃を命じられた。年三十七。

 聖福寺には、ほかに玄洋社の平岡浩太郎もあるが、残念ながらこちらは発見に至らず。

(節信院)
 節信院には加藤司書の墓がある。


節信院


見性院殿悟道宗心居士
(加藤司書の墓)


 加藤氏はもと摂津伊丹の豪族で、荒木村重によって幽閉されていた黒田孝高(如水)を救出した加藤重徳を祖とし、代々福岡藩の中老を務めた。司書は天保十一年(1840)に家督二千八百石を継いだ。嘉永六年(1853)、ロシアのプチャーチンが長崎に来航した際、福岡藩では司書に命じて藩士五百とともに長崎を警備した。元治元年(1864)の第一次長州征討の際には、広島の征長総督本陣に出向いて内戦の不可を訴え、長州征討の中止に尽くした。戦後、家老に昇進したが、司書の率いる改革派と保守派の対立が深まることになった。政権を把握した改革は、藩政の拡張と他藩との連携強化を進めたが、幕府・朝廷の意向を重視する藩主長溥の怒りを買う結果になり、慶應元年(1865)家老を罷免された。さらに幕府が長州再征を決したことから、保守派が復権し、改革派、尊攘派は弾圧を受けた(乙丑の変)。司書は同年十月二十五日、天福寺にて自刃。


加藤大三郎墓

 加藤司書の墓の近くには、司書の子で玄洋社員として活動した加藤大三郎の墓もある。

(妙楽寺)


妙楽寺


鷹取養巴墓

 鷹取養巴は文政十年(1827)の生まれ。父は福岡藩医鷹取秀綽。安政五年(1858)、勤王僧月照が京都から福岡に逃れてくると、同志と謀って月照を薩摩に遁れさせた。万延元年(1860)、藩主黒田長溥の参勤交代に際し、尊王派とこの阻止を建言したため、幽囚された。文久三年(1863)、許されて、浅香市作らとともに周旋方に任じられ、隣藩を歴訪し、その見聞に基いてしばしば建白を行った。元治元年(1864)、第一次征長に際して藩命により長州に使して恭順を勧め、また福岡藩内屯営の薩摩、肥前、筑後の諸藩兵の解兵を説き、ついで五卿の大宰府移転を斡旋した。慶応元年(1865)の乙丑の獄に連座。月形洗蔵らとともに枡木屋の獄において斬られた。年三十九。


伊丹真一郎墓

 伊丹真一郎は天保四年(1833)、福岡藩士伊丹三十郎重遠の長男に生まれた。諱は重本、字は子信、雅号として信堂とも称した。万延元年(1860)、家督を継いで、藩政改革と尊王攘夷を唱えたため、文久元年(1861)五月、隠退、閉門を命じられた。文久三年(1863)、許されて、元治元年(1864)幕府が征長の軍を起すと、同志と解兵のために斡旋し、長州に赴いて意思の疎通に努め、五卿の西渡、薩長和解、高杉晋作の筑前亡命等に尽力した。ことに五卿を大宰府に迎えるに当たり、その中心的役割を果たし、以後五卿の警衛として大宰府に駐留した。ときに喜多岡勇平らが陰に幕府に通ずるを疑い、翌慶応元年(1865)六月、同志とともに暗殺した。同月、藩論が一変し禁固に処せられ、九月下獄、ついで死刑に処された。年三十三。


八代家累代之墓(八代主馬墓)

 八代主馬は天保三年(1832)の生まれ。親族吉田岩見利尚の養子となったため、一時吉田主馬とも称した。諱は利征。家督を継いで中老に班し、用人に進んだ。万延元年(1860)、藩主の東上に扈従し、文久元年(1861)、世子に従い、帰国以来国事に奔走した。文久三年(1863)、遠賀郡在住の命を受け、東郡領端守衛を委任された。芦屋、山鹿、若松に砲台を築き、また農閑期に装丁の者を選抜し郷兵を組織し、外国軍艦の下関砲撃時には長州藩を援助した。慶応元年(1865)、己丑の獄に連座して用人を免ぜられたが、四月には長州再征の役に復職。京都出向を命じられた。時に中村到とともに藩論の回復を謀ったが、再び佐幕派に排斥されて、帰藩の命を受け、放役の上、逼塞謹慎に処された。慶応三年(1867)十月、許されて前職に復し、慶応四年(1868)三月、参政に進んだ。明治二年(1869)六月、版籍奉還ののち執政となり、福岡藩政を主導した。このとき初めて八代を姓とした。明治三年(1870)正月、権大参事、明治四年(1871)の廃藩に当たり士族授産の法を講じ、区長に任じられた。しかし、明治六年(1873)県下に竹槍一揆が起こると、責任を負って切腹した。年四十二。


大野氏累代之墓(大野仁平墓)

 大野家の墓に大野仁平が合葬されているそうである。戊辰戦争では博徒や神官、僧兵、農民から成る勇敢隊を結成して、奥羽を転戦した。維新後は玄洋社に加わり、平岡浩太郎の炭鉱業をサポートした。


森勤作墓

 森勤作は天保二年(1831)の生まれ。諱は通寧。字は子静。初め耕之助、のちに主一、升などと称した。父は福岡藩士吉田兵太夫生秀。福岡藩士森専蔵通知の養子となった。一時江戸納戸役として江戸藩邸に住み、水戸藩の尊王志士と交わり、藤田東湖と海防、軍備のことを論じた。元治元年(1864)、第一次征長に際し、藩命により諸藩征長軍の隊長に解兵を説いてまわった。慶応元年(1865)、対馬藩で勤王・佐幕の内訌が起こると、藩命により尾崎惣左衛門、尾上四郎左衛門らとともに対馬に渡り、朝廷に尽力した。その頃、福岡藩内の藩論が一変し、本国の同志はみな罪を蒙り、勤作もまた召還の命を受けた。薩長の同志は帰国に反対したが、勤作はこれを斥けて帰藩し、捕えられて処刑された。年三十五。

(天福寺跡)


天福寺跡碑

 祇園の第一生命ビルの前に天福寺跡を示す石碑が置かれている。石碑には、この場所で切腹して果てた加藤司書の歌と辞世も刻まれている。

 君が為 盡す赤心今よりは
 尚いやまさる 武士の一念

(万行寺)


万行寺

 福岡旅行の二日目、夕刻に万行寺を訪れたら、正門が閉ざされ中に入ることができなかった。翌朝、改めて訪問して入ることができた。墓地入口付近に石蔵卯平の墓がある。


贈従五位石蔵卯平忠明之墓

 石蔵卯平は天保七年(1836)、屋号を石蔵屋という対馬藩御用を務める博多鰯町の商家に生まれた。尊王の志士と交わり、対馬、福岡両藩士のために金銭を供給し、あるいは自分の家に尊王の志士を庇ったり、また志士の依頼を受けて各地の情況を偵察した。対馬藩内訌では平田一族救出に尽くすところ大であった。慶応元年(1865)の夏、福岡尊王藩士月形洗蔵の書を携えて京都に上り、西郷隆盛の返書を得て帰る途中、形勢一変、月形らの刑死を聞き、下関にとどまって奇兵隊に入った。以後、高杉晋作に従い、野村望東尼に姫島脱出にも協力した。慶応四年(1868)、王政復古が宣言されたが、未だ諸藩の向背定まらず、ために九州の同志糾合に活躍中、天草で暗殺された。年三十三。

(立花寺)
 福岡空港に到着してレンタカーを手に入れると、最初の訪問地は立花寺の白垣亦吉の墓である。接取寺の墓地の一角にあるが、墓地のブロック塀の外側にある。


御地蔵様 白垣亦吉の墓

 白垣亦吉は、西南戦争に出役し、植木町辺田野山にて戦死。二十四歳と伝わる。

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福岡 博多 Ⅰ

2016年06月18日 | 福岡県
(明光寺)


明光寺

 黒田家がこの地に城を築き、城下町を整備すると、城下町の名を黒田家ゆかりの備前国福岡に因んで福岡と名付けた。古から商人の街として発展し、博多という地名が定着していた。明治二十二年(1889)、市制発足のとき市名決定を巡って博多と福岡が対立。博多の町人は「博多独立論」までとなえて博多市を主張したが、結局福岡市に決定した。これを不服とした博多側は、翌年の市会に市名改称を建議したが、票決で同点となり、議長の意見で変更は葬られた。同年十二月、九州鉄道が開通したが、駅名は博多となり、全国でも珍しい市名と駅名の異なる都市となった。

 明光寺本堂裏に野村望東尼の墓がある。野村望東尼は、二十四歳のとき、和歌の同門で福岡藩士の野村貞貫と結婚。五十四歳のときに夫に先立たれて受戒剃髪した、望東尼が本格的に活動を始めたのは、寡婦となって以降である。月照や平野國臣ら、行き場を失った多くの志士が望東尼の平尾山荘に匿われたといわれる。


向陵院招月望東禅尼(野村望東尼墓)

(福岡藩精錬所跡)


福岡藩精錬所跡

 博多の中洲といえば、福岡市の中でももっとも繁華な場所である。私がここを訪ねたのは午前五時半であったが、前夜から飲み続けた若者が何人も所在なげにたむろして、どんよりとした空気が流れていた。松居壱番館というビルの前に、柱に挟まれるようにして「福岡藩精錬所跡」という石碑が立っている。
 福岡藩精錬所は、弘化四年(1847)、藩主黒田長溥の命により創設された理化学研究所であり、長崎で習得させた西洋の科学技術をここで実験させ、あるいは製造させた。

(グリーンビル)
 福岡宿泊の初日のホテルは、人参畑塾跡の直ぐ近くだったので、夕食の後歩いて撮影に行ってきた。


人参畑塾趾(興志塾跡)

 興志塾は高場乱が主催した私塾である。この門下から、頭山満、来島恒喜、平岡浩太郎、箱田六輔、進藤喜平太ら玄洋社の中枢となった人物を多数輩出している。

(東公園)
 東公園には元寇に因んで日蓮上人像と亀山上皇の二体の銅像がある。亀山上皇銅像台座の「敵国降伏」の文字は有栖川熾仁親王の筆である。日露戦争前後の緊迫した空気の所産であろう。
 亀山上皇は、十三世紀後半の元(モンゴル)軍の襲来の際に、「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国の降伏を祈願した。このことを記念し、当時の福岡県警務部長(今でいう警察署長)だった湯地丈雄等の十七年にわたる尽力により明治三十七年(1904)に建立された。高さ六メートルという堂々たる銅像である。


亀山上皇像


亀山上皇銅像台座文字 有栖川熾仁親王筆

(崇福寺)


崇福寺

 崇福寺は、仁治元年(1210)に大宰府横岳に建立されたという古刹で、その後、天正十四年(1586)、兵火により焼失した。慶長五年(1600)、黒田長政により現在地に移され、黒田家の菩提寺となった。本堂裏の黒田家墓地には黒田如水、長政を始め黒田家一門の墓がある。また、一般墓地には玄洋社の頭山満、来島恒喜らの墓がある。


黒田家墓所

 黒田家墓所は現在福岡市経済観光文化局文化財保護課が管轄しており、開門時間は毎週土・日曜日の午前十時から午後四時まで。その時間帯であれば自由に見学が可能である。見学して立ち去ろうとすると、そこを警備していた方からアンケート回答を求められた。特に注文はないが、できれば駐車場を整備してもらいたいものである。
 ここには藩祖黒田如水、初代長政のほか、彼らの子女、夫人の墓や四代から七代および九代と十代藩主の墓が並ぶ。なお、二代、三代および八代藩主の墓は市内東長寺にあり、十一代以降の墓は東京青山霊園にある。


玄洋社墓地

 玄洋社は、かつて西郷隆盛の挙兵に呼応し、薩軍に投じた平岡浩太郎が、戦後投獄された市ヶ谷の監獄で知り合った古松簡二の感化を受け、出獄後頭山満らとともに結成した向陽社がその前身である。向陽社は、明治十二年(1879)、玄洋社と改称した。玄洋社は自由民権活動と不平等条約改正に挺身するとともに、中国の孫文、インドのラシュ・ビハリ・ボース、フィリピンのアルテミオ・リカルテら、アジアの国々の独立革命運動に命を賭した志士たちを支援した。


頭山満墓

 頭山満は、明治から昭和初期にかけて活躍した右翼の巨頭。玄洋社を首催した。


高場先生之墓(高場乱の墓)

 高場乱(おさむ)は天保二年(1831)、福岡城下の眼科医高場正山の娘に生まれた。幼少期より男児として育てられ、十一歳にして藩から帯刀を許された。漢学をはじめとする各種学問に明るく、眼科医院を継いだ後、幕末には若者の教育に力を入れた。維新後、四十歳のとき、興志塾を開いた。福岡の変を主導した武部小四郎や越智彦四郎も興志塾で学んだ門下生であった。高場乱も関与を疑われて尋問を受けたが、潔白を主張して釈放された。教え子の一人、来島恒喜の死の報を聞いて倒れ、その二年後の明治二十一年(1888)、世を去った。


来島恒喜之墓

 来島恒喜は、安政六年(1859)、福岡城下薬院薬研町に生まれた。少年時代から青年時代にかけて、高場乱の主宰する興志塾(通称人参畑塾)に学んだ。「慷慨義を好み、忠勇君に尽くすの精神、私を忘れて公に奉じ、身を捨てて国に殉ずる」という思想と精神は、興志塾での影響が大きいといわれる。明治十九年(1886)には同志の的野半助とともに小笠原諸島に渡り、そこで朝鮮からの亡命者金玉均と知り合った。来島は朝鮮の独立と近代化への支援を約束した。明治二十二年(1889)、大隈重信外相のすすめる条約改正案は外国人判事の任用を認めたものであったため、玄洋社はじめとする世論の反対を集めた。その年の十月十八日、愛宕神社に参拝した来島は、霞が関の外務省正門を出たところで大隈の乗る馬車に爆裂弾を投ずると、その場で自決した。大隈重信は、右足を切断する重傷を負ったものの、一命はとりとめた。この事件により外国人判事の任用は見送られることになった。

(百年蔵)


百年蔵

 百年蔵の歴史は、福岡藩主黒田家の播州播磨時代の御用商人であった石蔵屋まで遡るという。関ヶ原戦後、黒田家が筑前に移されると、石蔵屋もこれに従って博多に入った。「百年蔵」のホームページによれば、幕末には、福岡藩の加藤司書、長州藩の高杉晋作、薩摩藩の西郷隆盛との密約の場として奥座敷を提供したといわれる。

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福岡 中央 Ⅲ

2016年06月17日 | 福岡県
(大通寺)


大通寺


今中家累代墓(祐十郎・作兵衛の墓)

 今中作兵衛は天保七年(1836)、福岡藩士今中仁左衛門守道の子に生まれた。祐十郎は実兄。文久三年(1863)の冬、脱藩して周防に赴き、三田尻滞在中の三条実美ら七卿に謁し、長州藩志士と交わったが、福岡藩庁より帰藩を命じられた。元治元年(1864)、藩命により月形洗蔵、早川勇、伊丹真一郎らとともに長州に入り、征長軍解兵と五卿西渡に努力した。このとき西郷隆盛とともに広島に赴いた。高杉晋作の筑前亡命にも意を注いだ。慶応元年(1865)、藩論が一変して乙丑の獄に連座。兄祐十郎とともに枡木屋の獄で処刑された。年三十。
 兄祐十郎は天保六年(1835)の生まれ。ペリー来航後、藩政改革を海津幸一、森安平らとともに唱えた。弟今中作兵衛が脱藩して周防の七卿のもとに走ったが、祐十郎は藩地にとどまって尊王運動に従事した。慶応元年(1865)の乙丑の獄では、藩議に抵抗して尊王派の挽回を計ったが、成功せずして捕えられ、枡木屋の獄で処刑された。年三十一。

(浄満寺)


浄満寺


江上武要(栄之進)墓

 江上栄之進は天保五年(1834)の生まれ。祖父は亀井南冥の高弟江上源蔵苓洲、父は福岡藩士江上善述。祖父は文学、父は射術を以って藩に仕えたが、栄之進は文武に通じ、同藩の志士万代十兵衛と特に親しかった。万延元年(1860)、浅香市作、中村円太らと脱藩して鹿児島に赴いた罪により、文久元年(1861)五月、姫島に流された。同年許されて家に帰り、元治元年(1864)には藩命により長州に赴き、三条実美に謁見した。帰藩後、藩論紛々として定まらず、兄の知行地である粕屋郡吉原村で密かに活動を続けたが、慶応元年(1865)再び幽閉され、同年九月、枡木屋の獄に下され、ついで獄中にて斬刑に処された。年三十二。


贈正五位佐座謙三郎之墓

 佐座謙三郎は、天保十一年(1840)、福岡藩士佐座与平の長男に生まれた。幼少より月形深蔵・洗蔵父子に就いて学び、長じて藩の有志と交わり、尊王活動に奔走することになった。文久三年(1863)には西肥筑後の諸国を遊歴して同志の結合に尽力した。元治元年(1864)三月には福岡桝屋の獄に投じられていた中村円太を同志とともに救出し、長州へ逃走させた。このことが発覚し、佐幕派の忌むところとなり、慶應元年(1865)の乙丑の変において斬刑に処された。年二十六。
 手元の「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば、佐座謙三郎の墓は、正福寺にあるとされている。ところが福岡市の観光案内ボランティアの調査では正福寺から「大正時代の市電開通時に南庄の檀家の土地へ、そこも区画整理で昭和四十二年から四十三年頃撤去され現在は存在せず」という回答で、佐座謙三郎の墓に出会うのは絶望的と思われたが、期せずして淨満寺の江上栄之進の墓の隣に残っていた。


正福寺
(福岡市早良区室見4)


亀井家の墓

 亀井南冥は、寛保三年(1743)の生まれである。名は魯。通称は主水。字は道載。筑前の町医者の家に生まれ、大阪で永富独嘯庵に徂徠学を学び、のちに福岡藩の儒医となって徂徠学復興に尽力した。子の昭陽が亀門学を大成したといわれる。亀井家の墓地には昭陽や昭陽の子で画家として名を成した亀井少栞の墓もある。

(埴安神社)


埴安神社


金子堅太郎先生生誕地碑

 金子堅太郎は、嘉永六年(1853)、福岡生まれ。ハーバード大学で法学を修め、明治十三年(1880)、元老院に出仕。各国憲法の調査に当たり、明治十八年(1885)から伊藤博文のもとで井上毅、伊東巳代治とともに大日本帝国憲法、皇室典範、その他の憲法付属法典の起草に従事し、特に貴族院令・衆議員議員選挙法の立案を担当した。明治二十三年(1890))、初代貴族院書記官長、第三次・第四次伊藤内閣の農商務相、司法相を歴任。その間、明治三十三年(1900)の政友会結成に参画した。日露戦争中には渡米して、米国内の対日世論工作を担当した。明治三十九年(1906)、枢密院顧問官。昭和五年(1930)にはロンドン海軍軍縮条約問題では政府を批判し、天皇機関説問題が起こると、機関説を批判した。また、臨時帝室編集局総裁として「明治天皇御記」、維新史料編纂会総裁として「維新史」の編纂に尽力した。昭和十七年(1942)、八十九歳にて死去。

(円徳寺)


円徳寺


贈従五位吉田正實墓

 吉田太郎は天保二年(1831)の生まれ。父は福岡藩士吉田勘内直寛。太郎は通称で、諱は正實。元治元年(1864)三月、松田五六郎(中原出羽守の変名)と謀り、老臣牧市内を斬殺して脱藩。姓名を河辺又太郎と変じ、下関を経て三田尻に赴き、七卿を護衛した。同年七月、真木和泉の忠勇隊に属して禁門の変に戦い、敗れて天王山に退き、ついで三田尻に帰って忠勇隊に復した。のち五卿の西渡、薩長の融和に尽力し、五卿西渡後は藩の大田太郎とともに薩摩に入り、同地で撃剣師範となった。のち病床に伏し、西郷隆盛の勧めにしたがって長崎で療養したが、慶応三年(1867)六月、同地で病死した。年三十七。

(甘棠館跡)


西学問所跡 甘棠館

 天明七年(1784)に福岡藩が設けた藩校西学問所、別称甘棠館の跡である。徂徠古学派の亀井南冥が館長となり、学生の自主的な学習を尊重する校風の下、江上苓州、原古処、廣瀬淡窓といった人材が育成された。しかし、幕府の学問統制や藩内儒者間の主導権争いの結果、寛政四年(1792)、南冥は罷免され、さらに寛政十年(1798)、学舎が火災焼失したことから廃止された。


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福岡 中央 Ⅱ

2016年06月17日 | 福岡県
(東学問所藩校修猷館跡)
 福岡藩では、天明四年(1784)、藩の子弟教育のために二つの学問所を設けた。藩校東学問所(修猷館)と西学問所(甘棠館)である。そのうち一つの修悠館の跡が中央区赤坂一丁目にある。修猷館では、貝原益軒の流れを汲む竹田定良を館主に迎え、多くの人材を教育した。寛政十年(1798)西学問所が火災に遭って廃校となったため、その子弟をも収容し、その後は唯一の藩校として武芸なども教えた。


東学問所藩校修猷館跡

(福岡市西公園)
 西公園入口脇に平野國臣像がある。


平野國臣銅像

 平野國臣は文政十一年(1828)、福岡城下にて、福岡藩士平野吉三郎の二男に生まれた。一時、藩職を務めたが、安政二年(1855)、長崎出役時に異国船を目の当たりにして狂信的な日本主義者となり、半生を国事に捧げた。平野は同時に文人、国学者であり、総髪に烏帽子、直垂を着て、一昔前の太刀を佩いて町中を歩くなど、奇抜な格好を好んだほか、和歌や笛を嗜む風流人でもあった。尊王攘夷思想に傾倒して。安政五年(1858)脱藩し、京都で公卿や在京薩摩藩士と交流を深めるが、幕府の勤王家弾圧に危険を察し、筑後の真木和泉らと善後策を論じた。西郷隆盛が京都の勤王僧月照を連れて筑前から薩摩に入る際に、月照を庇護する役を担い、西郷らと南下。薩摩藩で追放されて筑前に戻り、危険を冒して再び上京した。万延元年(1860)より西国の尊攘派の結集を図るために、筑前、筑後、肥後、薩摩などを遊説して回り、倒幕計画を練った。寺田屋事変に連座して京都での挙兵に失敗し、福岡で獄に投じられた。ほどなく赦免されたが、尊王攘夷に対する平野の情熱は衰えることなく、文久三年(1863)、公卿澤宣嘉を擁して但馬生野で挙兵した。これが失敗すると捕らわれて京都六角獄舎に投獄された。元治元年(1864)、禁門の変の混乱のさなかに同志とともに斬首された。三十七歳。

 國臣の銅像の解説板には、國臣の漢詩の辞世が記されているが、私の知っている(自宅のトイレに飾っている)辞世と一文字異なっている。解説の横にさらに解説が加えられており、「従来、・・・成敗在天・・・とされてきたが、平成二十三年の冬、発見された平野家資料によると、「成否在天」と書き記されており、右解説板に追補する。」とある。マニアックな説明が嬉しい。


加藤司書公銅像(銅像の文字が消されている)

 戦前、ここには加藤司書の銅像があったが、戦時中の金属回収にため供出され、その後は台座だけが残った。台座には加藤司書の歌が刻まれており、現在は歌碑となっている。

 加藤司書は、天保元年(1830)、福岡藩士加藤徳裕の子として生まれ、幼くして家督を継ぎ、中老となった。その後、参政に任じられて藩の軍事を担当した。元治元年(1864)の禁門の変で隊長となったが、藩兵を率いて上洛のさなかに第一次長州征伐で派兵が中止となり、幕命に従って休戦に尽くした。翌年、三条実美ら五卿を大宰府に招くにあたり、藩論を尊王に導き、その保護に注力した。その直後に家老となり、福岡藩における勤王運動の中心人物として、薩摩藩の西郷隆盛と謀って征長軍の解兵を説くなど、その後の薩長連合の布石を打った。しかし、佐幕派が藩政を握るに至り、司書ら筑前勤王党に弾圧が加えられ、家老の職を退いた。慶応元年(1865)十月、藩主より切腹を命じられ、博多天福寺にて自刃した。


加藤司書歌碑

 皇御国(すめらみくに)の武士(もののふ)は いかなる事をか務むべき
 只(ただ)身にもてる赤心(まごころ)を 君と親とに尽すまで


加藤司書銅像(古写真)

(正光寺)


正光寺

 この写真に写っている黒い軽自動車は、今回六日間使用したレンタカーである。福岡でも、柳川でも結構細い路地を通行することになったので、軽自動車で良かったとつくづく思う。


中村円太・用六 合祀墓

 中村円太は天保六年(1835)、福岡藩士中村兵助良英の二男に生まれた。長兄は中村用六。幼少より文学を好み、安政三年(1856)、藩校修猷館の訓導に補せられたが、安政六年(1859)、脱藩して江戸に赴き、菅兵輔と変名して大橋訥庵門下に入り、かつ天下の志士と交わりを結び、尊王攘夷論の影響を受けた。万延元年(1860)、藩地へ帰り、月形洗蔵らと藩主黒田長溥の参勤交代反対の建言を成したが受け入れられず、かえって脱藩の罪により謹慎を命じられようとしたので、その年の秋、同志浅香市作、江上栄之進らと薩摩へ逃れ、有志に謀った。のち帰藩して脱藩の罪を自訴して命を待った。翌文久元年(1861)五月、小呂島に流された。その後流刑を解かれ、文久三年(1863)七月、三たび脱藩して長州へ走り、野唯人と変名して京に出て、朝廷より学習院出仕を命じられた。同年八月十八日の政変後、下関に至り、ここで世子長知の東上を知り、それに扈従することを請うたが許されず、ひそかに尾行して入京したところを藩吏に捕えられ、福岡桝木屋の獄に投ぜられたが、福岡藩同志筑紫衛、森勤作、伊丹真一郎らに救出され、長州へ行き、ここで三条実美の執事となった。時に弟の恒次郎も兄と行動をともにして、長州に走った。翌元治元年(1864)、長州藩兵に従って東上したが、七月禁門の変に敗退し、長州藩内は俗論派の台頭するところとなり、よって高杉晋作の脱出を助けて博多に帰り、また月形洗蔵らと五卿を大宰府に迎えることに奔走した。しかし、脱藩の罪を犯した身の上に危難が及ぶことは必然であったので、同志は博多退去を忠告したが、円太はこれを聞かず、ついに同志の怒りを買い、奈良屋町報光寺にて自刃した。

 長兄中村用六は文政八年(1825)の生まれ。万延元年(1860)弟の円太とともに「封事一冊」を藩主へ建白したが、藩庁に容れられず、禁固に処された。文久元年(1860)、許されて鞍手郡に退居した。維新の後、慶応四年(1868)三月、登用されて民政、財政、軍事等に携わり、明治三年(1870)には功をもって采地百石を賜り、公用人を兼ね、ついで福岡藩権大参事に任じ、司計局副総督を摂し、廃藩置県により職を辞した。明治六年(1873)六月、福岡に竹槍一揆が起こり、用六は鎮撫総宰として鎮撫に当たった。一揆が県庁に乱入するに至って、責を負って切腹した。年四十九。

(吉祥寺)
 吉祥寺には尾崎惣左衛門の墓がある。「尾嵜家累代之墓」の合葬。


吉祥寺


尾嵜家累代之墓

 尾崎惣左衛門は、文化九年(1812)の生まれ。幼少より藩校で儒学を学び、のち国学も修め、月形洗蔵らの「漢勤王」に対して「和勤王」と称された。安政二年(1855)、到来奉行、買物奉行などの諸歴を経て座敷奉行に進み、このとき江戸に祗役して造営のことを掌った。文久二年(1862)頃から藩政に関して種々建白するところがあり、元治元年(1864)、富国強兵の策を上書して藩主から賞され、周旋方に抜擢され、また諸藩を往来して志士と交わった。慶応元年(1865)、五卿の大宰府移居にも月形洗蔵らと周旋し、また対馬藩の勤王、佐幕の内訌に際して、対馬に渡ってその調停に尽力した。対馬より帰藩後、藩論が一変し、同年の乙丑の獄でその子逸蔵とともに捕えられて下獄。福岡正香寺にて自刃を命じられた。逸蔵もその日遠島に処された。

(平野神社)
 中央区今川一丁目の平野國臣の生誕地には、平野神社が創建されている。平野國臣がこの地に生まれたのは文政十一年(1828)のことで、父は福岡藩足軽で平野能栄といった。


平野神社


平野國臣誕生之地


平野國臣君追慕碑


歌碑

 本殿の横には、平野國臣が詠んだ、恐らく最も有名な和歌が記されている。

 我胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば
 烟はうすし 桜島山

 平野神社の近く、鳥飼恵比寿神社がある。この社務所で平野國臣の冊子を無料配付しているので、是非立ち寄っていただきたい。


鳥飼恵比寿神社

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福岡 中央 Ⅰ

2016年06月17日 | 福岡県
(安国寺)


安国寺


建部武彦墓

 建部武彦は文政三年(1820)、福岡藩士建部孫左衛門自福の長男に生まれた。諱は自強。大組頭で、加藤司書とともに福岡藩尊王派藩士の領袖と称された。元治元年(1864)第一次征長軍の解兵に際し、征長総督徳川慶勝の旨を受け、浅香市作、喜多岡勇平ら三人の副使を伴い、正使として山口に使し、藩主黒田長溥の意のあるところを伝えた。帰藩するや藩論一変、佐幕派の台頭するところとなり、同志衣非茂記らとともに加藤司書ら尊王派藩士の救出を試みたが成功せず、かえって私曲をもって国法を犯すとの罪により自宅に禁固され、衣非とともに安国寺にて自刃を命じられた。年四十五。


衣非茂記墓

 衣非(いび)茂記は、天保二年(1831)の生まれ。諱は直正。初め三郎右衛門と称した。小姓頭、無足頭、徒士頭等を経て、文久三年(1863)九月、藩世子黒田長知の上京に際し、大監察として随行した。長知の帰途の長州藩世子との会見の際にはその機密に与った。元治元年(1864)の征長軍解兵、五卿西渡の時には納戸役として大いに尽力した。翌慶応元年(1865)六月、藩論一変して佐幕となり乙丑の獄に連座、屛居を命ぜられた。ついで安国寺において自刃を命じられた。年三十五。一説には藩論転換の際、大宰府の五卿を擁して兵を挙げよと説き、これが藩主の廃立問題に発展したという。

 福岡市観光案内ガイドの調査結果によれば、「建部、衣斐の二名は寺の記録に残らず不明。五十年前に墓地を整理し、納骨堂に祀りなおしたが、現在の記録にない」という回答であったが、何故だかこの二人については簡単に墓石を見付けることができた。一方、喜多岡勇平については戒名「自得悟宗居士」とまで説明があり、今も安国寺にあるはずだが、いくら探しても見付けられなかった。残念…。

 喜多岡勇平は文政四年(1831)筑前那珂郡下警固村に生まれた。平野國臣や野村望東尼らと親交があり、文久二年(1862)四月、抜擢されて祐筆御用掛頭取となった。文久三年(1863)、福岡藩世子黒田長知の参府に随行し、帰途長州小郡での世子と長州藩主との会見実現に尽力した。ついで元治元年(1864)、第一次征長戦では建部武彦とともに加藤司書に従い、解兵、五卿西渡に努力した。慶応元年(1865)、福岡藩論の転換に際して、黒田播磨一葦、矢野相模幸賢と謀って浦上数馬ら佐幕派の排斥の建議書を提出したが容れられなかった。同年六月、尊王過激派の伊丹真一郎、藤四郎らによって暗殺された。年四十五。

(少林寺)


少林寺

 少林寺の入口付近に月形家の墓がある。


格葊月形先生墓(月形洗蔵墓)


漪嵐月形先生墓(月形深蔵墓)

 月形深蔵は寛政十年(1798)の生まれ。父は藩儒月形鶴窠。十七歳のとき、父に従い江戸に出て、古賀精里に学び、文政二年(1819)、藩地に帰り、学校加勢小役となり、累進して赤間駅町奉行に転じた。嘉永三年(1850)致仕し、子洗蔵に跡を譲って家居した。早くより勤王憂国の志あり、外国人が幕府に迫って通商貿易の許可を求めると、「辺防之策」を草して、海防の重要なることを説き、また尊王を唱えて藩風の振起を期し、洗蔵とともに密かに同志とかたらい、藩論の転換を試みたが果たせず、文久元年(1861)には父子とも藩政を乱すとの罪名を得て、秩禄を奪われて自宅に禁固され、孫の恒にわずかな扶持が与えられた。蟄居中病死。年六十五。

 月形洗蔵は文政十一年(1828)、藩儒月形深蔵の子に生まれた。嘉永三年(1850)、家督を継ぎ、馬廻組に加わり、のち大島の定番となったが、まもなくこれを辞した。万延元年(1860)五月、藩主黒田長溥の参勤交代に際し、尊王的立場から参勤交代の非を説き、さらに八月には藩政の腐敗を批判した建言を提出した。このため同年十一月捕えられ、翌文久元年(1861)、家禄没収の上、御笠郡古賀村に幽閉された。文久三年(1863)六月、加藤司書らの建言により帰宅するが、なお門外に出ることを禁止され、元治元年(1864)五月、ようやく罪を許されて家禄を復し、町方詮議掛および吟味役を命じられ、爾来薩長二藩の宥和に奔走し、長州征伐軍の解兵に努め、慶応元年(1865)正月、五卿が筑前大宰府に移る時、早川勇と下関に迎えてこれを案内した。しかし、幕府の長州再征が決定されると藩論は一変し、佐幕派の専制に帰した。加藤司書ら勤王派藩士とともに捕えられて処刑された。年三十八。


鷦窠月形先生墓

 月形深蔵、洗蔵父子の墓に並べられて、もう一つ月形姓の墓がある。深蔵の父で儒者の月形鷦窠のものである。

(西郷南洲翁隠家の跡)


西郷南洲翁隠家の跡

 福岡市中央区鶴舞一丁目の「兼平鮮魚」店の前に西郷南洲翁隠家の跡と記された石碑が建てられている。西郷が何時、どういう事情でここに逗留したのか詳細は不明。

(玄洋社跡)
 中央区舞鶴のNTTドコモ舞鶴ビルの前に「玄洋社跡」碑が建てられている。


玄洋社跡

(長円寺)
 今回、乙丑(いっちゅう)の変で犠牲となった二十四名の墓を訪ねるにあたって、それが現存しているのかどうか心許なかったので、福岡市の観光案内ボランティアに事前に確認のメールを送らせていただいた。先方では寺院に直接問い合わせていただいたりして、結果かなり明確になった。事前に回答をいただいた中で、長円寺の万代十兵衛の墓については「住職いわく 当寺の檀家にはいない」とのことであった。諦めきれずに長円寺の墓地を歩いてみたが、かなりの墓が新しいものになっており、古い墓石は相当数が整理されたものと思われる。


長円寺

 万代(ばんだい)十兵衛は天保六年(1835)、福岡藩士の家に生まれた。諱は常徳。武術に長じ、ことに射芸を好み、弓馬の故実を江上善述(江上栄之進の父)に受けた。文久三年(1863)、藩世子黒田長知に扈従して上京、禁闕を守護した。たまたま八月十八日の政変に遭い、森安平、尾崎惣左衛門らと長州藩に投じた。その後、帰藩し、森および喜多岡勇平と藩命をもって再び長州に使し、三条実美に謁見して知遇を得た。慶応元年(1865)正月、五卿が筑前大宰府に移るに際し、これを周旋したが、藩論一変により同年六月の乙丑の獄に連座して禁固に処され、福岡香正寺にて自刃を命じられた。

(香正寺)
 乙丑の変で万代十兵衛が自刃した香正寺には、大隈言道の墓がある。


香正寺


大隈言道墓

 大隈言道は寛政十年(1798)、福岡城下、薬院(現・福岡市中央区)にあった安学橋の側で商家を営んでいた大隈言朝の第四子に生まれた。文化二年(1805)に父言朝、翌三年に兄言愛が相次いで亡くなったため、わずか九歳で家業を継ぐことになった。一方、父が亡くなった頃には、福岡藩の歌人でもあった二川相近(ふたがわすけちか)について書や和歌などを学んだ。家業の傍ら三十五歳頃から従来とは異なる独自の歌風を模索するようになり、天保七年(1836)、家業を弟言則に譲り、歌道に専念した。この時、隠棲した今泉の居宅を「池萍堂」「ささのや」と名付けた。言道は多くの弟子をとり、福岡に限らず芦屋や飯塚、久留米、鳥栖、田代などに赴き、歌の指導にあたった。幕末の女流歌人として知られる野村望東尼も言道の門下である。天保十年(1839)には日田の咸宜園に入門し、廣瀬淡窓に師事した。わずか数か月のことであったが、淡窓とは後年も交流を深めた。安政四年(1857)、歌集を出版するために大阪に上った。大阪では歌集出版に奔走する一方で適塾の緒方洪庵とも交流をもった。大阪滞在の七年目の文久三年(1863)、歌集「草径集」を上梓。慶応三年(1867)、福岡に戻ったが、体調を崩し翌年七月に亡くなった。年七十一。

(今泉公園)


大隈言道翁舊宅

 大隈言道の隠棲地は、現在「ささのやの園」として整備され、歌碑や文学碑が建てられている。大隈言道翁舊宅碑は金子堅太郎の書。


大隈言道大人舊宅の碑

 大隈言道大人舊宅の碑は、昭和四年(1929)建立。佐々木信綱の書によるもの。佐々木信綱は、言道の「草径集」を古書屋で買い求め、その和歌にうたれ世に紹介したことで知られる。


淡窓詩碑

 言道と交流のあった廣瀬淡窓の漢詩を刻んだ碑である。やはり昭和四年(1929)建立。咸宜園の同門となる清浦奎吾の書。碑の下部は特に摩耗が激しく読み取れない文字も多い。


大隈言道文学碑


大隈言道歌碑

 植ゑおきて 旅には行かん櫻花
 帰らん時に咲きてあるやと

 なにをする暇もなしと年ごとに
 日の短さを侘ぶるころかな

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上毛

2016年06月11日 | 福岡県
(矢方池)


矢方池

 筑上郡上毛(こうげ)町の矢方(やかた)池は、度重なる干害に対処するため、高橋庄蔵が私財を投じて築造した貯水池である。庄蔵は、天保七年(1836)に生まれ、十四歳で庄屋代役、十六歳のとき野田村庄屋見習い、嘉永五年(1852)、十七歳のとき、蔵春園に入門した。明治三年(1870)、三十五歳で岸井手永大庄屋となった。庄蔵がため池の築堤を計画して、事業を興したのは明治十一年(1878)のことである。当時の感覚では、あまりに荒唐無稽な計画に、周囲の反応は冷ややかであった。しかし、庄蔵翁は農民を旱魃の被害から救うにはこれしかないと信じ、粘り強く近隣二十八ヵ村を説得し、膨大な私財を投じて事業を推進した。時に物笑いの種にされ、時に中傷を受けることもあったという。明治二十四年(1891)、庄蔵が五十六歳で他界した後、この事業は八幡小太郎(黒土村長)に引き継がれ、完成を見たのは丙池が明治二十一年(1888)、乙池は明治二十二年(1889)、難工事が続いた甲池は明治三十三年(1900)のことであった。「人間の偉さ」とか「人生の尊さ」というものは人それぞれ尺度があるし、一概に誰が偉いといえるものではない。たとえば明治時代に中央政界で国創りに生命を賭した人たちも非常に偉い人ばかりだと思うが、高橋庄蔵のように地域のために自分の生命財産を擲った無名の人物も同じように偉いと思ったので、ここに紹介したものである。


高橋庄蔵翁遺髪埋祀處


矢方池碑

 高橋庄蔵翁の遺髪碑と庄蔵を祀る矢方池神社が、矢方池を見守るように建てられている。
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豊前

2016年06月11日 | 福岡県
(蔵春園)


蔵春園

 蔵春園は、文政七年(1824)、恒遠醒窓(つねとうせいそう)が開いた私塾で、別に恒遠塾とも呼ばれる。醒窓は、文政二年(1819)、十七歳で廣瀬淡窓の咸宜園に入門して、ここで五年間学ぶ。二十二歳のとき、長崎に出て高島秋帆の家に身を寄せて、多くの人々と交わりながら学を修めて帰郷した。当地で私塾を開いて子弟の教育に力を注いだ。門下には海防僧として有名な僧月性などがいる。醒窓は五十九歳で没したが、その子の精斎が後を継ぎ、明治二十八年(1895)に歿するまで、父子二代にわたって七十年間続けられた。その間の入門者は約三千といわれる。蔵春園は、仏山の水哉園とともに北豊私塾の双璧と称えられた。


恒遠醒窓生誕二百年記念碑


恒遠梅村麟次先生像

 福岡旅行の初日はここで日歿を迎えた。本当は豊前市の史跡をもう少し見て回る予定であったが、日が暮れてしまっては致し方ない。この原因の一つは、レンタカーのカーナビの使い方に不慣れだったことにある。このカーナビは有料道路を使うことに極めて消極的であった。このカーナビの癖に気付いたのは、使用後数日を経た後であった。それまで盲目的にカーナビの勧める道を走っていたため、特に車量の多い飯塚、鞍手、北九州を移動するのに、予想以上の時間を要してしまった。この時間のロスは痛かったが、何とか最終日までに取り返すことができた。

(千束八幡神社)


千束八幡神社

 慶應二年(1866)八月、小倉小笠原藩は、長州との戦いに敗れ、自らの手で小倉城と藩邸を焼いて南に逃れた。小倉新田藩は、自領に陣屋(藩庁)を持たず、小倉城下の屋敷に常駐していた。幕末の小倉新田藩一万石の藩主小笠原貞正は、同年十一月、小倉藩の当主小笠原豊千代丸(のちの忠忱)とともに領内安雲(あぐも)の光林寺に入り、明治二年(1869)塔田原に館の建設を始め、翌明治三年(1870)に完成し、旭城と名付けた。実態としては城というより、政治的な藩庁と呼ぶべきものであった。現在千束八幡神社の周囲に残る石垣はその当時構築されたもので、千塚原古墳の石を転用したものと伝えられる。明治四年(1871)の廃藩置県により、結果的にここに千束藩庁が置かれたのは僅か一年ほどのことであった。全国で最後に築かれた城と呼ばれる。


旭城跡

(八屋)


小今井乗桂翁像


浄土真宗乗桂校舊跡

 小今井潤治(乗桂)は、文化十一年(1814)、上毛郡小祝村に生まれた。文政年間に宇島(うのしま)に移り住み、小今井家の営む萬屋を継いで、養父とともに米穀商と酒造業を商った。米や酒を運ぶために多くの船を保有し、四国や関西の商人と取引を行った。天保七年(1836)、小倉藩から紙幣「萬屋札」の発行を許され、格式大庄屋、御蔵本(年貢米を管理する役)を申付けられた。この頃、相次ぐ飢饉のため藩財政は苦しかったが、江戸西の丸の焼失による幕府への献金二万五千両のうち七千両を引き受けた。維新後も宇島港の管理と修理費用を負担したり、明治十七年(1884)の全国的飢饉にあたっては、二年間無制限の炊き出し、施し米を行った。明治二十年(1887)には私費で施療病院を開き、宇島駅の開業にあたって三町歩余りの土地を寄附した。明治八年(1875)、明治政府が信教の自由を達示すると、仏教の前途を憂い、独力で浄土真宗の私立大教校小今井乗桂校をこの地に開校した。ここで学んだ僧徒は三千人と伝えられる。乗桂とは西本願寺から賜った名である。明治二十年(1887)、大阪出張中に急逝した。享年七十四歳。


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