史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

行橋

2016年06月11日 | 福岡県
(水哉園跡)


仏山塾

 仏山塾は、幕末の儒学者で、詩人の村上仏山が開いた私塾である。仏山は文化七年(1810)、京都郡稗田村の庄屋の家に生まれた。筑前秋月の原古処の門下となり、古処の没後、各地に遊学して、二十六歳の時、母の勧めで家塾を開き、水哉園と名付けた。塾名は孔子の「水なる哉」に由来し、水の絶え間ない姿を学問の勧めに引用したものという。水哉園に学んだのは、近在の人々のみならず、仏山の学徳を慕って全国から多くの青年が集まった。明治十二年(1879)、七十歳で仏山が亡くなるまでの入塾者は千人を越えた。その中には「防長回天史」を書いた末松謙澄もいた。仏山の死後、養子静窓が跡を継ぎ、明治十七年(1884)、廃校となった。水哉園で使われた和漢の書籍、仏山が収集した書籍、書画、有名な学者と交わした書簡などは仏山塾関係資料として保管されている。


仏山先生墓

 水哉園内には村上仏山の墓が置かれている。

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みやこ

2016年06月11日 | 福岡県
(本立寺)


本立寺

 本立寺はもともと信濃国深志(現・長野県松本市)に所在していたが、小笠原氏の転封に伴い、播磨国明石、豊前小倉へと寺地を移した。慶応二年(1866)の幕長戦争で城下町が焼失した際、本立寺も一時廃されたが、明治二十年(1887)、豊津の地に再建された。国学者西田直養の墓があるというので、探してみたが、墓地すら発見できないまま撤退することになった。

(峯高寺)


峯高寺

 峯高寺を訪れると、ちょうど庭の手入れをしている御婦人がおられたので、墓の所在を確認することができた。墓地は境内を出て少し離れたところにある。墓地を入ったところに岡出衛の墓がある。


花柳院遊夢俊治居士(岡出衛墓)

 岡出衛(いずえ)は、文化九年(1812)小倉藩士の家に生まれた。初名を半五郎といった。二十代後半から太腿の肉が「腐肉」となる奇病に悩まされた。様々な治療を試みたがいずれも効果がなかった。竹中謙随という医師に診てもらったところ、十年越しの病はウソのように完治した。ようやく職務に専念できるようになった出衛は小倉藩の縁戚である播磨安志小笠原藩一万石に派遣され、そこで家老席に列するなど手腕を振るった。小倉に帰郷すると、用人役を命じられ、奥向きの御用掛や新設された政事掛奉行職に登用されるなど、出格の扱いを受けた。維新後も小笠原家の家令を務め、その家政を支え続けた。

(甲塚墓地)


秋月士族戦死墓


秋月藩士の墓

 明治九年(1876)の秋月の乱の際、秋月党の人々が旧小笠原藩士の蹶起を促すためにこの地へ来て説得を始めたが、結局小笠原の人々は動かず、やがて小倉から派遣された政府軍との間で戦闘となり、秋月の人々は十七名の戦死者を出して敗走した。十七名の遺骸はこの場所に葬られ、翌年遺族らによってこの墓標が建てられた。


斗南藩郡長正霊位(郡長正の墓)

 郡長正は、会津藩家老萱野権兵衛長修の二男に生まれた。萱野権兵衛は会津戦争の敗戦の責任を負って自刃し、萱野家は断絶。遺族は郡という姓を名乗ることになった。維新後、藩では同じ佐幕派として戦った小笠原藩の藩校育徳館に長正ほか六名の若者を派遣し、留学させた。わけても長正は文武にわたって優れていたという。彼が故郷にあてた手紙の中に寮の食事に関することが書き添えてあり、それがたまたま他の生徒の目に触れて問題となった。ついには武士の精神をなじられるに至り、長正は会津武士の面目を守るため切腹して果てた。明治四年(1871)五月一日のことであった。この墓は遠く三百里を隔てた故郷会津に向けて建てられている。

(育徳館高校)
 豊津高校の一角に、豊津高校の前身育徳館の校門が残されている。この黒塗りの門は「黒門」と呼ばれている。育徳館は、小笠原藩の藩校である。第二次征長戦の小倉口の戦いに敗れた小倉藩が、藩庁を田川郡(現・香春町)に移した際に、小倉城三の丸にあった藩校思永館も閉鎖され、新たにこの地に藩校を開くことになった。黒門も育徳館正門として建てられたものである。育徳館は明治十二年(1879)県立豊津高校(現・育徳館高校)に発展した。


育徳館高校


育徳館 黒門


郡長正ゆかりの石

 昭和三十一年(1956)、会津鶴ヶ城茶室の庭石と郡長正の実家である萱野家の墓石の一部が、郡長正ゆかりの石として育徳館高校に寄贈された。

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香春

2016年06月11日 | 福岡県
(香春小学校)


旧香春藩庁

 幕府の小倉口総督小笠原長行の脱走を知った小倉藩では、小倉新田藩主小笠原貞正、安志藩主小笠原幸松丸(貞孚)、それに家老の小宮民部、原主殿、小笠原甲斐、島村志津摩、小笠原織衛らが城内に集まり、幕府目付の松平左金吾、平山謙次郎(敬忠)に対し、小倉城の受取を要請した。当惑した二人は小倉城を放棄し、藩が要害の地に撤退することを認める旨の書付を小倉藩に渡して、天領日田に去った。そこで小倉藩幹部は軍議を開き、軍を門司口、中津口、香春口に後退させ、そこで防戦することを決した。小倉藩では香春(かわら)御茶屋を仮藩庁とした。長州藩と停戦協定が結ばれた後も、小倉藩は香春を正式な藩庁として使用し、明治三年(1870)、仲津郡錦原(現・京都郡みやこ町)に藩庁を移し豊津藩と改称するまで続いた。現在、香春小学校に残る藩庁門は、領主や賓客のほかは開門することがなかったといわれる。明治後、御茶屋は、小倉県第二大区調所、田川郡役所、郡立鷹羽学館などに利用され、大正十五年(1926)解体された。

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北九州 金辺峠

2016年06月11日 | 福岡県
(金辺峠)
 国道三二二号線を北九州から香春方面に南下すると、金辺峠(きべとうげ)を越えるところで隧道が穿たれている。トンネルを抜けて最初の交差点を左に折れて七百メートルほど旧道を進むと、自動車では進行できないような未舗装道となる。ちょうど峠付近に島村志津摩の碑がある。この辺りの地名は採銅所という。かつてこの付近で銅が採れたのかもしれない。


島村志津摩の碑

 慶応二年(1866)八月二日、田川郡採銅所で小倉藩の軍議が開かれ、金辺峠(きべとうげ)を島村志津摩率いる一軍が固め、企救郡と京都(みやこ)郡の郡境狸山は家老小宮民部が兵を率いて長州勢の侵攻を防ぐこととなった。既に幕府軍目付斎藤図書は大砲の音に怯えて山に逃げ出したというし、幕府軍小倉口総督で唐津藩世子の小笠原長行は戦線を離脱して長崎に逃れていた。九州諸藩兵も戦闘意欲に欠け、藩領を長州藩兵に冒された小倉藩は、まさに孤軍奮闘という状態であった。その象徴が島村志津摩であった。
 戦後、島村志津摩は、千石の加増も断り藩の再建に全力を注いだ。封建制度のもとで民意を徴し、政策を確立した。のち刈田町二崎に隠退し、明治九年(1876)八月、享年四十四にて死去した。

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北九州 小倉南

2016年06月11日 | 福岡県
(開善寺)
 開善寺は小倉南区湯川二丁目の坂の途中にある。その前の道をさらに進むと、山頂近くに開善寺の墓地がある。一見すると比較的新しい墓石が多いが、その中にあって一際古さが目につくのが小宮家の墓所である。なかなか分かりにくい場所にあるが、どういうわけだか一切迷うことなく直線的に行き着くことができた。


開善寺


小宮民部墓

 小宮民部は文政六年(1823)小倉藩士秋山衛士助光芳の二男に生まれ、のちに小宮親泰の養子となる。通称は民部のほか、又彦、小三郎、四郎左衛門とも。諱は親懐。天保十一年(1840)小宮家を相続し、嘉永六年(1853)家老に就いて藩財政の確立に尽くした。功により加増された。この頃、民部の名を賜った。慶応元年(1865)、藩主小笠原忠幹の死後、幼君豊千代丸を護り難局に当たった。長州再征の戦闘中、総督小笠原長行および応援の諸藩が小倉を去ったため、慶応二年(1866)八月、小倉城を焼いて藩庁を田川郡香春に移し、守備陣地を後方の天険に布いた。しかし、小倉城自焼の責を問われ、自刃した。年四十七。

(成就寺跡)
 小倉南区津田二丁目の住宅街の中に忽然と墓地が広がるが、かつてここには浄土宗護念寺の末寺成就寺があった。現在は墓地のみが残されている。ここに幕末の名手永(てなが)中村平左衛門の墓がある。


中村平左衛門維良墓

 中村平左衛門は豊前国菜園場村(現・北九州市小倉北区)に生まれた。文化五年(1808)、十六歳で企救郡勘定役(人馬方)に就任した。文政五年(1822)、小森手永(手永とは小倉藩における行政区画のこと)の大庄屋に任命された。継いで富野手永、津田手永の大庄屋に転じた。天保六年(1835)、旱魃に悩まされていた下曽根村(現・小倉南区)のために大池を造成した。その後、京都郡の延永、新津両手永の大庄屋に任命された。安政四年(1857)、高齢と病身を理由に大庄屋退任したが、その二年後、城野手永の大庄屋として異例の再登板をすることになった。文久元年(1861)、ようやく退任が認められ隠居生活に入った。慶応三年(1867)、七十七歳にて没。平左衛門は、文化八年(1811)から慶応二年(1866)まで五十六年にわたって日記を残した。幕末期の小倉藩の政治動向や社会の様相が描かれた貴重な資料となっている。
 中村平左衛門の墓の隣には、平左衛門の息でやはり藩政時代に手永を務めたほか、維新後は企救郡の初代郡長を勤めた津田維寧の墓もある(維新後、地名の津田に改姓)。

(蒲生八幡神社)


蒲生八幡神社


幸彦社

 蒲生八幡神社の境内社幸彦社は、国学者西田直養(なおかい)を祀るものである。
 西田直養は、寛政五年(1793)、小倉藩士の家に生まれた。文化十一年(1814)、白黒騒動では小姓役として使者を務め、天保十年(1839)以来、京都、大阪の留守居役となり、用人格まで昇った。安政元年(1854)蟄居を命じられると、藩の役職を退き、蟄居を解かれたあとも各地を巡って著述に勤しんだ。この時代の小倉藩を代表する国学者であり、「金石年表」「篠舎漫筆」「神璽考」など多くの著書を残した。慶応元年(1865)三月、七十三歳で亡くなって小倉の本立寺(現在、みやこ町豊津に移転)に葬られた。性洒脱、多芸多才で交友範囲も広く、野村望東尼らもその門を訪れた。没後、門人たちが計って蒲生神社内に幸彦社を建て、亡師を祀った。

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北九州 小倉北

2016年06月11日 | 福岡県
(手向山公園)
 今年(平成二十八年(2016))は、慶応二年(1866)の第二次長州征伐、(長州藩側から見れば四境戦争)から百五十年の記念の年である。これまで芸州口、大島口、石州口の戦跡は訪問済みであるが、残る小倉口の戦跡が未踏となっているのがずっと気になっていた。今回、ようやく実現することができた。


手向山公園
関門海峡方面を臨む

いわゆる小倉口の戦い(もしくは小倉戦争)の最激戦地となったのが、赤坂地区である。幕府の命を受けて小倉に集結した九州諸藩の兵は二万以上といわれる。これに対し、総督高杉晋作の指揮の下、長州藩の兵力はわずか一千であった。幕府は下関に攻め入る準備を進めるが、一足早く長州軍は関門海峡を渡った。
 戦いの火ぶたは、慶応二年(1866)六月十七日の早朝、長州軍が下関より対岸の門司、田ノ浦を奇襲して始まった。狼狽した幕府軍は簡単に敗走した。
 つづく七月三日、長州軍は再び海峡を渡って、今度は大里(現在の門司駅付近)の幕府軍陣営を奇襲した。七月二十七日、赤坂をめぐって激戦となった。ここを破られると小倉城は目の前である。幕府軍も凄まじい反撃に出た。およそ十三時間に及ぶ戦闘の結果、長州軍は戦死者の遺体を戦場に放置したまま下関に退却することになった。


手向山砲台跡

 手向山は、代々小倉藩の家老であった宮本家が、藩主から拝領していた。明治に入ってこの山一帯を陸軍が接収し、明治二十一年(1888)関門海峡防備のために山頂東側に砲台を構築した。今もその痕跡を見ることができる。
 手向山山頂には宮本武蔵や佐々木小次郎に関する碑や展望台があって、なかなか楽しめる。

(赤坂東公園)


慶應丙寅激戦の碑(赤坂合戦の碑)

 赤坂周辺は今や閑静な住宅街であるが、慶応二年(1866)六月の第二次長州征伐(長州でいう四境戦争)小倉口の戦いでは激戦区となった。高台にある住宅街の一角、赤坂東公園にこのことを示す石碑が建てられている。

(赤坂山)


長州奇兵隊戦死墓

 長州藩軍戦没者二十二名が眠る墓地である。長州奇兵隊戦死墓や山田鵬輔墓など四基の墓が並んでいる。彼らの墓は、対岸の下関の本行寺にもある。
慶応二年(1866)七月二十七日、長州軍と幕府軍(肥後藩・小倉藩ら)との戦いで、上鳥越(赤坂三丁目)に肉薄してきた長州藩奇兵隊山田鵬介隊との戦いは激しかった。山田隊は隊長以下多数の戦死者を出したが、肥後軍の直前で遺体収容もできず大里に引き上げた。肥後軍の参謀格横井小楠は、放置された遺体を集め「防長戦死塚」の木柱を立て手厚く葬った。明治になって長州出身の木戸孝允が、長州の僧田中芝玉に奇兵隊の遺骨を下関の奇兵隊墓地に移すように依頼した。これを聞いた新政府参与横井小楠は「墓を移すのは肥後藩の気持ちを無視するもので、遺憾である」と抗議した。木戸は諦めて芝玉に小倉の墓を守らせることにした。芝玉は長州が良く見えるこの地に墓を移し、墓守を続けたという。


山田鵬輔墓

 山田鵬介は生年不明。諱は成功。文久三年(1863)奇兵隊に入隊し、慶應二年(1866)六月、幕長戦において豊前小倉口に出陣。小隊(砲護隊)司令として大里で戦い、鳥越千畳敷砲台に進入して奮戦中、銃丸に当たって戦死した。


慶應丙寅戦蹟

(延命寺)
 木戸孝允の依頼をうけた長州の僧芝玉は、墓守のために延命寺に居住することになった。
 延命寺は、正徳元年(1711)、小倉藩主小笠原忠雄(ただかつ)が、上野寛永寺の末寺として加護した寺で、境内には東照宮まで祀られていた。小倉城陥落後、この寺に長州軍が駐屯して荒らしたため、その規模は維新前よりずっと縮小してしまった。(一坂太郎著「高杉晋作を歩く」山と渓谷社)


延命寺

 延命寺境内で奇兵隊の墓を発見した。墓石が破損して奇兵隊の「奇」の字が欠落しているが、「丙寅八月」すなわち慶応二年(1866)という建立年月から推定して、間違いなく奇兵隊の戦死者を葬ったものであろう。


奇兵隊戦死墓(右)

(宗玄寺)
 慶應二年(1866)の長州藩との戦闘で宗玄寺は幕府軍の本陣となり、戦火で焼けてしまった。再建は明治四年(1871)のことであった。
 なお、宗玄寺、開善寺とも、幕末の頃は市の中心部、小倉城に近い馬借町(小倉北区馬借)にあったらしいが、昭和五十一年(1976)に現在地に移転したものである。


宗玄寺

(仏母寺)
 仏母寺には一瞬本堂が存在していないのかと見えたが、墓地の右手にまるで一般住宅のような御堂があった。墓地入口に「長州征伐無縁塔」が建てられている。「長州征伐」という用語から推測するに、幕府方の戦死者の供養塔であろう。


仏母寺


長州征伐無縁塔

(福聚寺)


福聚寺

 福聚寺(ふくじゅじ)は、寛文五年(1665)、小笠原忠真の願いにより創建された寺で、小笠原家の菩提寺でもある。全盛期には二十五の宿坊と七堂の伽藍が並んでいたという。慶応二年(1866)七月の第二次長州征伐の際には、長州奇兵隊の侵攻を受け、彼らが福聚寺を本陣としたため、その後荒廃した。藩主菩提寺を他藩の軍隊に占拠されたというのは、小倉藩士にとって屈辱であっただろう。


慶応之役小倉藩戦死者墓


徹心院忠巌義俊居士(河野四郎の墓)

 河野四郎は、文政三年(1820)、小倉藩士の家に生まれた。弘化元年(1844)、藩校思永館の助教となった。七代藩主小笠原忠徴の代、嘉永五年(1852)七月、島村志津摩が家老に就任すると、本格的に藩政改革に着手したが、志津摩の片腕として活躍したのが郡代河野四郎であった。藩政改革は主に小倉藩領の産業の振興を図るもので、石炭や金の採掘、養蚕・製糸・製茶の奨励、小倉織・小倉縮の増産、精蝋、学校の運営などを行った。文久三年(1863)五月十日、長州藩が関門海峡で外国船を砲撃すると、小倉藩に対し砲台の借用を申し入れ、遂には小倉藩領田野浦を占拠し、砲台を築いた。対応に苦慮した小倉藩では、河野四郎と勘定奉行大八木三郎右衛門を使者として幕府に伺いをたてた。河野らは江戸城で老中に面会しその場で外国船砲撃詰問のため使番中根一之丞らを長州に派遣することを伝えられた。河野四郎と大八木は中根一之丞らと幕府軍官朝陽丸に同船して長州に入ったが、長州藩ではこれを砲撃。さらに抜刀した数十名が朝陽丸に乗り込み、河野四郎の身柄引き渡しを要求した。これを知った河野、大八木は幕府の使者に難が及ぶのを恐れて船内で自刃した。河野四郎は四十四歳であった。八月十八日の政変前夜の尊攘派の鼻息の荒い時期に置きた――― かなり無謀な ――― 事件であった(朝陽丸事件)。


無聖院廓然瑩徹居士(小倉藩島村志津摩之墓)

 島村志津摩は諱を貫倫(つらとも)といい、志津摩は通称。天保四年(1833)、島村十左衛門貫寵(内匠)の子に生まれ、天保十三年(1842)、家督を継いで、格式中老、家老席詰を経て、嘉永五年(1852)、小倉藩家老となった。殖産興業、武備増強に腐心した。佐幕攘夷論者であった。特に呼野金山を開き、田川の石炭採掘を奨励し、一方郡代河野四郎とともに新地の開墾、大庄屋・庄屋の帳面調査を行い、諸政を改新した。慶応二年(1866)長州藩再征の戦いには、士大将として活躍。同年八月小倉城自焼後は金辺峠の嶮に拠り、小倉を占領した長州藩軍を悩ませた。この時、農兵を組織して活用、勇名を馳せた。明治二年(1869)職を辞し、官途出仕の勧応に応ぜず、自適の生活を送った。明治七年(1874)の佐賀の乱には旧藩士を鼓舞して政府軍に救済尽力した。年四十四にて没。

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北九州 門司

2016年06月11日 | 福岡県
(和布刈神社)


和布刈神社

 門司海峡に面した、本州にもっとも近い場所に和布刈神社(めかり)がある。海峡通過の船の航行安全を祈念して祀られたのがこの神社の起源といわれる。


頭上を関門橋が走る

(和布刈公園)
 和布刈公園に隣接する塩水プールの駐車場から、道をはさんで西側に鉄塔が立っているが、そのさらに西側に唐人墓と称する慰霊碑がある。元治元年(1864)の八月五~六日、米・英・仏・蘭の四か国連合艦隊により下関襲撃事件の際に戦死したフランス水兵の慰霊碑である。四か国連合艦隊十七隻による攻撃で、長州藩の軍艦や砲台は壊滅的被害を受けたが、連合艦隊側もかなりの死傷者を出し、戦死者を門司の大久保海岸周辺に埋葬したという。フランスも自軍の戦死者を同海岸に埋葬していたが、明治二十八年(1895)、宣教師ビリオン神父が現在の石碑に建て替えた。その後、諸事情により数回移設を繰り返した後、現在地に落ち着いた。碑の台座にフランス語で次の文が刻まれている。

――― 一八六四年九月五日、六日 下関の戦いにおけるセミラミオ号とデュプレス号の戦死者であるフランス水兵を記念して 彼等のために冥福を祈る


唐人墓


唐人墓の碑文

(大里公園)
 北九州市門司区不老町の大里(だいり)公園に薩摩藩出身の前田正名の顕彰碑がある。調べてみても、どうしてこの地に前田正名に関する石碑がここにあるのかよく分からなかった。
 ちょうどこの日は、近所の方々が総出で公園の掃除をされているところであった。視線を感じながら公園の中を進むと、高速道路に近い、一番小高い場所に故男爵前田正名翁之碑が建てられている。書は同郷の元帥伯爵東郷平八郎による。


故男爵前田正名翁之碑

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鞍手

2016年06月11日 | 福岡県
(伊藤常足旧宅)


伊藤常足翁旧宅

 伊藤常足は、鞍手郡古門村(現・鞍手町古門)の古物神社の神官を代々務める家に生まれた。現在残る旧宅も、古物神社の参道から入ることになる。常足は、亀井南瞑に儒学を、青柳種信に国学を学んだ。常足の最大の学問的業績は筑前国の地誌である「太宰管内志」全八十二巻の編纂である。三十八年という気の遠くなるような年月をかけて、天保十二年(1841)、六十八歳の時、これを完成させ、福岡藩主黒田長溥に献上している。その他にも多くの著書、評論、和歌集、日記などを残した。安政五年(1858)、年八十五にて病没。


伊藤常足翁顕彰碑

 この旧宅は天明六年(1786)に建てられたもので、伊藤常足は十三歳の頃から起居していたと伝えられる。伊藤家資料や古図面に基づいて推定復元されたもので、平成元年(1989)から翌年にかけて「ふるさと創生事業」の一つとして修理復元されたものである。


旧宅内

 常足は五十七歳のとき、桜井神社の神庫学館の創立に関わり、その後教授として「日本書記」などを教えた。また、下関、黒崎、底井野、植木、芦屋などで和歌を指導し、多勢の門人を育て、執筆や講義を続ける学究の生涯を全うした。


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宗像

2016年06月11日 | 福岡県
 今年(平成二十八年)のゴールデンウィークは福岡県を訪ねることにした。昨年の長崎・佐賀に続き、九州である。
 もう半年前から準備を始め、各市町村の観光協会等に問い合わせをして万全を期した。今回も非常にタイトなスケジュールで一瞬の無駄も許されない旅程となった。
 福岡への出発便は、羽田空港を朝七時二十分に出るものであった。これに乗るために早朝四時前に起床。高尾駅の始発に飛び乗った。今回の福岡史跡旅行は五泊六日。出発日を含め毎日四時半に起きて、五時にはホテルを出て、第一目的地には日の出時刻に到着した。九州地方は日の入りが遅いので、午後七時までは十分に史跡を訪ねることができる。連日、おにぎりや菓子パンを車内でほおばり空腹をしのいだ。六日間の総走行距離は千五百キロメートルを超え、撮影した画像は千二百二十枚を数えた。さすがに三日目には体調を崩し、激しい下痢に襲われたが、それでも予定したスポットの九割は回ることができた。その点では十分満足している。しばらく画像と資料の整理に追われる日が続きそうだ。帰着後数日は疲れているのに早朝に目が覚めてしまう「時差呆け」状態が続いた。
 ちょうど旅行の二週間ほど前に熊本地方を大地震が襲った。つい先日熊本県(山鹿・玉名方面)の史跡を旅したばかりで、熊本の被害に心が傷んだ。ことに激しく損傷を受けた熊本城の惨状には衝撃を受けた。このまま福岡旅行を敢行したものか迷いが生じたが、幸い福岡県では大きな被害もなく、平穏な日常が維持できているようだったので、予定とおり決行した。(一日を除き)天気にも恵まれ、心から史跡旅行を堪能することができた。さすがに東京に戻った時点でヘロヘロであったが…。

 福岡県は、藩政時代でいえば、小倉藩、福岡藩、久留米藩、柳川藩という大藩と、その支藩である秋月藩、小倉新田藩などが存立していた。いずれも薩長のように時代を主導するような存在ではなかったものの、それぞれ個性的な歴史を幕末に刻んだ。また、福岡の地からは、平野國臣、月形洗蔵、真木和泉などといった情熱的な志士を生んだ。
 維新後、秋月では明治政府への反乱が起こり、福岡では鹿児島の西郷に呼応して兵を起す動きがあった。西南戦争後には玄洋社という、この時代の日本を代表する右翼的政治団体を生んだ。これも維新に乗り遅れた福岡で発生した「反動的」事象であろう。彼らの足跡をできる限り追ってみたい。

(赤間宿跡)


五卿西遷之遺跡碑

 宗像市の赤間は、唐津街道に位置する宿場町で、今も古い街並みは往時の雰囲気を伝える。法然寺の南側の交差点の一角に五卿西遷遺跡碑が建てられている。
 文久三年(1863)八月十八日の政変によって三条実美ら七卿は京都を脱して長州に落ち延びた。そのうち五人(三条実美、三条西李知、壬生基修、東久世通禧、四条隆謌)が長州から筑前に入った。慶応元年(1865)、赤間宿の御茶屋(本陣)に二十五日間滞在したが、その間、全国から西郷隆盛、高杉晋作、中岡慎太郎や地元の早川勇ら百人に近い志士が馳せ参じた。

(武丸)


維新之志士早川勇顕彰碑


早川勇歌碑

 国の為 ふかき心を つくしかた
 身はよせかへる 波にまかせて

 宗像市吉武地区コミュニティーセンターの前の広場に早川勇の銅像が建っている。
 早川勇(養敬)は、天保三年(1832)、筑前遠賀郡虫生津村の農民の家に生まれた。吉留出身の藩医早川元端の養子となり、嘉永年間には江戸で佐藤一斎、藤森弘庵、大橋訥庵らに学び、帰藩後は鷹取養巴、月形洗蔵らとともに尊王運動に従事した。文久三年(1863)、三田尻に滞在中の三条実美とすでに接触を持っていたが、慶応元年(1865)正月、五卿が太宰府に移ると、その祗候を命ぜられた。同年十月、乙丑の獄に連座、閉門に処せられた。慶応三年(1867)十二月、幽閉を解かれ、明治元年(1868)、徴士となって、明治二年(1869)には奈良府判事となった。のち司法省に移り、司法少丞、司法権大丞を歴任。ついで明治十七年(1884)には元老院大書記官に進んだ。明治三十二年(1899)、年六十八で没。福岡藩出身の尊攘派としては珍しく維新まで生き抜き、新政府で活躍した。

 なお、この顕彰碑の文字は佐藤栄作によるものである。佐藤栄作は、ちょうど明治百年に当たる昭和四十三年(1968)当時に内閣総理大臣の席にあったこともあって、各地の記念碑にその名を残している。ただし、佐藤栄作は長州藩内でも尊攘派と対立した坪井九右衛門の家系の出であり、どちらかというと佐幕方ということになる。
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目次 大分

2016年06月10日 | 目次

大 分

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