史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「大君の使節」 芳賀徹著 中公新書

2019年11月30日 | 書評

これまた古本。

筆者芳賀徹先生は比較文学、近代日本比較文化史がご専攻である。比較文学といわれても今一つピンときていないが、本書はいわゆる歴史学者の本とは少し切り口が異なる読み物になっている。

幕末、徳川幕府はその歳末期の七、八年のあいだに、ほとんど一年おきないし連年という忙しさで大小の外交使節団を欧米諸国に派遣した。第一回は万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准を目的とした遣米使節団で、勝海舟や福沢諭吉らを乗せた咸臨丸の太平洋横断で有名である。第一回目の使節団と比べると知名度が劣る第二回目の遣欧使節団が本書の主題である。文久二年(1862)、竹内下野守保徳を正使とする遣欧使節団の目的は両都両港開市開港の最大限の延期が主要使命であった。

一行は、遅れて渡欧してロンドンで合流した森山多吉郎と淵辺徳蔵を含めて三十八名。筆者の眼は正使副使といった幹部よりも、福沢諭吉、箕作秋坪、松木弘安、杉徳輔(孫七郎)、益頭(ますず)駿次郎、福地源一郎といった下級随行員に注がれている。

彼らは「何でも有らん限りの物を見やうと計りしていた」(福沢)という証言とおり、ヨーロッパ文明を精力的に見学した。博物館、製陶所、印刷所、病院学校、兵器製造所、軍港や造船所、港湾施設等あらゆる場所で日本人はフランス人、イギリス人を感心させるほど質問攻めにし旺盛に知識を吸収しようとした。第一回目の遣米使節団と違って、竹内使節団には明瞭な意図とプランをもって幕府主導下の近代化の方策を探ることが使命とされていた。随行員にはそれぞれ専門別に調査対象の分担があったらしく、帰国後、それぞれの報告を集めて百科全書的な集大成が編集された。

しかし、この時点で日本には五十年以上にわたる医学や兵学、砲術、地理などに関する蘭学の蓄積があった。フランスやイギリスでは、極東からやってきた未開人に、近代的文明をこれでもかとばかりに見せつけたが、日本人にとってその原理は既知のものであり、目新しいものはなかった。福沢はこのように書き残している。「理学上の事に就ては少しも胆を潰すと言ふことはなかったが、一方の社会上の事に就ては全く方向が付かなかった。」

福沢らの問題意識は、西欧文明を取り込むことにあるのではなく、それを実現するためには「大変革」を行わなければならないというところにあった。青年らしい気概と焦燥感と呼ぶべきかもしれない。福沢は技術を組織し運営する主体にまでさかのぼって研究し受容しなければ、輸入した技術をさえ活用することができない、それを我が日本の実力として養い、国の独立の保障とすることはできないということを悟っていた。そういう意味で彼の問題意識は一行の中でも一歩先をいっていたといえよう。

ほかの随行者がレールの寸法や汽車の速度に興じている間に、福沢は鉄道商社の構成や経営法について研究していた。ほかの連中が外科術や病理標本に驚嘆しているとき、一人福沢は病院の経営法や社会保障制度を調査していた。福沢の研究対象は、選挙や外交、専売制などにまで及び、さすがに福沢と「三人組(トリオ)」を構成した松木弘安、箕作秋坪といえども、そこまで福沢を追いかけることはできなかった。

福沢が欧米視察によって得た知見は帰国後「西洋事情」としてまとめられ空前のベストセラーとなった。「西洋事情」はわが国が近代化を推進する上で不可欠の設計図となったのである。

坂本龍馬が単細胞の衝動的な攘夷派の剣士から、現実的・計画的な維新の志士、さらに深謀遠慮の政治家(ステートマン)に変貌していく過程をプリンストン大学のジャンセン博士はsophisticationと表現したという(M.B.Jamsen, Sakamoto Ryoma and the Meiji Restration, Princeton U.P 1961)。筆者によれば、福沢諭吉についても、緒方塾の蕃カラな秀才から江戸藩邸内の蘭語教師、渡米を経て幕府外国方翻訳局員となって渡欧するに伴い、ソフィスティケーションの過程を経てきたとする。筆者はソフィスティケーション=不純化・悪ずれという訳を当てているが、一般的には洗練されたとか、教養を身に付けたという意味に解されている言葉である。確かに福沢は脱皮を重ねて洗練されていったのであろう。

竹内施設団が帰国した文久三年(1863)一月末のことであった。文久三年(1863)は、幕末においても最も攘夷運動が過激化した年であった。使節団が持ち帰った膨大な西欧文明の情報は密封され、幕府内でも歓迎されるでもなく、その労を深くねぎらわれることもなく、幕府の内政外交に何らかの変革をもたらすこともなかった。福地源一郎などは身分の低い自分にも、将軍じきじきの御下問はあり得ないとしても、老中や若年寄や同僚朋輩から西洋事情を問われるだろうと期待していた。あわよくば立身出世のチャンスにもなると、あれもやろうこれもやろうと準備もしてきたというのに、いざ帰国してみると彼を歓迎してくれたのは細君と老僕と二、三の学友ばかりであった。福地に限らず、狂信的な攘夷党の横暴を前に、随行員は身を慎んで自宅に引きこもることしかできなかった。使節団が日本国内において政治面で及ぼした直接的影響はほとんと無に等しかった。

ただし、彼らの成果が全て雲散霧消してしまったというわけではない。その代表例が福沢の「西洋事情」であるが、福沢以外の随行員が書き残したもので、たとえば各国で集められた「探索」書は明治二年(1869)刊の橋爪貫一著「開知新編」十巻に再録された。幕府は倒壊したが、その遺産としてこのような形をとって明治早々の日本人の啓蒙に一役を果たすことになった。筆者によれば、家系内、家庭内での西洋経験の感化と継承という形で引き継がれたものもある。たとえば、明治大正の演劇改良に活躍した岡鬼太郎、知的叙情詩人岡鹿之助画伯、国際法・外交史の権威立作太郎博士、作家上田敏らが使節団随員の家系から生まれている。これも遣欧使節団の成果というと大げさかもしれないが、余波であることは間違いない。

 

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「高野長英」 佐藤昌介著 岩波新書

2019年11月30日 | 書評

この本も古本屋で入手。

高野長英の研究に関する先人の業績としては長英の曽孫高野長運による「高野長英伝」がある。「長英伝」では伝聞を安易に、無批判のまま利用している。しかも、世間では「長英伝」に記載されている伝聞や獄中手記などを、これまた無批判に引用して長英の行動や思想を論じている。本書は「長英伝」を批判的に検討し直すとともに、長英の実像に迫ることを一つの目的にしている。

シーボルトが来日したことを聞いた長英は長崎遊学を決意する。当時、貧乏書生だった長英は養父玄斎から借金を無心したが、あまりの厚かましさに腹にすえかねた玄斎は文通を断ち、事実上長英と絶縁してしまった。しかし、長英は玄斎が激怒していることに全く気が付かず、長崎での勉学に励んだ。養父が彼との文通を断ったことを知ったのは、遊学からほぼ一年後のことであった。長英は、書簡において低姿勢で詫びながら、さらに一年の遊学延長を願い出ている。その後も長英は養父玄斎が亡くなったことを聞いても帰郷せず、しかも言葉を左右にして高野家の相続を拒絶し続けた。手前勝手でおのれのエゴを通す厚かましさが長英の特徴である。

「シーボルト門人蘭語論文目録」には、シーボルトの門人の蘭語論文が四十二種掲載されているが、その中で論文の数が最も多いのは長英の十二通で、これに継ぐのが高良斎の七通、石井宗謙の四通である。長英の論文が断然多い。いかに長英の語学力が抜群であったかを物語っている。

間違いなく長英の蘭語力は当代随一であったが、同時に強烈な自我と厚かましさも突出していた。投獄された長英は放火して脱走し、その後伝手を頼って各地を転々としたが、そのために多くの知人友人門人が連座して命を落とした。そのことを長英自身がどう感じていたのかは分からないが、犠牲を伴いながらなおも逃亡生活を止めようとしなかったのは、長英の自尊心の強さ故であろう。

長英は西欧の最新の科学的知識をかなり正確に理解していた。西洋医学書(解剖書から内外科の治療書、薬物書)を真に理解するためには、生理学に通じる必要があると説く。こういった生理学観は、筆者によれば「ベーコン以来の近代的学問観」に合致しているという。

長英は西洋と中国の医学の相違を分析して、西洋の解剖学の実証性を語るとともに中国の古医書にみる解剖学的、生理学的記述の虚妄を暴いた。

一方、長英の残した「西洋学師ノ説」は、珍しい自然学史ないし自然哲学史と呼ぶべきものである。西洋においても古代中世においては、四元素説のような「無稽の妄語」が支配していたが、実証的な研究を重ねるにようになった結果、古代の学説がおとろえ、十六世紀に至り、コペルニクスが地動の真理を発明し、ガリレイがこの説を拡充した。十七世紀に至り、フランスのガッサンディおよびデカルトがこの説の真理であることを説き、これを補強した。やがてイギリスにベーコンとデカルトが現れた。長英は、近代科学が確立したのは両者によってであると激賞している。ベーコンの定律によって、ついにニュートン、ライプニッツおよびロックという三大家がおこった。以上の結論として、思弁的な旧説に代わって近代医学がおこるに及び、これまでの形而上学と形而下学との関係が逆転し、形而下学的研究が形而上学の前提となったと説いている。長英が近代科学成立の歴史的な意義を正確かつ明解に理解していたことは驚愕に値する。

幕府は文政八年(1825)に異国船打払令を発布して我が海域に接近する外国船に無差別砲撃を指令した。天保八年(1837)、アメリカの商船モリソン号が江戸湾頭に出現した。浦賀奉行が総力を結集して砲撃を加えたため、モリソン号はむなしく退去せざるを得なかった。

渡辺崋山がモリソン号に対する砲撃を批判したのは、単にモリソン号が漂流民を載せていたから、つまり人道的な観点からだと思っていたが、崋山は世界情勢に関わる情報に裏付けられた危機感を背景に異国船の打払いに反対していた。このとき崋山は「慎機論」、長英は「夢物語」を著わした。いずれも幕政を批判し、警告する内容となっているが、両者の政治意識には大きな相違があった。

筆者は「長英は若いころから対外問題に関心をもっていた、と一般に信じられているようであるが、実際にはそうではない。江戸開業時代を通じて知られる限りでは、むしろ反対である」としている。

長英は「夢物語」において、漂流民を送還しようというモリソン号を打払うのは「民を憐れまざる、不仁の国」だとする。一旦、漂流民を受け取ったうえで、相手が交易を言い出したところで断固拒否すれば「万事おだやかにあいすみ申すべしと存せられ候」というきわめて安直な結論となっている。

これに対し、崋山は鎖国政策そのものを政治的見地から問題視する。イギリスが鎖国政策をもって、人道に反するという理由で日本侵略の口実にする恐れがあると警告し、崋山は鎖国政策の変革が不可避であることを認め、激しい調子で為政者の無能を攻撃している。一読して「夢物語」と「慎機論」における思想の危険性、先鋭性の差は明らかである。

一般に長英は崋山らと尚歯会という政治結社を結成したとされるが、筆者によれば尚歯会というのは紀州藩儒遠藤勝助が主宰した蘭学研究会であり、長英らが結成したというのは明らかに間違いである。本書は平成九年(1997)の発刊で、即ち今から二十年以上も前の本である。著者の主張が正しいのであれば、未だに尚歯会が崋山や長英らによって結成されたと信じられていて(私もそう思っていました)、少しネットで検索してもそのような記述が散見されるのはどういうことだろうか。

長英も崋山も「蛮社の獄」によって処分を受けた。長英は永牢、崋山は在所にて蟄居である。同じ罪状で、しかも崋山の方が過激性は高かったにもかかわらず、処分は長英の方が遥かに重かった。刑罰にこのような差が生じたのは、長英は一介の町医者に過ぎないが、崋山は田原藩の家老だという封建制における身分の違いによる。

崋山は自殺に追い込まれ、長英は執拗な赦免活動の末、放火脱獄逃亡という道を選んだ。筆者は、「優劣を論ずるのは無意味」とし、「いずれも近代的自我にめざめた点では同じ」と評するが、家族や仲間への迷惑を考えた崋山と、それを考えなかった長英の違いによるところが大きいのかもしれない。

高野長英を一方的に称賛するのではなく、一貫して公正かつ冷静に事実を見極めようという姿勢には好感が持てる。

現実に高野長英という強烈な個性をもった人が近くにいたらきっと困惑すると思うが、書籍を通してみる限り、この人物は実に個性的で面白い。

 

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「中岡慎太郎」 宮地佐一郎著 中公新書

2019年11月30日 | 書評

これも古本。著者宮地佐一郎(故人)は「龍馬の手紙」などの著書がある作家・詩人である。将軍家茂がコレラで急逝したとか、池田屋事件で西川耕蔵が現場に居合わせたように書かれていたりと、おやっと思うところもある。さらにいえば歴史家の書いたものと違って所々主観的な表現が目につくが中岡慎太郎の事績を理解するには好適の書である。

本書の特徴は、中岡慎太郎が生まれる前のこと、土佐に息づく南学の風土やその一つの帰結点となった天保庄屋同盟について言及していることである。

天保庄屋同盟については、言葉は知っていたが詳細は本書で初めて知ることができた。天保庄屋同盟の結成には、慎太郎の父、北川村大庄屋中岡小伝次が中心的役割を果たした。この父あって息子があったということであろう。

天保庄屋同盟は天皇を王道と定め、庄屋は天皇直命の職分であり、百姓は天皇の大御宝であるとするこの時代(明治維新まで二十年以上も前)としては先鋭的な思想を含んだものであった。この風土や思想が慎太郎に強い影響を与えたことは間違いない。

中岡慎太郎といえば「戦の一字」(時勢論)を唱えた武闘派というイメージが強い。彼の思想信条を理解するには「戦の一字」という単語を切り取るのではなく、そこに至る思考を知らなくてはいけない。

――― 夫れ国に兵権有て然る後、和す可く、戦ふ可く(攘夷)、開く可く(鎖港)、皆権は我に在りて而して其兵権なるものは武備に在り。其の気は士気にあり、故に卓見者の言に曰く、富国強兵と云ふものは、戦の一字にあり。

中岡慎太郎は徒に武力による倒幕を唱えているわけではなく、薩摩や長州が対外戦争や内乱を経験して、その中から国力を蓄え、人材を養成している様子を近くで見てきた実体験が裏付けになっている。あるいは欧米諸国が武力を背景に国際社会における存在感を高めているその本質を見抜いていたといえよう。

慎太郎は明治維新を見る前に凶刃に倒れた。土佐勤王党に加盟した多くの郷士は維新前に命を落とした。維新後、土佐出身で活躍したのは、板垣退助や後藤象二郎、福岡孝弟、佐々木高行らいずれも上士出身である。維新後の土佐閥は、郷士の犠牲の上に成り立っていたことを忘れてはならない。中岡慎太郎が維新後も生き延びていれば、間違いなく大政治家になったであろう。勝手な想像であるが、政治家としては坂本龍馬より上だったのではないか。

 

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