史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

藤枝

2019年11月09日 | 静岡県

(岡部宿)

 

岡部宿本陣址

 

岡部宿本陣址

 

 

岡部宿大旅籠柏屋

 

 岡部宿は、東海道二十一番目の宿場。かつて街道を往来する旅人で賑わったが、明治以降鉄道の東海道線が峠越えの難所を避けて海沿いに敷設されたことから、衰退してしまった。しかし、そのことで今も風情のある雰囲気が残されることにもなった。

 本陣跡の門をくぐると綺麗に手入れされた芝生が広がるが、ここはかつて本陣の建物があった場所で、相当大きな建物があったことが偲ばれる。

 隣接する大旅籠柏屋(かしばや)は、江戸時代の建物を改修して資料館として公開したものである(国登録有形文化財)。

 

 この日の史跡探訪はここまで。前日の天気予報では東海地方は雨となっていたので、覚悟していたが結局一滴も雨は降らなかった。良い方に予報が外れてくれて非常に助かった。

 

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島田 Ⅲ

2019年11月09日 | 静岡県

(蓬莱橋)

 

       

勝海舟之像

 

 蓬莱橋のたもとに勝海舟像が建立されたというニュースを入手した。今回静岡県を目指した主目的はこの海舟像を見るためで、あとの史跡はオマケみたいなものであった。

 それにしてもどうして蓬莱橋に海舟像が建てられたのだろうか。牧之原の茶畑を開墾したのは中條景昭(金之助)、大草高重ら旧幕臣であった。海舟は、旧幕臣から様々な相談を持ち掛けられ、経済的な援助も惜しまなかった。明治八年(1875)に官職を辞した後も、影に日なたに牧之原開拓士族を物心両面で助力し続けた。

 明治六年(1873)には、仕事を失った川越人足たちも茶畑の開墾を始めた。この過程で対岸の島田から開墾に参加する者や、牧之原から大井川を渡って島田と交流をもつ旧幕臣が増えた。当初は小舟を利用して川を渡ったが、あまりにも大変であったため、許可を得て架けられたのが蓬莱橋である。茶畑の開墾を支援し続けた海舟の存在を抜きに牧之原大茶園を語ることをできないとして、平成三十年(2018)にこの地に海舟像が建立されたというわけである。フロックコートをまとった海舟は、いつになくカッコいい。

 

(JAおおいがわ)

 JR東海道線金谷駅(大井川鉄道の発着駅でもある)の駅前を通る商店街は旧東海道に重なっている。現在JAおおいがわのある場所がかつての金谷宿本陣跡である。

 金谷宿の本陣は柏屋といい、代々河村八郎左衛門を名乗った名家の一つで、代々本陣と名主を務めていた。先祖の河村弥七郎が徳川家康に忠節を尽くしたことで、信州に知行地を与えられ、金谷宿、島田宿にも屋敷を与えられた。江戸初期には柏屋と佐塚屋が本陣、山田屋が脇本陣であった。寛政三年(1791)の竹下屋火事と呼ばれる大火によって全ての宿泊施設が焼失してしまった。天保十四年(1843)の記録には、柏屋本陣は「凡建坪弐百六拾四坪 門構・玄関附」とある。尾張徳川家、紀伊徳川家の定宿となっていた。嘉永七年(1854)の東海大地震で壊滅し、本陣を廃業。その後は旅籠屋を営んだ。

 

柏屋本陣(一番本陣)跡

 

(金谷坂)

 金谷駅の南側に往時の街道の石畳が残された場所がある。

 この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落に助郷を命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩きやすいように山石を敷き詰めたものである。近年、僅か三十メートルを残す以外は、全てコンクリートなどで舗装されていたが、平成三年(1991)、町民約六百名の参加を得て実施された「平成の道普請」により延長四百三十メートルが復元された。

 

金谷坂の石畳

 

 現在、旧街道上の石畳で往時を偲ぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の三箇所のみとなっている。

 

(水神公園)

 

 

金谷宿八軒屋橋

 

 大井川鉄道新金谷駅付近の水神公園は、大井川の川渡し場の手前、水神社のあった場所に設けられた公園である。かつて旅人は川会所で川札・台札を購入した。番宿(ばんやど)では川越人足が五十人ずつ、一番から十番まで組み分けされ、小頭の管理下で待機していた。宿(仲間の宿)は小頭や特別に選ばれた熟練した待川越(まちかわごし)の詰め所で、その日の越え立ての順番が決められた。

 

東海道金谷宿大井川川越之圖 

 

 川越人足は、十五歳以下の弁当持ちから始まり、水入り、半川越と呼ばれる厳しい見習い修行を経て、一人前となった。高度の徒渉技術を身に付けた熟練の技術集団であった。

 なお大井川を渡った島田市博物館前には川越港跡がある。

 

 この日は大井川の水量が著しく減っており、歩いてでも渡れるほどであった。

 

 

義人仲田源蔵像

 

 水神公園に仲田源蔵の石像が置かれている。仲田源蔵は天保十二年(1841)、醤油屋の三代目として金谷宿八軒屋に生まれ、二十六歳で家督を継いだ。明治三年(1870)に新政府から大井川川越制度廃止が発令され、島田、金谷合わせて千二百名の川越人足が失業し困窮を極めた。これを見かねた源蔵は、私財を投じて援助したが、それにも限度があった。その後、求められて大井川金谷方川越人足総代を引き受け、島田郡政役所等に人足窮状を嘆願するが却下された。この上は政府に訴えるほかはないと上京し、同年十一月、伊達民部卿(宗城)に直訴に及んだが、捕らえられ拷問を受けるが、訴状事実が判明し釈放された。源蔵の熱意が政府を動かし、一戸当たり金拾両と東西萩間村原に三百ヘクタールの開墾が許可され、明治四年(1871)六月、金谷方人足百人を率いて入植し、牧之原大茶園の基礎となった。その後、向坂弥平次(焼津)と大井川木橋の架橋に専念し、明治十六年(1883)四月、全長七二〇間(千三百メートル)の木橋を開通させた。明治二十二年(1889)、四十八歳で没し、丸尾原霊園に永眠している。

 

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掛川 Ⅲ

2019年11月09日 | 静岡県

(掛川宿本陣跡)

 

 本陣通り

 

 掛川宿は東海道二十六番目の宿場。天保十四年(1843)の記録によると、本陣二軒、旅籠屋三十軒等、九六〇軒の家があり、三四四三人が住んでいた。東海道が市街地を東西に走るが、街道らしい雰囲気は感じられない。本陣跡は「本陣通り」と呼ばれる飲み屋街となっている。

  

(大日本報徳社)

 

 

二宮先生像

 

 二宮尊徳が創始した報徳運動は、明治三十年代に全国各地で報徳社が結成され、全国に広がった。二宮尊徳自身が実際に掛川で報徳運動を指導・実践したわけではないが、掛川を中心とした遠州は特にその活動が盛んな地域であった。

 二宮尊徳から直接指導を受けた岡田佐平治、良一郎父子がリードし、明治八年(1875)、遠江国報徳社を創設した。

 大講堂(旧遠江国報徳社)は、我が国で公会堂と言われた最初の建物で、報徳社の中心拠点として明治三十六年(1903)に建設されたものである。正面に三条実美の篆額、金井之恭の書「報徳訓」が掲げられている。往時には講堂で報徳訓を唱和したという。

 

大日本報徳社 大講堂

 

 

報徳訓

 

無盡蔵

 

 講堂内には伊藤博文の書「無盡蔵」のほか、秋月種樹書「先聖殿」「先農殿」などが掲げられているほか、お馴染みの二宮尊徳像が置かれている。

 

 

二宮尊徳像

 

仰徳学寮(こうとくがくりょう) 

 

 仰徳学寮は、明治十七年(1884)、有栖川熾仁親王邸として建てられたもので、昭和十三年(1938)に仰徳記念館とともに移築された。

 

仰徳記念館 

 

 仰徳記念館は明治十七年(1884)、有栖川熾仁親王邸として建てられ、昭和十三年(1938)、大日本報徳社第四代社長一木喜徳郎(岡田良一郎の子・文部大臣、内務大臣、枢密院議長等を歴任)の尽力により、宮内庁より下賜、移築された。

 

(千浜)

 

伊能忠敬第四次測量隊宿泊地

 

 掛川市千浜(ちはま)の赤堀家は、江戸時代名主を務める家で、仁兵衛を名乗った。享和三年(1803)、駿河から尾張までの第四次測量時、三月二十日に当家に宿泊したことが当時の日記に記録されている。

 

(日坂宿)

 日坂(にっさか)宿は、江戸から五十四里。東海道二十五番目の宿場町である。三大難所の一つ「小夜の中山峠」の西の麓に位置し、「西坂」「入坂」「新坂」とも書かれた。天保十四年(1843)の記録によれば、家数百ろく十八軒、人口七百五十人とあり、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠屋三十三軒があった。

 

 

本陣 扇屋

 

 日坂宿本陣の屋号は扇屋といい、代々片岡家が世襲で営んでいた。本陣の敷地は、およそ三百五十坪、建坪二百二十坪、門構・玄関付の広壮な建物であった。しかし、嘉永五年(1852)の大火で全焼、再建されたものの明治三年(1870)に本陣が閉じられた。その後、日坂小学校の敷地とされ、家屋は校舎として利用されたが現存はしていない。

 

 

日坂宿本陣跡

 

 

問屋場跡

 

 本陣から少し離れた旧街道沿いに問屋場跡がある。問屋場には、問屋・年寄をはじめ宿役の者が毎日交代で一人ずつ詰め、重要な通行があった時には全員で業務に携わった。当時の建物や遺構は現存していない。

 

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西尾 Ⅲ

2019年11月09日 | 愛知県

(安休寺)

 

 

安休寺 

 

 この辺りは平成二十三年(2011)の合併により西尾市の一部となったが、それまでは一色町という独立した行政区であった。一色町の鄙びた住宅地の中に安休寺がたたずんでいる。我が国最初の幼稚園を開設した関信三の生家である。関信三に関する何かが残っているかと期待して、はるばるこの寺を訪ねたが、何も見つけることはできなかった。

 

 

真宗講師因明院?頌碑

 

 関信三の実兄雲英晃耀(きらこうよう)は、因明院と号した学僧。顕彰碑は、明治二十七年(1894)の建立。篆額は東久世通禧。

 

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知立

2019年11月09日 | 愛知県

(池鯉鮒宿本陣跡)

 

                       

池鯉鮒宿本陣跡

 

 知立(ちりゅう)駅前にはマンションやホテルなどが立ち並び、かつての宿場町の名残は感じられないが、この近くを旧東海道が走っている。本陣跡の小さな一角に跡地を示す石碑と明治天皇行在所聖跡碑が建てられている。

知立神社の御手洗池に鯉や鮒が泳いでいたことから、いつしか池鯉鮒宿と当て字されるようになり、これが定着したとされる。日本橋から数えて三十九番目の宿場町で、本陣、脇本陣が各一軒置かれていた。本陣職は、当初嶺家が務めていたが、寛文七年(1667)頃からは永田家によって引き継がれた。敷地三千坪、建坪三百坪という広大な面積を有していた。明治になって宿駅制度が廃止され、二百年以上続いた本陣も明治八年(1875)に取り壊された。

 

 

明治天皇行在所聖跡

 

(ホテルクラウンパレス)

 本陣から少し離れるが、ホテルクラウンパレス前の駐車場の片隅に池鯉鮒宿問屋場の石碑が建てられている。

 

 

池鯉鮒宿問屋場之跡

 

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美浜

2019年11月09日 | 愛知県

(八幡神社)

美浜町まで来ると知多半島の先端に近い。天保三年(1832)、乗船していた宝順丸が遭難し、漂流してアメリカに上陸し、その後、イギリスから上海に渡り、米商船モリソン号で帰国しようとして果たせず、晩年をシンガポールで過ごした音吉の生まれ育ったのが、美浜町小野浦である。海水浴シーズンもおわり、静かでのどかな村であった。幕府の鎖国政策が立ちはだかり、漂流民音吉らはついに故郷への帰国を果たすことはできなかった。八幡神社の前には、洋装した音吉の銅像が建てられているほか、音吉、久吉、岩吉の顕彰碑(三吉の碑)がある。三名がドイツ人宣教師ギュツラフの要請を受けて聖書を和訳したものが我が国最初の和訳聖書といわれる。

 

                       

八幡神社

 

 

音吉顕彰碑

 

 

三吉の碑

岩吉 久吉 音吉 頌徳記念碑

 

(良参寺)

良参寺には、宝順丸の乗組員十四人の墓がある。この墓が建てられたとき、音吉はほかの乗組員と同じようにこの世を去ったものと思われていたのであろう。

 

良参寺 

 

安政元年(1854)、イギリス極東艦隊司令長官スターリングの通訳として来日した際に帰国の誘いもあったが、既に生活の基盤を構築していた音吉はそれを断って上海に戻っている。その後、シンガポールに渡り慶応三年(1867)、現地で没した。関係者の尽力により音吉の遺骨がシンガポールのキリスト教墓地にあることが判明し、シンガポール日本人墓地公園納骨堂に改葬されると同時に、平成十七年(2005)、分骨されて百七十三年ぶりに故郷に戻った。音吉の遺骨は山本家の墓に収められたそうだが、境内墓地にある山本家代々墓に音吉の名前は見つけられなかった。

 

 

寶順丸乗組員十四名の墓

 

 音吉の法名「満海寂圓信士」が刻まれる。側面には俗名「乙吉」とある。

 

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名古屋 鳴海

2019年11月09日 | 愛知県

(鳴海宿本陣跡)

野球大会の二日目、朝五時にホテルをチェックアウトして第一目的地名古屋市内の鳴海宿には七時過ぎに到着した。鳴海宿は、東海道四十番目の宿場である。名古屋市内の旧東海道はほとんどその面影を失っているが、鳴海宿についても同様である。本陣跡には駒札が建てられているのみで、その向かいに「問屋場」という名の居酒屋があることが数少ない名残である。

 

                       

鳴海宿本陣跡

 

 鳴海宿は、天保十四年(1843)の調査によれば、宿駅内の家数八四七軒、人口三六四三人、旅籠六八軒と記録され、当時の繁栄が推測される。脇本陣は二軒あった。

 

 

大名茶屋 善 鳴海宿食い呑み問屋場

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