史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

荻窪 Ⅱ

2019年11月23日 | 東京都

(荻外公園)

 

 

荻外公園 

 

 

国史跡 荻外荘(近衛文麿旧宅)

 

 荻窪駅から南に二十分ほど行った住宅街の中に近衛文麿が晩年を過ごした荻外荘が保存されている(杉並区小荻窪2‐43)。

 荻外荘は現在復元整備中のため非公開。南側の庭園部分のみ公園として公開されている。私がここを訪ねたのは、西園寺公望の筆による「荻外荘」の書と扁額を期待してのことだったが、もちろん中に入ることは叶わなかった。しかし、ここで諦めるわけにはいかない。ひょっとしたら扁額は荻窪駅の北側にある杉並区立郷土博物館分館にあるかもしれない。と、思った私は、ここから徒歩三十分をかけて分館を訪ねたが、ここでも空振りであった。そこで和田堀公園にある本館を訪ねることにした。荻窪から高円寺に移動。高円寺駅からバスで二十分。郷土博物館ではちょうど荻外荘のパネル展をやっていた。実物を見ることはできなかったが、パネル写真で確認することができた。書は昭和十二年(1937)、西園寺九〇歳のときのものである(杉並区大宮1‐20‐8)。

 

荻外荘 西園寺公望筆

 

 

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調布 Ⅲ

2019年11月23日 | 東京都

(深大寺)

 

                       

深大寺本堂

 

 「深大寺そば」で有名な深大寺は、JR吉祥寺駅からバスで三十分ほど。門前には蕎麦屋やお土産屋が軒を連ねるちょっとした観光スポットになっている(調布市元深大寺町5‐15‐1)。

 深大寺に西園寺公望筆の「日露戦役紀念碑」を訪ねたが、どうやら一般人は進入不能な場所にあるらしく、遂に発見できなかった。代わりに釈迦堂の前で山縣有朋書の「戦捷紀念碑」に出会うことができたのでその写真を撮って引き上げることになった。

 

 

戦捷紀念碑

 

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関内 Ⅵ

2019年11月23日 | 神奈川県

(横浜市開港記念会館)

 

 

咸臨丸の威風

飯塚羚児作

  

 海洋画家飯塚羚児(1904~2004)作「咸臨丸の威風」。万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准書交換のため、米艦ポーハタン号の随伴艦としてアメリカに渡った時の様子を描いたもの。この作品は、昭和三十五年(1960)の日米修好百年祭で東京駅に展示後、イタリア・トリノなど各地で展示されて、昭和三十八年(1963)に横浜市の所有となった。

 

(横浜都市発展記念館)

 

 

近代のパン発祥の地 

 

 平成二十八年(2016)十一月、横浜都市発展記念館の東の道路側に「近代のパン発祥の地」なる碑が建てられた。

 安政六年(1859)、欧米諸国との貿易が始まると、幕府は日本大通五番地の横浜港郵便局を中心とするこの地区に外国人の日用食料品街「お貸し長屋」を建てた。その一画で内海兵吉は万延元年(1860)、フランス人にパンの製法を習ってパン屋「富田屋」を始めた。当初は「焼き饅頭」のようなものであったらしいが、これが現代日本の日常生活にも続くパン食文化の始まりであった。その後、イギリス人クラークによるパン屋「ヨコハマベーカリー」が登場し、ここで修業し、受け継いで発展したのが打木彦太郎が元町に開いた「ウチキパン」で、イギリス流の山型食パンを販売した。

 

(象の鼻防波堤)

 

                      

横浜税関(神奈川運上所)

 

 安政六年(1859)、幕府は開港のため神川奉行所を設けた。その下で、通関事務のほか、船の入出港手続、洋銀両替、各国領事との交渉や違法行為の取り締まりなど幅広い業務を取り扱ったのが、神奈川運上所であった。運上所の庁舎は、波止場の中央正面に建てられていた。

 明治四年(1871)には運上所業務のうち通関事務などが大蔵省の所管とされ、明治五年(1872)には全国の運上所の名称が「税関」に統一された。明治六年(1873)、横浜税関となってからの初代本庁舎が、初代運上所の建屋があった位置よりやや海側に石造三階建てで建設され、明治十六年(1883)にはこの庁舎は神奈川県に譲渡された。明治十八年(1885)になると、中央に塔を配した煉瓦造二階建ての二代目本庁舎が建設された。大正十二年(1923)の関東大震災により横浜港の港湾施設は壊滅的な被害を受けた。昭和九年(1934)に震災の復興事業の一つとして建設されたのが、現在の三代目の本庁舎である。

 

 横浜開港150周年記念碑

 

 象の鼻パークの一角に横浜開港150年記念碑が建てられている。この碑が建てられたのは平成二十一年(2009)のことで、すなわち安政六年(1859)の開港から一五〇年目のことである。その頃、横浜では開国博なるものが開かれており、石碑左手の奇妙なキャラクターは、この開国博のマスコット「たねまる」。ここにはタイムカプセルが埋められており、五十年後の開港二百年となる2059年に開封されるのだそうである。

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石川町 Ⅷ

2019年11月23日 | 神奈川県

(JR石川町駅)

 石川町駅北口を出たところに横浜市教育委員会の建てた「横浜製鉄所跡」説明板がある。

 横浜製鉄所は、幕府がフランスと提携し、幹線の修理と洋式工業の伝習を目的として設置した官営工場である。慶應元年(1865)二月に着工、九月下旬には開業し、艦船修理のほか、横須賀製鉄所建設に必要な各種器具や船舶用機械の製造などで繁忙を極めた、首長(初代ドロール、のちゴートラン、ルッサンら)以下多くのフランス人技師・職工が建設や操業に携わり、我が国における近代的産業技術の導入、発展に大きな役割を果たした。慶應四年(1868)閏四月、横浜製鉄所は横須賀製鉄所とともに新政府に引き継がれた。管轄は神奈川裁判所、さらに大蔵省、民部省、工部省と移り、明治四年(1871)、横浜製作所と改称(横須賀製鉄所は横須賀造船所と改称)、同五年、海軍省に移管し、横浜製造所と改められた。明治六年(1873)、大蔵省に移り、横須賀造船所と所管庁を異にした。同七年、内務省に移管。翌八年、高島嘉右衛門らに貸渡され、民営化の先駆けとなった。明治十一年(1878)、再び海軍省所管。明治十二年(1879)には石川島平野造船所(現・株式会社IHI)の平野富二に貸与されて横浜石川口製鉄所と改称、明治十七年(1884)に建物と機械はすべて本社工場に移設され、約一・四ヘクタールの敷地は翌年海員掖済会(現・社団法人日本海員掖済会)に貸与された。

 

                       

横浜製鉄所跡

 

(ラ・コスタ横浜山下公園)

 

 

居留地90番地の大砲

 

 ロイヤルホール横浜の西側のマンションの片隅に一基の大砲が置かれている。この大砲は建物の新築工事中にこの場所から発掘された三基のうちの一つである。幕府は、ペリー来航時に使節との会見の場所を横浜と定め、松代、小倉両藩に警衛を命じたが、松代藩の軍議役佐久間象山は和蘭新式野戦砲二門、牛角砲二門、元込銃の外鎗刀兵等の重装備で出陣し、幕府を驚愕させた。

 

(パークホームズ)

 

 

ストラチャン商会(山下居留地71番館)

 

 旧山下居留地71番地にあたるこの場所には、汽船会社や保険会社の代理店業務を手がけるイギリス系貿易商社のストラチャン商会(Strachan & Co.)の建物が建っていた。明治二十二年(1889)頃、この場所に移転してきた同商会は、明治二十四年(1891)八月、ジョン・ダイアックの設計、清水組の施工で煉瓦造りの新社屋を完成させた。二階建ての社屋は本町通りに面して建っており、裏手に当たるこの場所には煉瓦造り倉庫が建っていた。大正十二年(1923)の関東大震災により、山下町一帯の建物はほとんどが倒壊・焼失したが、今も地中から当時の建物の基礎や煉瓦などが発見されることがあるという。

 

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