(横浜市開港記念会館)
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咸臨丸の威風
飯塚羚児作
海洋画家飯塚羚児(1904~2004)作「咸臨丸の威風」。万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准書交換のため、米艦ポーハタン号の随伴艦としてアメリカに渡った時の様子を描いたもの。この作品は、昭和三十五年(1960)の日米修好百年祭で東京駅に展示後、イタリア・トリノなど各地で展示されて、昭和三十八年(1963)に横浜市の所有となった。
(横浜都市発展記念館)
近代のパン発祥の地
平成二十八年(2016)十一月、横浜都市発展記念館の東の道路側に「近代のパン発祥の地」なる碑が建てられた。
安政六年(1859)、欧米諸国との貿易が始まると、幕府は日本大通五番地の横浜港郵便局を中心とするこの地区に外国人の日用食料品街「お貸し長屋」を建てた。その一画で内海兵吉は万延元年(1860)、フランス人にパンの製法を習ってパン屋「富田屋」を始めた。当初は「焼き饅頭」のようなものであったらしいが、これが現代日本の日常生活にも続くパン食文化の始まりであった。その後、イギリス人クラークによるパン屋「ヨコハマベーカリー」が登場し、ここで修業し、受け継いで発展したのが打木彦太郎が元町に開いた「ウチキパン」で、イギリス流の山型食パンを販売した。
(象の鼻防波堤)
横浜税関(神奈川運上所)
安政六年(1859)、幕府は開港のため神川奉行所を設けた。その下で、通関事務のほか、船の入出港手続、洋銀両替、各国領事との交渉や違法行為の取り締まりなど幅広い業務を取り扱ったのが、神奈川運上所であった。運上所の庁舎は、波止場の中央正面に建てられていた。
明治四年(1871)には運上所業務のうち通関事務などが大蔵省の所管とされ、明治五年(1872)には全国の運上所の名称が「税関」に統一された。明治六年(1873)、横浜税関となってからの初代本庁舎が、初代運上所の建屋があった位置よりやや海側に石造三階建てで建設され、明治十六年(1883)にはこの庁舎は神奈川県に譲渡された。明治十八年(1885)になると、中央に塔を配した煉瓦造二階建ての二代目本庁舎が建設された。大正十二年(1923)の関東大震災により横浜港の港湾施設は壊滅的な被害を受けた。昭和九年(1934)に震災の復興事業の一つとして建設されたのが、現在の三代目の本庁舎である。
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横浜開港150周年記念碑
象の鼻パークの一角に横浜開港150年記念碑が建てられている。この碑が建てられたのは平成二十一年(2009)のことで、すなわち安政六年(1859)の開港から一五〇年目のことである。その頃、横浜では開国博なるものが開かれており、石碑左手の奇妙なキャラクターは、この開国博のマスコット「たねまる」。ここにはタイムカプセルが埋められており、五十年後の開港二百年となる2059年に開封されるのだそうである。