史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

湯田中渋温泉 Ⅲ

2019年11月02日 | 長野県

(佐山忠輝顕彰碑)

山ノ内町では、間の川(あいのかわ)又五郎こと佐山忠輝の顕彰碑と墓を訪ねた。

佐山忠輝は、文化十二年(1815)、上野の生まれ。関東、信越、関西で博徒の喧嘩に加勢して次第に名を挙げ、関東を離れて信州中野下河原に定住して目明しとなった。贋札犯の捕縛や明治三年(1870)の中野騒動の首謀者を探索捕縛に活躍し、その功により中野県の職員に登用された。明治八年(1875)十二月、死去。六十一歳。

 

                       

佐山忠輝の碑

 

山ノ内町のコメリ(ホームセンター)の裏側に、巨石に彫られた佐山忠輝の顕彰碑が建てられている。この場所は、佐山忠輝の屋敷があった場所に当たる。佐山忠輝が下川原の開発や民生の発展に寄与したことを顕彰したものである。

この場所について、事前に山ノ内町の教育委員会に問い合わせしたところ、「まず、㈱コメリ山ノ内支店を目標にお越しください。㈱コメリ山ノ内支店建物裏に、グランツT(住所:山ノ内町大字平穏4157-5)というアパートがあります。そのアパートの道向かいに佐山忠輝の碑があります。」との実に丁寧な返事をいただいた。おかげで迷わず行き当てることができた。

 

(善応寺)

 

 

善応寺

 

佐山忠輝の墓は、山ノ内町大字平穏の善応寺にある。佐山家の墓域に、「徳行院佐山忠輝居士」と刻まれた立派な墓が建てられている。

 

 

徳行院佐山忠輝居士

 

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須坂 Ⅱ

2019年11月02日 | 長野県

(寿泉院)

今年の会社の野球大会は長野県南箕輪村で開かれることになった。もとより戦力になっていない上に、腰椎ヘルニアを発症して体を動かすことすら満足にできない私は、従軍カメラマンとして参加することにした。

一日目は試合前に長野県の須坂市と山ノ内町の史跡を回った後、野球大会に合流した。初戦は事業所の若手主体のチームに大敗した後、敗者同士があたった二試合目は白熱した試合となり、激戦の末、何とか我が本社チームが逃げ切った。実に八年ぶりの勝利であった。

二日目は、日の昇る前にホテルを出て、愛知県(名古屋市緑区、美浜町、知立市、西尾市)および静岡県(掛川市、島田市、藤枝市)を自動車で走り抜けるというハードな一日となった。

 

寿泉院

 

初日の最初の訪問地は、須坂市上町の寿泉院である。先日訪れた須坂の招魂社のすぐ近くにある。

須坂は福島正則と所縁の深い場所である。正則は、関ヶ原の戦後、安芸五十万石に封じられたが、無断で城の改築工事をおこなった咎で須坂に移封され、元和五年(1619)から二年間をこの地で過ごした。寿泉院には、福島正則公遺蹟碑や正則が寄贈した山門が残されている。

 

 

福嶋正則公遺蹟碑

 

その山門前に忠治地蔵がある。この地蔵は嘉永三年(1850)に造られたとされ、もとは野沢温泉にあり中風除け忠治地蔵として親しまれていた。昭和二十五年(1940)にこの場所に安置された。国定忠治は、幕府からの追求を逃れるため信州へしばしば足を延ばし、大笹街道の抜け道を通ったことでも知られる。地蔵は風化と摩耗が著しいが、油性マジックで建造された年号とか「へのへのもへじ」のような顔が描かれているのが、ちょっと悲しい。

 

 

忠治地蔵

 

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