史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

御殿場

2019年11月16日 | 静岡県

(西田中八幡神社)

 

 西田中八幡神社

 

 文化八年(1811)十二月、伊能忠敬の測量隊は御殿場で測量し、八幡神社前の百姓平兵衛宅にて昼休みをとり、また富士山の高さを測量したことが日記に記録されている。

 八幡神社はJR御殿場駅から北に約1・5キロメートル。駅前の観光案内所で自転車を借りて、片道十分程度である。小雨がパラつく中であったが、何とか時間内に往復することができた。昼間の御殿場線は一時間に一本前後しかないので、八幡神社訪問には自転車を活用することをお勧めしたい。料金は二時間以内であれば五百円。

 

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茅場町 Ⅱ

2019年11月16日 | 東京都

(地図御用所跡)

 

地図御用所跡

 

 地下鉄茅場町の1番出口を地上にでたところに中央区教育委員会の建てた説明板がある(中央区茅場町2‐12)。

 幕府の地図御用所は、実測による初めての日本全図を作成したことで知られる伊能忠敬の住居に設けられていた。伊能忠敬は、五十一歳のときに下総佐原から江戸深川黒江町に居宅を移し、幕府天文方高橋至時の門に入って天文学を学び始めた。寛政十二年(1800)からは本格的に日本全国の測量を始め、以降十七年間にわたって日本全国の沿岸を測量し、その総距離は四万キロメートルに及んだといわれる。文化十一年(1814)、九州地方の測量から帰った忠敬は、深川黒江町から八丁堀亀島町と呼ばれていた当地付近へ転居した。この屋敷の敷地は百五十坪ほどであった。忠敬の居住地としてだけでなく、測量図を作成するための地図御用所として利用された。忠敬は地図が完成する前の文政元年(1818)に亀島町の居宅で死去したが、その後も忠敬の居宅は地図御用所として使用され、文政四年(1821)、門弟や天文方の下役等の手により「大日本沿海與地全図」が完成した。

 

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紀尾井阪 Ⅲ

2019年11月16日 | 東京都

東京ガーデンテラス紀尾井町

 

旧北白川宮邸洋館・煉瓦基礎遺構

 

 東京ガーデンテラス紀尾井町の東側、地下鉄永田町駅を出たところにチューダー様式の洋館「旧李王家東京邸」が建っている。現在は、赤坂プリンスクラシックハウスとして利用されている。平成二十三年(2011)、この建物の保存工事の過程で地中から旧北白川邸洋館の煉瓦基礎が発見された。この場所は、明治になって北白川能久親王に下賜され、明治十七年(1884)に洋館を中心とした大規模な殿邸が建設された。洋館は煉瓦造二階建(一部三階建)の壮麗なゴシック建築で、設計者はジョサイア・コンドルであった。明治二十七年(1894)の東京地震により被害を受け、翌年には能久親王が逝去したことから、三階部分と西側が撤去縮小され、玄関ポーチも北寄りに移された。明治四十五年(1912)、北白川宮家は高輪南町の新邸に移転し、昭和五年(1930)跡地に李王家東京邸が建設された。発見された煉瓦積基礎には上質の煉瓦が使われており、目地にはセメントを用いた丁寧かつ堅牢な造りであった。発見された遺構は玄関ポーチの独立柱の基礎であったと考えられる。

 

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