終戦記念日になると、毎年のように靖国問題で中国や韓国が騒ぎ出す。
僕は単純に、今の日本が有るのは靖国神社に祀られている戦没者のお陰だと思って居る。
色々、問題があってそう簡単じゃないだろうけれど、今の自分が居るのは間違いなく
膨大な親父たちの世代の犠牲と、平和を守ろうと努力してきた戦争体験者のお陰。
遺骨さえ無い人たちが、みんな『靖国で逢おう』と言って散って行ったのだよ・・・。
そう云った戦没者の思いが有る靖国神社を参拝するのは、国の首相として当たり前なんじゃないの?
近所付き合いはきちんとするけど、仏壇に手を合わせるなと言っているようなもの。
他人の家の中の事に口出しするように、中国や韓国がガタガタ言うんじゃねぇ・・・・
自民党政権が復権して、やれ集団的自衛権だ、憲法改正だと騒いでいるが
そういう政治家の中に、あの大戦で戦場に出向いた人間が何人いるのだろうか?
僕の父は、戦場へは行かなかった。
親父の言葉を借りれば『行けなかった』だった。
父は日本国内で暗号解読の任務に就いていたため、富士山の麓にあった
陸軍の施設で、毎日のように暗号の解読と、アメリカ軍の無線傍受に明け暮れていたそうだ。
それだけでは無い。陸軍のいわば特殊部隊だったから、化学兵器の実験もやったそうだ。
中には人体実験までやらされて、体がガタガタになりそうだったと話していた。
親父の話では、毒ガスまでは行かないけれど催涙弾の実験に駆り出され、
テントの中に入れられて、その中で催涙ガスを放って、その影響を調べたらしい。
催涙ガスは、自律神経みたいなものを麻痺させるので、我々が想像しているような
涙が出るだけでは無く、汚い話だが失禁、脱糞、異常発汗を引き起こし
身動きが取れなくなったそうだ。
だから、学生運動が盛んだった昭和40年代に、警官隊が学生に向けて、
催涙弾を放つ光景を見て、物凄い憤りを覚えたそうだ。
それと無線を傍受していた関係で、昭和20年より1年前の19年6月に大日本帝国海軍は
マリアナ沖海戦で敗れ、その後サイパンも陥落、10月にフィリピンのレイテ沖海戦で
帝国海軍が壊滅的になって居た事も、知っていたそうだ。
それもアメリカ軍から日本語で、日本向けに行ったラジオ放送でだそうだ。
この時に父は既に、日本は負けると覚悟していたらしく、負けると判っていたから
学徒出陣や、神風特攻隊で同世代の若者や仲間が命を落として行くのを、
ただ見ているしかなかったそうだ。
でも、父は戦地へ出向かなくて済んで良かったと本音も話していた。
父から見たら、『犬死に』でしか無かった。
早く降伏して、若い命を捨てるような行為が終わる事を祈っていた。
父は『軍隊なんて、敵も味方も無く、人の命を奪うもの・・・・』と思っていたのだろう。
戦後68年。
国際情勢が変わって、軍事的脅威が高まった・・・・?
嘘を言っちゃいけないよ。
海で囲われた日本は、何処からでも攻められる。
加えて、日本国民の殆どはその海岸線近くで生活している。
日本が単独で国家を守るなんて、不可能。
日本のアイデンティティーは、『不戦国家』だったのではないか?
アメリカと言う強大な軍事国家に、基地を提供して駐留して貰う。
日米安保はそう云う意味で、日本人にとっては大事なものだと思う。
喧嘩の嫌いな家族が、ちょっと強面で喧嘩が強い人を居候に迎える。
余程の勇気や自信が無ければ、その家にちょっかいを出す人はいないでしょう。
そんな感じで捉えているから、これにかかる費用である『思いやり予算』は仕方が無い。
それでも自前の軍隊を持つより、ずっと経済的負担は小さいのだから・・・・
明日はもう少し、言いたい事が有るので書いてみます。