今日は午前中にサッカーの試合があって、どうしても行かなければならず
試合が終わるまで見た後、高速道路を使って急いで帰宅。
試合は勝てる試合を、自分たちのミスで2-3で負けてしまう残念な結果だったけど
久し振りに出場枠一杯の18人が揃って、僕は出場しないで済みました。
負けたとは言え、若いチームを相手に皆が楽しめて帰ったので良かったです。
帰宅後にシャワーを浴びて、急いで稽古のある新浦安へ・・・・・。
1時半には到着して、何とか稽古に穴を開けずに済みました。
到着して、稽古会場の中から漏れて聞こえる唄は芝居の最初に唄う
男性陣だけで唄うM1『悪い夢を超えて』。
ところが、外で聞いていて恐ろしいほど伴奏と唄が合って居ない。
明らかに唄が遅れていて、伴奏と「輪唱」みたいになっている。
今、入って行くのは恐ろしくて嫌だし、2時半以降に参加すると言っってあったから、
外で冷たいものでも飲みながら、やり過ごそうと思っていたら、
座長に頼まれて飲み物を買いに来たおばちゃんと遭遇してしまった・・・・・。
仕方が無く、入って行ったらやり直しをさせられている。
だろうな・・・・・余りにも聞いていられない感じだったから・・・・
姉さまが『ダン(僕の役名)が居ないから、男性陣は滅茶苦茶!』
と言われてもねぇ……
でも、おじさん達全員、本当に唄が遅れるのです。
唄の事に関して、自信満々の合唱おじさんでさえ、一緒に唄っていると
遅れているのが判るほど、声の立ち上がり(レスポンス)が悪いのですよ。
それに、振付が入ると「次はどう動く」なんて、脳味噌で考えているから、
その分だけ、唄のリズムに反応する時間が遅くなる。
いくら僕が『練習して来てください』と言っても、おじさん達は聞いてくれないし、
平日は全く練習なんてして来ないから、先生に指導して貰うしかない。
本当は男性陣だけで練習して、その成果を先生に見せるのが礼儀なんだけどね・・・・・
『特殊部隊は連日、作戦失敗・・・』と言う感じですねぇ・・・・・とほほ。
芝居もそう。
金曜日に見た芝居とは全く違って、体に力が入っていて、いつも腰高。
重心がヘソの下に無くて、胸のあたりにあるから動きも格好悪いうえに
今回の役どころである『戦争を経験した兵(ツワモノ)』
と言うよりは『何処かの老人団体』みたいになって風格も無い。
とはいえ、
この土曜、日曜日は、芝居の稽古も唄と振付だけでなく、
唄に入る前の芝居や気持ちの表現などを重点的に稽古しました。
土曜日は作曲家の片野先生自ら、指導に来てくれて唄い方の指導。
石崎先生の指導とはちょっと違って、戸惑う人も居るようだけれど
昨日も書いたように座長、振付の河岡先生、歌唱指導の石崎先生、
そして作曲の片野先生が口を揃えて仰っている事は、言い方の違いはあれ
『基本的』な点では何も変わって居ない。
共通しているのは唄は芝居の一部だと言う事。
それなのに、自分のレベルの低さを棚に上げて上手く行かない理由を
『先生の言っている事が皆違う』と、指導法の問題にするのは間違っている。
そう云う事を言えるのは、芝居を全て理解し、テクニック的にも
要求された事をその場で出来る人間だけです。
芝居に限らず、ヘタクソは練習して少しでも上手くなるしかないのです。
この一周間で降った雨は平年の2カ月分を裕に越えるそうだ。
去年、大島で起きた土砂災害もすでに一年が過ぎてしまった。
東北の震災復興に関するニュースも、殆ど聞かなくなっているし、
そのくせ、どうでもいいAKBの総選挙なるニュースをNHKがやってみたり・・・・
最近は自民党が躍起になっている「憲法改正」問題ばかり。
日本のマスメディアは、文章能力、資質、倫理観などが欠如している者でも
「ジャーナリスト」と自称して居る時代。
かつての梶山季之、草柳大蔵、竹中労、五島勉、吉原公一郎、大下英治などのような、
骨太の人間は居なくなった。
フリージャーナリストの草分けだった黒田清は
「ジャーナリズムの基本は伝えることではなく弱者の訴えを代弁する事」を信念と
していたのは、遠い過去の時代の話のように感じたりする。
東北の『震災被災者』と『原発事故の被害者』も今や、ゴチャゴチャにされて
悲しいかな、被災者や被害者の現状を伝える報道はどんどん減ってしまっている。
去年、東北の大船渡と陸前高田を自分の目で見てきたが、とにかく復興には時間がかかる。
それに利権やら、自治体や国の思惑などが絡み、被災者は何処かに置き去りにされている感じがする。
『原発被災者』に関しては特に胸が痛む思いでいる。
こんな言い方をすると、誤解を招いて、批判されそうだが、
そもそも『震災被災者』と『原発の被災者』とは同じ被災者では、内容も質も違う。
『震災被災者』は、金と人をかければ元の生活に戻れる希望がある。
だからこそ、特別な方法で金と人を大量に投入して早く「元の生活」に戻してあげるのが
被災地に住み続ける人に対する国のやるべき事だと思う。
対して『原発事故の被害者』は『震災によって起きた事故の被害者』なので、
『被災者』とは全く違う『被害者』なのである。
放射能の影響で、帰りたくても自分の土地に帰れない。
そして、事故の後始末も全く進んでいない。
廃炉には数十年、除染して再び住めるようになるにはかかる・・・・・
と云う事は、少なくとも僕と同じ世代の人たちは生きている間に戻る事は不可能だろう。
それなのに、これです。
<除染しても線量下がらず>
除染目標値 毎時0.23から0.4~0.6マイクロシーベルトに引き上げ(環境省と福島4市)
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-3762.html
人の命の安全より、目標値を下げてでも目標達成と云うキャリアの方が重要な人たち。
こんな連中を選挙で選んでしまった人間にも責任があるのでけれど、
こう云う連中は、その場所に住んでみろと言いたい。
でも、僕の会社にも似たような輩が沢山居るんだよね。
装置開発目標の仕様値が達成できないと「影響ないから」と言って目標値を下げてしまう連中。
じゃぁ、最初の数値はなんだったの?と言いたくなるのだが、こういう輩も
仕様を満足したという結果が欲しいだけ。
レベルが低いです。
こう云う連中は、この福島をめぐる話は批判できないよなぁ・・・・・
除染作業に携わる人たちの苦悩を考える事があるけれど、その苦しさは想像できない。