映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

5年目になって思うこと1 (橋下もようやく原発容認へ?)

2012-05-20 08:29:35 | Weblog
そろそろブログも5年目に入る。早いものだ。
自分の日ごろの行いの悪さも棚上げにしていくつか気になったことも話したい。

今日の新聞を読んでいて、橋下徹もようやく原発再稼働容認に転換しつつあることを知った。
夏だけは再稼働していいよと。この転向は大前研一に言われたからだろう。
少し前の世論調査では原発復活やむなしとの調査が多かったが、政府が再稼働に向けた方向に動くと世論調査は再稼働反対の方向に動いた。世論は政府の意見と反対に動く最近の傾向がある。
一体どういうことかと思った。日本人バカじゃないの?と
電力が足りないと言い切っているのに何でまた原発がダメだというのかと

日本人は電力問題が自分の身近な生活に大きな影響を与えていることをどう考えているのか。
計画停電というのは体験したものでないと、その不自由はわからないと思う。
突然真っ暗になって、何もせずにじっとする。こういうときは何もやる気が起こらない。
昼間に計画停電がなされると、信号機が点灯しない。町を歩くのが怖くてしょうがない。
昨年の3月は精神的にずいぶんとダメージを受けた。

関西人は東京人よりも派手好きだし、店頭の照明計画も派手だ。
しかも、自分も5年住んだからわかるけど、とにかく暑い。
こんなんで節電や計画停電なんて出来るわけないでしょう。
それなのに橋下徹は反対し続ける。気が狂ったのかな?と思っていた。

でもこのまま橋下徹の言う通りにさせて、計画停電で逆にわざと集中砲火を浴びさせる作戦なのかとも思った。いずれにせよ、ちょっとまずいんじゃない。
今の日本人はちょっと狂っている。
太陽光発電で原発一基分の電力を賄おうとすると山手線の中すべてにソーラーを設置するくらいでないとうまくいかないと、自分が行っている研修会である超大手エネルギー会社のトップが話していた。でもそんなことマスコミに向けてはちっとも言ってくれない。
反原発の連中から集中砲火を浴びるからだ。
ドイツが原発に頼らないといっていたが、まだまだ現実にはドイツ国内で原発は稼働している。全部が停止するのはずっと先だ。しかも、大陸が続いているから他国から電力を融通することも可能だ。まわりが海の日本とは違う。再稼働にそんなに目くじら立てないでほしい。

太陽光の電気買い取り価格の単価は高い。原子力発電の単価とは比べ物にならない。このつけはすべて国民の血税にまわってくる。電気料金値上げに反対して、原発再稼働に反対する。凄い矛盾だ。企業は大赤字になったら耐えられない。電力会社も同じである。政府がその分補填するとなったら、税金に転嫁される。どうして日本人は対岸の火事を自分のこととして思えないのか。アカ新聞主導の世論操作の恐ろしさを感じる。
もう少しまともな方向に動けないのであろうか。。。

先週は忙しくて更新できなかった。
あまりに腹立たしいので映画以外のことを久々書いた。
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目の調子が悪い

2012-03-13 05:20:54 | Weblog
先週初めから花粉症がひどくなった。
目の調子が悪い。

急にかゆくなった。今年は辞令がなかった。残留だ。
それはよかったが、部下に異動が多かった。
そんなストレスがあったのだろうか。
調子も悪い。
飲み会もあるが、気乗りがしない。

気がつくとブログもずいぶんとさぼっていた。
そろそろと思うが、映画もここのところ見ていない。
うーん。
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「円高の正体」とバーナンキとフリードマン

2012-02-15 20:09:08 | Weblog
ようやく日銀が金融緩和に動いた非常に好ましいことである。


アメリカがリーマンショック前の株価の水準に戻っているのに、日本はまだまだ下だ。
よくリーマンショックで米国資本主義が崩壊したなんて論調が目立つ。とんでもないことだ。1929年のいわゆる大恐慌の株安は戻るまで25年かかった。今回はあっという間だ。
これは金融当局の日米の姿勢の違いが表面に出たものだと思う。


FRBバーンナンキ議長のかじ取りは実にお見事である。しかし、これはミルトンフリードマンが大恐慌の理由としてあげたFRBの金融政策の失敗の逆をいっているからこそうまくいっているのだと思う。
2002年、ミルトンフリードマンの90歳の誕生日にバーナンキ議長(当時は理事)があらわれた。
バーナンキ議長は言った。
「大恐慌に関して、あなた方の意見は正しかった。連邦準備制度はあなた方が述べた通りのことをした。我々は極めて遺憾に思っている。しかし、あなた方のおかげで、われわれはそれを2度と繰り返さないだろう。」


ミルトンフリードマンは、大恐慌が悪化した理由としてFRBとニューヨーク連銀の主権争いにニューヨーク連銀が屈服したことをあげる。
もともとニューヨーク連銀にベンジャミン・ストロングという総裁がいた。彼は公債の買い入れの権限を大規模に行使すれば、恐慌を食い止められるといっていた。20年代の好況を後押しした。ところが、彼は1928年に亡くなってしまう。そして、1929年の大恐慌を迎える。
いったんは後任率いるニューヨーク連銀は公債買いをおこなったが、ニューヨーク連銀の影響力に嫉妬していたFRBはそれを食い止めた。当然マネーサプライは減る一方だ。その時点で政策の転換があればいいものを、それがないので、銀行に取り付け騒ぎが起きる。それなのに、1931年イギリスが金本位制から離脱したあとは、金流出をふせぐため公定歩合をあげるのだ。銀行が次から次へと倒産する。
なんと国内の3分の1の銀行がなくなり、1929年から33年3月までにマネーサプライが3分の1減少してしまうのである。ものすごい話である。血液が抜かれた状態では経済はノックアウトだ。

われわれは小学生から大学まで社会、政経、経済学の教科書でこんな話は習っていなかった。大恐慌で有効需要が減ってしまったことだけを学んだ。ニューディール政策でそれが改善されたと学んだ。日教組の先生ですら日本の政治家もまねろと絶賛していた。
実際ニューディール政策ではアメリカはよくなっていない。これは戦後日本教育がアメリカに押しつけられたものと考えるしかない。財政政策でよくなったのはナチスドイツだけである)
要はそれ以前に米国マネーサプライがFRBの意地っ張りで3分の1減ってしまった事実をわれわれは知らなかったのだ。その事実に焦点を当てたのはミルトンフリードマンである。
日本に新自由主義嫌いが多いのは、小学校から日本人が洗脳されてきたからだと思う。しかも、マルクス、学園紛争、労働組合に毒された人が多い。そういう人たちが多いと本質を見失う。

(だからといって自分はケインズが嫌いなわけではない。ハチャメチャなあとの処方箋はケインズの言うとおりだろう。しかし、ケインズは完全雇用に戻れば、新古典派の政策でいいと名著「雇用利子および貨幣の一般理論」24章で言っている。)


最近「円高の正体」安達誠司著という本を読んだ。この本は良かった。
基本的にはやさしく書いてある本だが、今まで勝手なことを言ってきた政治家、バカな学者ないしは評論家まがいの連中をコケにする。
痛快だ。

この本を見てびっくりしたことがある。
P126のリーマンショック前後の日米マネタリーベースとドル円ベースのグラフだ。
「リーマンショック後FRBは量的緩和政策を実施、大量のドルを市中銀行に投入する政策をおこない、アメリカ経済全体に資金を潤沢に供給することで、経済に対する被害を最小限に抑えました。
しかし、日本銀行は、緊急的に少額で短期的な金融緩和は実施したものの、「マネタリーベースを増やす必要がない。」という態度であったため、ほとんど何もせず、日本のマネタリーベースはそれほど大きく増えなかった。」
(円高の正体:P125~126)
何よりこのグラフには説得性がある。(ここの引用はしません。本で見てください。びっくりです。)
アメリカのマネタリーベースはリーマンショック時点から2011年末までに3倍近くなっているのに、日本は1.3倍程度だ。しかも明らかに円高に進んでいる。

まさにバーナンキ議長ミルトンフリードマンの誕生日のスピーチで述べたことを徹底的に実行に移しているのである。さすがとしか言いようにない。

今後日銀が政策転換を維持するならば、期待インフレ率が高まり、円高が矯正され株高も始まると思われる。今日の相場がいい見本だ。
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結果の平等

2012-02-07 20:37:10 | Weblog
格差社会と言う論調が多い。今の日本に「機会の平等」でなく「結果の平等」を求める傾向があるのは事実だ。これは破滅への道を示しているといえよう。そもそも結果の平等なんてことはありえないのだ。

ミルトン・フリードマンは1980年に「選択の自由」でこのように語る。
「過去一世紀において、自由主義資本主義は不平等を増大させ、富裕な者が貧困者を搾取する体制だとする神話が広がっていた。
これほど真理から遠い考え方はない。
自由市場の運営をゆるされているところや、「機会の平等」へと近づいていくことが許されているところはどこでも、通常の人がかつては夢見ることができなかった生活水準を、次から次へと達成することができている。自由市場の運営を許されていない社会はどの社会でも富裕な人と貧困な人の格差が増大していき、富裕な人はよりいっそう富裕となり、貧困な人はより貧困となっている。
このことは、相続した社会的身分が社会的立場を決定していく中世紀のヨーロッパや独立以前のインド、現代の南アフリカにおける諸国家のように封建社会において真実だ。
(以前の)ソ連、中国、インドのように、。。。平等の名において中央集権的計画が導入された国では、このような状態が必ず起きている。」(選択の自由:西山訳)

「ソ連という国は、実質上二つの国から成立している。一方では、官僚とか共産党員の党役員とか技術者によって構成される、ひとにぎりの特権をもった上流階級という国がある。他方祖父母に比べても生活の水準が改善されていない、巨大な一般大衆によって構成されている国がある。上流階級の人はあらゆる種類のぜいたく品を手に入れることができる。これに対して一般大衆は、基本的な必需品を除けばほとんど何も享受できないように運命づけられている。」(選択の自由:西山訳)

今の北朝鮮がまさにその状態なのは明らかであろう。いやもっとひどいかな。
このあと中国についても同様に論じられる。でも市場経済を導入して世界2位の経済大国に変貌した。今の日本はまるで共産主義を待ち望んでいるような論調を示す人すらいる。末期だ。おかしい!

ソ連と同様にフリードマンは「結果の平等」を求め「ゆりかごから墓場まで」と言われたイギリスの国内政策を痛烈に批判する。また、サッチャー首相が登場するまでの官僚や労働貴族たちの支配についても批判する。過度な福祉政策の失敗をイギリスはおかした。
「イギリスの結果の平等に向けての運動が、効率や労働の生産性にもたらした悪影響。。」
(選択の自由:西山訳)
逆にイギリスの植民地であった香港での経済運営についてはフリードマンは絶賛する。

「西欧の資本主義が達成した偉大な業績は、。。。以前の時代には富裕な人や権力を持ったひとだけの独占的な特権であった生活上のいろんな便利や便宜を、一般大衆の手に入るようにさせてきたのだ。」
(選択の自由:西山訳)

ここでいう富裕層の独占的特権とは、たとえば、古代ローマの貴族は一流の音楽家や俳優を自分の家で見ることができたから、別にテレビやラジオがなくてもよかったということだ。

「結果の平等という意味における平等を自由より強調する社会は、最終的には平等も自由も達成することなしに終わってしまう。平等を達成するために強制力を使用することは、自由を破壊することになる。」
(選択の自由:西山訳)
強制力すなわち中央集権主義ということ。まさに北朝鮮、今の中国もまだ相当なごりがある。でも大きく変化している。

「市場の役割は、強制によらず合意を導く役割を果たすことである。。。市場が広く活用されれば、そこで行われる活動に関しては無理に合意を強いる必要がないので、社会の絆がほこびる恐れは減る。市場で行われる活動の範囲が拡がるほど、政治の場で決定し、合意を形成しなければならない問題は減る。そしてそういう問題が減れば減るほど、自由な社会を維持し合意に達する可能性は高まっていく。」
(資本主義と自由 フリードマン1962年:村井訳)
フリードマンは少数意見を多数意見に従わせなければならない愚を論じた。
市場の活用になって、中国も国家統制からの制約がかなり減った。それゆえ、共産主義の色彩が薄まった。フリードマンの言うような自由な社会に近い姿が現在の都市部の中国では存在する。

「特権的な立場が社会制度化されてしまうのを、自由な社会は阻止してくれる。
特権的な立場にある人は、他の有望な野心あふれる人の攻撃に常にさらされている。自由とは、多様性だけでなく、社会的移動性をも意味するのだ。自由は、今日では不利益な立場に立っている人が明日には特権を持った人になれるための、機会を保持してくれるのだ。しかも、その過程で自由はほとんどすべての人が、すなわち上から下までのほとんどあらゆる人が、もっと充実した、もっと豊かな生活を楽しむようにしてくれる。」(選択の自由:西山訳)

社会的移動性は重要だ。政府から放り出されても市場で職を見つけることができる。名目上「結果の平等」をうたう共産主義だったら国家に葬られ本当に飢え死にするしかない。
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たいへんだなあ

2012-02-03 06:21:43 | Weblog

日経新聞2月1日付けの北朝鮮に関する記事を読んだ。
わかっていることながらショックを受けた。
北朝鮮でまともに食事にありつける人たちは全体の20%しかいないというのだ。いくらなんでもこんな国ないよね。

この国の場合、現代経済学で考えるのではなく、アダムスミスやマルクスの時代背景までさかのぼって考えてみなければならないと感じる。

他の国のように失業して飯が食えないというわけではない。
アダムスミスは「諸国民の富」の中で
「多くの職人は、仕事がなければ、一週間とは生存できないであろうし、一カ月生存できるものは少数で、1カ年生存できるものなどはほとんどまったくなかろう。」(大内訳)
18世紀当時、職人は失業することもできず、低賃金でも働かざるを得なかったのだ。つまり失業の概念がなかった。

アダムスミスは失業のことは考えていないように思われる。
今の北朝鮮も同様かもしれない。

マルクスは著書で賃金は最低生活を下回る悪条件でさえ働かざるを得ない状況をといている。
悪条件での労働は栄養失調と過労から病気になり病死する。現代なら大量失業が発生する状況で、失業者にならず見かけ上は就業したままで死んでいく。
これが現状の北朝鮮の状況であろう。

またマルクスは、労働者の生み出す剰余価値は、すべて生産手段の所有者に搾取されるとしている。
今の日本でマジにそう思っている人間はいないであろう。
しかし、実際北朝鮮の場合は剰余価値が一握りのピョンヤンのエリートに搾取されている。北朝鮮は独裁者による社会主義の世界である。
なんと「一家最低の生活費は月3850円とされるが、労働者の平均月収は実勢レートで77円!!!以下」(2012年2月1日日経)といわれる。
さすがにこれは搾取を超えた世界だ。大変なことだ。北朝鮮は難民と同じである。いくら気に入らなくても助けてあげねばならないのであろう。
これでよく国家が成り立っていると思う。瀕死の重傷だ。

マルクスは所有者に搾取されるとして市場に愛想を尽かした。
アダムスミスの考えはマルクスとはちがう。
「諸国民の富」の中で
「ある国で、賃金により生活する人々、つまり労働者、日雇職人、あらゆる種類の使用人に対する需要がたえず増進する場合、すなわち毎年の仕事がその前年に雇用されたよりも多数のものに提供される場合には。。。。。。人手の払底は親方たちの競争を引き起こすが、かれらは職人たちを獲得するためにたがいにせりあい、またこのようにして賃金を引き上げまいとする親方たちの自然の団結をやぶってしまう。」(大内、松川訳)
アダムスミスは基本的には賃金が生存費の水準に一致しやすいとしていたが、場合によっては水準以上の賃金も存在するとしているのである。
今年の建設関係の労働市場は世間一般の労働市場に比較して大きな変貌を遂げている。震災後の復興需要のせいだ。ここ数年賃金が安くても仕事があればといった状態から、東北で仕事があるので水準以上の建設関係の職人への賃金が現実に存在している。
そのため建設業界では大工不足に嘆いているようだ。元請が仕事を請けても職人がいなければどうにもならない。不況といわれ、有効求人倍率の低い日本でもこんな状況がおきるのである。

アダムスミスは経済の道理がわかっていた。
マルクスの搾取の概念は時代に応じてはありえたと思う。その発想のおかげで労働条件の大幅改善がなしたげられたのも事実である。
しかし、搾取とは違う経済の動きが一部を除いた現状の姿である。
でも北朝鮮はちがう。むしろ上層部が搾取すらできない状態にまでなっているのではないか。
マルクスの思想を基盤に成立した社会主義政権はほぼ脱落したといえよう。
同時に市場経済の要素を取り入れた中国の強烈な躍進はすごい。
アダムスミスは
「競争市場によって資源がもっとも無駄なく利用される。」
「競争市場で利潤を上げようとするとき、人はもっとも勤勉に創意工夫をいかそうとして
また失敗を避けるために慎重に行動する。」という。
もはや市場経済の導入以外には生きる道はなかろう。
しかし、外資を受け入れようとする意志は見当たらず、孤立化が進む中、崩壊は目前である。
見るに見かねて書きたくなった。
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年明けてから

2012-01-25 21:34:10 | Weblog
年末はかなり忘年会が多かった。
最後は若干セーブしたが、きつかった。

年明けてからも同様だ。
であるからブログの更新も遅いし、映画を見る数が減っている。

1月A日 船橋大神宮参拝の後、恒例の「玉川旅館」での新年会
すぐ帰ればいいものを終わってから3軒はしご
翌日は死んだ。。。。

1月B日 同じ系列グループの部長、支店長さんたちと船橋の割烹へ
金融、保険、電気関係、飲料系など多種な業種の人たちと飲む。
終わってから1軒誘われ、やはり2軒いってしまう。
久しぶりにキャバクラも行ってしまう。たまにはいいがのらない。

1月C日大学のOB会が帝国ホテルであった。
卒業する後輩たちに毎年記念の杯を渡す。我々ももらった。
終わってから現役学生と飲みに行く。パワーをもらい、終わって同期3人と一年後輩と飲む。
我々同期5人は一人も転職していないが、後輩は大手都市銀から外資系証券を経た後ドロップアウト
でも奥さんの稼ぎがいいので普通にやっている。
記念の同期会を企画することにする。熊本、大阪の2人にも声をかけて同期会を6月に企画した。
これは楽しみだ。

1月D日会社の部門長会
あと懇親会だ。うちの部門の成績は順調だが、全体的には微妙だ。
パーティの後前任地の後任部門長と結局4軒飲む。
新宿から浦和へ移動。飲み過ぎだ。翌日死んだ。

1月E日同業7社と関連の企業と新年会
同業どうし腹の探り合いだ。
アダムスミスは同業が会を持つとカルテルなどろくなこと考えないといった。
でもそういう話もなく淡々としたもの。
船橋料亭からクラブに繰り出した後、深夜まで飲む。

1月F日大学のクラス同級生と六本木「比呂」集合
中国から旧正月で帰国している友人を囲んで6人集まる。
中国の友人はまた新たに彼女をつくったみたいだ。
六本木を見ると世の中不景気にはみえない。
六本木2軒~赤坂~荒木町
今日もしんどい。
のんだ翌日はくさいと家人に言われる。豚を飼っているみたいだと。。。

今日はマイケルルイスの新刊「ブーメラン」を読んだ。
昨年一番面白かった「世紀のカラ売り」も最高だったが、これもおもしろい!あとで別にまとめて書く。
品川の実家を大整理した時、絶版になったフリードマンの「選択の自由」をみつけて持ち帰って通勤時に読了した。500pがフセンだらけになった。すばらしい!
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4年目の雑感3

2011-09-06 06:14:58 | Weblog
野田さんが総理大臣になった。
前原と海江田の一騎打ちで、世評では前原を推す声が高かった。
小沢一郎の動き次第でどうなるかと思っていたら、海江田を推した。世間は早々出馬表明した野田をノーマークにしてしまった。誰もが前原と海江田のどちらかがなると思っていたら野田佳彦の逆転だった。
地味な人がなったなあという印象だった。

今千葉県で仕事をしている。船橋郊外を車で走っていると、時折野田さんのポスターを見かける。野田佳彦の名前自体は知っていたから、なんだ船橋選出なんだなあと思っていた。でも細かいことは知ろうとしなかったし、関心もなかった。
今回彼が総理に選ばれて、プロフィルがあらわになった。普通の自衛官の息子で船橋薬円台で育ったらしい。田舎臭さが残る場所だ。しかも父母は農家の末っ子同士の結婚である。世襲が多い政治家の中で、生粋のたたき上げだ。松下政経塾と言うとエリートカラーだが、その匂いはない。浪人生活も経験している。毎日のように船橋や津田沼で辻説法をしていたそうな。
これはちょっと違うなと思った。同時に日本人好みの話だと。いちばんやばいと思ったのは自民党の連中だろう。基本に流れるのは保守的発想だし、腰も低い。

案の定、支持率は60%をこえているらしい。
地元千葉で今働いている自分が、金融機関の支店長はじめいろんな人たちとあっても、周りはおおむね好意的であるようだ。党派をこえて応援する気運がある。今まで千葉県から総理がでたことがないらしい。意外だった。場所柄利権に群がる政治家が多い印象だ。ハマ○ウとかみんな腹黒そう。今回は真逆だ。在日韓国人からの献金も新聞の片隅に書いてあったが、大きく騒ぐほどの話ではない。日本人の名字で献金されたらわかるわけないよね。

今回うまくいきそうなのは公務員と協調路線を歩んでいることだ。政治主導というのは妄想だということが、民主党の連中にも分かり始めたらしい。日本で最も頭のいい集団の一つである官僚集団の知恵を借りることが重要だと思う。野田さんはそういうエリートの力を使いきることしか考えていない。大したものだ。前任の首相に比べると、うまく泳ぎそうな気がする。イメージとしては亡くなった小渕さんに近いのではないか?絶壁のように支持率が下降することにはならない気がする。
世間は公務員パッシングばかりするが、もう少し公務員の購買能力に注目すべきだと思う。経済活性の意味では絶対に損だ。公務員をつぶしたら、自分のところに金がまわってくるがごとく思っている人があまりに多いことに驚く。

一つ気になるのは法務大臣が死刑執行に慎重なこと。くそな千葉大臣は退任寸前に死刑執行したが、そのあとはみな慎重。これでは日本の秩序は乱れに乱れてもおかしくない。これだけは気をつけなければならない。

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4年目の雑感2

2011-07-14 08:11:00 | Weblog
父が亡くなって丸3年たった。三回忌は昨年やったので今年はない。
妹と一緒に高輪の寺に行った。強烈に暑い中お参りした。
この3年紆余屈折はあったが、平穏無事に過ごすことができた。感謝した。
終わって品川の自宅へ行ってしばらく茫然としていた。
家の樹木は相変わらず伸びきっている。暑くなってアジサイは枯れている。

そのあと取引先の人と飲む機会があり、新宿へ行った。6月後半からほとんど飲まなくなった。
娘の期末テストにつきあうという題目はあれど、飲む気がしなかったのかもしれない。
歌舞伎町のコマ劇場は解体の途中だ。横を歩くと「DVDはどうですか?」と客引きに声かけられる。
DVDというのは新型の風俗なのか?よくわからない。試す気にもならない。
そもそもこのあたりの客引きはぼったくりで有名だ。
コマが解体している横で、有名な歌舞伎町噴水のあたりを歩いた。今は噴水もない。
いるのは浮浪者まがいの人だけだ。オデオン座が閉鎖となっていた。
やたら閉鎖しているものが目立つ。何がどう衰退しているのかはわからない。
地震以降新宿の衰退はどうなっているのであろうか

そのあと居酒屋風の店で飲んだ。最近は日本酒が苦手である。数時間すると足を取られる。
弱くなっているのもわかるのであまり飲まない。
緑茶ハイをしっかり飲んだ。割と時間をかけて飲んだが酔わない。
長時間飲んだ後ライブハウスで飲んでから深夜に帰った。
昨年夏の賞与にはあっと驚かされたが、昨年冬で復活して、今年の夏も昨年冬並であった。
ほっとした。でも部下の賞与が自分の査定以上に本社に下げられた。残念だ。
最近交際費は使っていないし、余裕がある。
先月は部下のゴルフ代、技術部署の女の子のカラオケ代に回す以外は自分では少ししか使っていない。
ライブハウスでは店の人が次から次へとドリンクを頼んだが、平静を装った。
勘定は銀座並であったが、最近使っていない分まだ余裕がある。

世の中はそんなには悪くないようだ。企業の決算は地震の割には激震ではない。
今後の見込みも悪くない。ビジネスで銀行にいくと、幹部連中はひっそりと「資金需要が高まりもうかっているんです」と言う。企業の配当性向の高まりで利回りが高まり、金利の安さを考慮すると株も買える水準だ。円高もそうだが、首相の「脱原発」発言と原発復活遅延のみが心配。
正直「脱原発」を言っている人たちの神経がしれない。某新聞社をはじめとして「国賊」ともいっていい連中には困ったものだ。まったく電力不足を「対岸にあるもの」と思っている人が多いようだ。経済感覚がないといえよう。自分に振りかかってこないものと考えている。
その中政商ともいうべきソフトバンクの親分の動きは呆れるくらい天才と思わせる。頭がいいというのはこういう人のことを言うんであろう。実に腹が立つが、その商才は凄いとしか言いようがない。

娘の期末テストはさんざんだった。やる科目が多すぎて完全に消化不良をおかしている。
調整はすれど今一歩。1年前と比べて何が違うのか。。ひたすら考えた。
まああわてずに


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4年目の雑感1

2011-06-24 05:11:07 | Weblog
横浜に行った。神奈川は会社の施設もあり、小田急にはのる事が多い。東海道線は久しぶりだ。
横浜駅を降りると、昔を思い出す。崎陽軒のシュウマイの売り子がいなくなって久しい。
子供のころは横浜駅ホームで売り子からシュウマイを買うのが楽しみだった。そこでシュウマイを買って腰越の別宅へ行った。
相鉄のショッピングモールの雰囲気は30年以上も大きく変化していない。
大学のとき、練習で平沼体育館によく行ったものだ。練習の後よく飲みに行った。家に帰るのが面倒になってよくいろんな友人の家に行った。自宅と反対方向なのに北鎌倉によく行った。
相鉄線に乗る。昔先輩が宴会芸でいしだあゆみの「ブルーシャトウ」の音楽に合わせて相鉄線の歌を歌っていた。「横浜、平沼橋、西横浜♪。。。希望が丘、三ツ境、瀬谷、大和♪、。。、終点海老名」と歌う歌である。その先輩が先日千葉に異動になって2人で飲んだ。さすがに昔の芸は歌われなかった。

相鉄線沿いの町で仕事を済ませた後、東横線に乗った。武蔵小杉にも用があったのであるが、途中下車して日吉の町を見てみたくなった。日吉も地下ホームとなって久しい。でも降りたことはなかった。
改札を抜けるとそこは駅ビルのようになっていた。以前は線路の上を歩道橋のように反対側と行き来していた。
今は違う。大学の並木を一瞥して、駅の反対側へ行った。高校生がたくさん歩いていた。
当時よく行っていた雀荘のほうへ向かった。すでになかった。それはそうだろう。そしてロータリーを包むお店の中を歩いた。
銀行が妙に支店を出している気がする。銀行は支店を減らす傾向だとおもうが、日吉はそうではない。
知っている店を探した。一軒だけトンカツ屋は自分がいたころにあった。がんばっているようだ。あとは記憶がない。寄っているうちに武蔵小杉に行くのはやめた。その日の仕事は切り上げた。
東横線に乗りながら、30年ほど前の光景がつい昨日のことのようにいくつもいくつも脳裏に浮かんできた。
そして品川の家に向かった。
アジサイがきれいに咲いている。この間もサツキがきれいに咲いていた。母がなくなってから家の花壇の花がきれいに咲くようになった。不思議だ。よくわからない。次から次へと季節ごとに別の花がきれいに咲く。

夏目漱石の「夢十夜」を思い出す。その第一夜に、死にそうな女に「百年たったら迎えに来ますから」と言われて、墓のそばにいる男の話が出てくる。気がついてみたら100年たっていたと。。。そこで白いゆりが咲く場面が出てくる。解釈では白いゆりはその女が自分に会いにきて咲くということが書いてあった。母が生まれ変わったのだろうか?いやそんなことはないと思いながら、異様に伸びきった家の樹木をみた。
父の命日はもうすぐだ。ブログも丸3年たった。
キャロルキングの「タペストリー」を聴きながら時間の流れを思う。

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地震の直後から5

2011-03-24 21:21:30 | Weblog
もう少しで地震から2週間である。
余震が止まらない。今日は千葉市のモノレールにのった。
乗っているさなかに地震にあった。レールにつるされている電車が右に左に振られて、どきどきした。駅にいるときだったので一瞬外に出ようかと思った。しばらくすると、走り出したが怖かった。その後京成電車のダイヤがめちゃくちゃになった。
余震の数があまりに多いので「地震、またか」と思う人も多いだろう。でもこう続くと参ってくる。この間も帰りの電車の中で2日連続で地震に遭遇した。そうすると安全の確認で一時間近く立ち往生する。
疲れる。

東北地方にはさまざまな工場があるらしい。
仕事をしていても、部材の搬入が難しいといった話が増えてきた。放射能で避難したエリアにも多いようだ。会社に座っていると、いろんな会社の人が来て言いわけをしている。そんな様子がつづく。しかも、計画停電が始まってからみんなびくついているようだ。夜遅くまで仕事をする感覚がない。いつも早く家に帰る。
世間も委縮しているようだ。諸外国の外国人からは、日本が間違いなく復活するとして日本株を買う動きがあるようだ。でも今までとは違う。一般サラリーマンからやる気というものが消えている気がする。みんな脱力感に襲われる日々がしばらく続くような気がする。しかも、計画停電も間に入ってくる。真っ暗な夜は最悪だ。被災者のことを思うと、飲み会は自粛という気持ちはよくわかる。。でもこんな感じで続くと、上を向いて行こうという気にならない。日本大丈夫なのかな?
正直地震の直前までかなり日本経済は復活していたと思う。産業構造の転換で、旧態依然の仕事の仕方で景気が悪い人もいる。だから儲かっている人たちが気を使って静かにしている印象があった。世間の動きは絶対的に上向きだった。なんだろう、この変換は?!まさに「ブラックスワン」ではないか。

映画三昧もなかなか復活できない。
「川の底からこんにちは」の次は何を見ようか?考える気にならない。重症だ。
でもそろそろ生活を変えていこう。
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地震直後から4

2011-03-20 20:05:06 | Weblog
地震が起きてからはや1週間が過ぎた。
しかし、行方不明者は1万人を超える。これは警察に届け出があった分なので、実際にはもっと多いのかもしれない。本当にむごい話である。

先週週初めから相場が大荒れだった。
地震が起きた時、あの揺れでは恐怖感でポジションを取ることは無理。西日本の人たちを除いては難しかったと思う。普段より揺れがひどいということを加味して、とりあえず売っておこうとした人もあっただろうが、そこまでは考えなかったろう。しかし、週明けのボラティリティの高まりはすさまじいものであった。通常、こういった予測不可能な事象が起きると、上か下かに大きく振幅するものである。
素人?であれば、オプションのディープアウトオブマネーを両建てで買っておくのが、軽いヘッジもできて一番いいのかなあと自分は思う。いわゆるストラングルの買いである。でもあの時点で地震の影響がここまでひどいとは誰も考えなかったし、自分の職場は地震の揺れ途中に停電である。同じような人も多かったろう。これじゃどうにもならない。

しかし、その後オプション、FXでとんでもないことが起きたようだ。追い証を払うどころか、強制反対売買で証拠金以上の損失を出して終了した投資家が続出したと今朝の日経新聞で見た。自分たちの損でなく、顧客の損で億単位の貸倒損失を証券会社が計上しているのである。これはすごいことだ。オプション、先物の取り扱いをやめる証券会社が出てくるなんて話はまさに平成2年の強烈な下げ相場を連想させる。
外から見ていると、絶好のタイミングで売り買いを重ねている人がいるように見えるが、現実には素人では不可能に近いと思う。当局介入によるドル円相場の戻しでも、70円台後半ではドル買いどころか、すでにゲームオーバーでポジション取れずだったろう。そう簡単に上に下に反射神経を使ってディーリング出来ないと思う。特にボラティリティが激しい動きを見せると、反対方向のオプション売りを仕掛けている人たちには地獄である。
破産続出か?ポジションを持たず、客観的な目で見ていると気楽だなあ。
ここで震災とは全く別な意味で地獄に落ちた人が出てきた。

2月に営業活動の一環で、法人営業部隊に同行して銀行をまわった時に、来店客が多いのに正直びっくりしていた。一昔前と違い、銀行も勝負が早いということで投信の販売にかなり力を入れている。銀行の支店長は2,3年で異動になる。手っ取り早く収益の実績を上げるには手数料商売をするのが一番楽だろう。
慣れない素人がやるとロクなことがない。愚直な大衆たちがまた買っているなと心の中で思っていた。別に遊び人といった風貌ではなく、すでに定年を迎えているような人たちや初老のご婦人たちである。銀行の支店長たちに「景気がいいですね。」というと、意識的にそうしているわけではないけど、来店が多くてと言っていた。まんざらでもなさそうだった。日経平均は11000円に向かいつつあるときだった。
こういう人たちがろうばい売りをするとは考えづらいけど、金融商品の恐ろしさは身にしみて感じたのでは。

原子力発電所の問題は深刻である。放射能の危険をしりながら日本国のために頑張っている自衛隊、消防署の人たちには心の底から敬意を表したい。非難を浴びているが、東電の社員も必死だろう。予測の甘さはあるとはいえ、今現在寝ずに頑張っている社員さんに対してこころから応援したい。
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地震直後から3

2011-03-17 05:38:54 | Weblog
3月15日
電車の接続が難しそうだったので、大回りで京葉線を利用して出勤
ディズニーランドのある舞浜駅あたりを通過して、ディズニーランドを見るとクレーン車が入っているような様相であった。ようやく会社に80%以上が集まれる状態になる。千葉の内房線、外房線はまだ通っていないので千葉市より先に住む人たちが出社できないでいる。
社長から発信で出ている書面を臨時朝礼をやって読み上げる。
宴席、会食の類は自粛するようにと書いてあった。注意事項を述べた後仕事をした。
新規受注に関する把握があまりできていない。営業業務が止まってしまっている。
本来期末ムードでイケイケドンドンムードがどうにも高まらない。
そんなことをしていた後、すぐそばのショッピングモールへ昼食に行った。
トイレットペーパーがなくなっていると妻が大騒ぎしていたので、見てみるとあった。
すぐに妻に確認電話して購入した。ここ数日ショッピングモールがお休みだったので、開店してまもないので、いつもの数分の一の客数であった。だから並ばずにあっさり買えたのであろう。
あとは計画停電があるので、会社を6時前に閉める準備だ。女の子もちゃんと帰さないといけない。
予想通り、電車の接続がない。遠回りだ。6時過ぎに停電が予想されるので駅もクローズ体制だ。
イヤーまいった。

今回被災されたエリアは何度も行ったところだ。
牡鹿半島の先っぽにある金華山にはその昔社内旅行で行き、「3年連続で行くと一生金に困らない」といわれ、一昨年まで5年連続で行った。ブログにも書いた。御利益はかなりあった。
その金崋山に行くために石巻も2回泊った。水量が多い北上川の河口が美しかった。女川にも泊った。南三陸町こと志津川には2回泊ったことがある。仙台から直接金華山へ行ったこともある。被災を受けた仙石線にも乗ってとことこ石巻に行った。東松島あたりは線路から海が見えてきれいなところだった。そこが津波を受けてひどい被害を受けたと聞くと本当に心が痛む。

他人事には思えない。もし自分が行ったときに被災したらと思うと何と運が良かったのかとも逆に思う。それと同時に震源地との隣接関係をみて、金華山パワーの強さには改めて驚かされた。
金華山のお土産屋の人たち、鮎川の港の人たち、女川の港の前の「中村雅俊記念館」の人たち、女川の湾のそばにあるホテルの人たち、志津川のホテルの人たちみんな元気なのかな。。。。。
心配です。


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地震直後から2

2011-03-16 18:46:17 | Weblog
3月12日
前日は全然だめだった電車に乗って会社に向かうことにした。
京浜東北線は通るという話を信じて駅にいった。ホームには電車があった。すいていた。座れた。
みな昨日のことがあるので、動くかどうか半信半疑だったのであろう。
しばらくして安全の確認が取れたとのことで動き出した。超のろのろ運転である。
ある駅で大量に乗車してきた。ものすごい数である。この電車で座れたのはラッキーだが、いつものように本を読む気がしない。地震のあと、読書量が極度に減った。

会社があるビルが立ち入り禁止にしていて、今日も事務所に入れないことがわかった。
それなので、ショールームに行くのか迷った。千葉駅近くにある営業所は幸いビルの機能が生きているらしい。そこへ向かった。
総武線の乗車にあたって、一回待った。最初は乗れなかった。

営業所に着くと、自分と同じように支店に入れないメンバーがいた。
11日は女性2人が上司の家に泊ったらしい。いずれの女子社員も東京在住だ。途中まで向かってあきらめて泊めたらしい。そのうちの一人の家は断水で、シャワーも浴びれなかったらしい。
こういうことが起こるのだ。逆に転勤が決まって名古屋に異動になる人間が、家さがしにたまたま11日行って地震にあった。一晩泊って12日東海道新幹線は普通に動いていて、むしろ自分より早く千葉駅に着いた。新幹線は強いなあ。
いろいろな仕事上不都合の情報がたくさん入ってきた。これだけの地震だけに仕方がない。
でも気持ちがだんだん憂鬱になっていった。

そうしているうちに本社から通達があった。6時過ぎに停電の可能性があるので電車がなくなるから、早く帰宅するようにと。。
昨日の二の舞は御免と早く帰った。疲れてきた。
そしてテレビを繰り返して見て、地震の凄まじさにあっと驚いた。どんなに強い家に住んでいても、津波に飲まれたらどうしようもないのだ。悲劇だ!

13日は停電が止まり、機能が復活した事務所へ行った。
会社近くのショッピングセンターはまた休みになった。どうしても気持ちが晴れない。
つらい気持が続く。浦安の街を歩いた。普段きれいな街が最悪の状態だ。新興国のように土煙が舞い上がっている。液状化で泥水が地下から上がり、水が蒸発して泥だけが残る。至る所でインフラ復旧の工事をしている。道路はガタガタで、家の外構は80%以上壊滅と信じられない凄い光景だ。
ディズニーランド復活には当分時間がかかるであろう。
早めに家に帰った。
テレビを見るとまたしんどい画面が続く。そうしたあと計画停電の実施決定の映像が映ってきた。
菅直人首相のスピーチの後、東電社長が話をした。決まったようだ。
でもさいたま市というだけでよくわからない。困ったなあ。と思ったが面倒くさくなって寝た。

翌朝14日あっと驚いた。
埼玉、千葉から東京への交通が遮断されているのである。
埼京線は動くという情報もあったが、信用できない。京浜東北が赤羽までしか行っていない。
総武線は動いていないし、京葉線も運休絶望的だ。
こんな絶望的な状況は生まれて初めてだ。
会社メンバーに早朝から連絡をして、通勤不可能ということで浦和の事務所に出社することにした。
携帯電話では通話不可能になるので、普通の事務所から電話連絡しないと難しいと判断した。
歩いて浦和の会社に向かった。以前の自分が通ったところだ。
会社に向かうとき、国道17号線は大渋滞だった。自転車に乗って通勤する人が多い。
歩道をびゅんびゅんとばして自転車が走る。光景は中国の出社状況と一緒だ。
千葉と比較すると、埼玉はあまり大きな影響を受けていない。埼玉の支店は埼京線が結局通り、埼玉居住者も多いせいか、出社率は高かった。浦和で昼飯に行こうとしたら、食事するところは3分の2程度は空いていた。浦和伊勢丹、コルソは休み、イトーヨーカ堂にはたぶん食料を求めてか行列ができていた。ドラッグストアではトイレットペーパーを求める行列もある。
予想外の光景である。うーん。。。。
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地震直後から1

2011-03-16 05:44:52 | Weblog
地震が起きてから、喪失感でブログ更新できなかった。
昨日の帰りの電車、誰もがパワーを失っているように感じた。

3月11日2時46分ころは千葉の事務所で会議を開いていた。会議をしているのは8人

突如として、地震が来た。
揺れはじめた一瞬は、いつもの地震かという感じだった。
ビル内の地震が来たことを知らせる放送が鳴りはじまった。しずまらない。
座っていた我々も揺れのあまりの大きさに机の下へ入った。
それでもしずまらない。場内の緊急放送が再度鳴りつづける。何だこの揺れは。
こんなに長い地震を感じたのは初めてだ。恐怖を感じた。
停電になった。ビル十数階であるから、揺れも強い。いったん静かになった。
ビルの管理室より館内放送で「至急ビルの外へ出るように」と指示があった。
会議室からフロアー自席に戻り、あわてて階段を降りて行った。
フロアのキャビネットが崩れ、引き出しが飛び出し、机上の書類が落ちていた。

外へ出た。携帯はもうかからなくなった。
自宅はどうなっているのか?心配になった。
同じビルに入っている別の会社ではヘルメットをかぶっているような人もいる。
同じビルの人たちがビルの駐車場に回った。自分のビルは海から近い。外は液状化も始まっていた。
そんな時妻よりメールが来た。ほっとした。
その駐車場へいってしばらくして余震が来た。これも大きい。ただ、外に出ていたのでビルの中ほどきつい感じ方ではなかった。津波警報があるので移動の指示が来た。当然だろう。

移動した駐車場にフロアにいた社員約50人と一緒に移動した。
その場を出るときは、もう一度戻ると思ってワイシャツ姿で飛び出した社員もいた。
自分はとりあえず降りるときにコートとカバンは持って出た。
どうやら事務所へはもう戻れなくなっているようだ。電車も通っていない模様。
とあればいったん帰すしかない。区分けして帰した。
でもその時は帰れない人が出てくるとは夢にも思わなかった。

事務の責任者が停電で暗闇の階段を上がっていった。地震発生時に空きっぱなしになっていた表エントランスを閉め降りてきて、車で一緒に埼玉へ帰ることにした。技術の責任者も同じさいたまだ。3人で帰る。
車を走らせると、大渋滞が始まっていた。全く進まなかった。途中給油所があった。
今思うと給油できたのはラッキーだった。
ラジオでは地震の大きさを告げる放送が続いていた。思った以上に大きい地震のようだ。
結局さいたまに帰るまでになんと8時間かかった。
途中、帰宅困難で徒歩で帰ろうとする人たちを数多く見つけた。松戸のあたりで国道6号線に入った。
11時をはるかに過ぎていた。6号線上には疲れ果てて、路上に座り込む人をたくさん見つけた。女性も多い。家に帰ると1時半くらい。テレビ画面ではラジオではわからない光景が次から次に散見された。
でも寝た。

しかし、翌朝テレビで見た津波が町を飲み込む光景にはあっと驚いた。
そのまま会社に向かった。


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年末うだうだ

2010-12-31 19:36:33 | Weblog
クリスマス前21日に忘年会は終えた。
浦安のベイサイドでの関連業者さんの忘年会に招待されて、雨が降っているにもかかわらず午前3時近くまで飲んだ。これが間違いのもとになった気がする。

その翌日22日は一日二日酔い。通夜があり埼玉で
クリスマスは自宅で過ごしたが、少しづつ忘年会疲れが見えてきた。
その週末の早朝が実に寒かった。この朝夜の寒さで風邪をひいた。
27日仕事納めだったので会社に気合で行ったが、一日しんどかった。
今年は仕事面ではいい年だった。12月の成績も抜群にいい。
納会はたらふく飲んだが、翌日28日医者に行った。
近所の町医者で、カルテからすると2年半ぶりだそうだ。風邪薬をもらったら少しは良くなる。
29日から娘と勉強を始めた。日曜日祭日中心だった数学中心の演習、入試過去問がもう一歩解けない。
細かく解き方を説明して、解き直しさせる。
まあダメな問題を何度も繰り返してとけばいいだろう。

30日は品川の家に行き、妹と一緒に高輪の寺に行って墓参り
正月に向けて家の身のまわりの準備もした。
家の本が増えすぎたので品川の家の本棚へ運ぶ。首都高速は渋滞はない。
むしろ高速1000円の正月明けの方が込むかもしれない。
今日31日は映画を見ながら過ごした。

あとは紅白歌合戦をみて一年を終了させるだけだ。
今始まったところ、桑田が出るらしいのでそれはみたい!
あとは加山雄三がどう歌うのか注目している。
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