映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

父と暮らせば  宮沢りえ

2010-09-03 05:09:51 | 映画(日本 2000年以降主演女性)
終戦後3年たった広島を舞台に、宮沢りえが父原田芳雄との心のふれあいを描く作品だ。
もともとが井上ひさしの二人劇で、映画としてはセリフに頼りすぎて凡長な感じがした。しかし、流れるハートはやさしい。



昭和23年の広島。宮沢りえは、父原田芳雄と二人で暮らしている。宮沢は図書館に勤める。心の奥では原爆投下を生き残ってしまったことへの罪悪感をもっており、勤め先である図書館で原爆の資料を集める浅野忠信から好意を寄せられているものの、死者への申し訳なさから親密になれないでいる。原田芳雄は、日々の話し相手として助言を与えるが。。。。

実質演劇調で、長回しが多く二人には過酷な映画だったろうと思う。
予備知識なしで観た。むしろあったほうが感慨深かったかもしれない。
父と娘の交情にはほろっとさせられるものがあるが、演劇を観る訳ではないのでちょっと退屈になってしまう。厳密に定義付けをしなくてもいいとは思うが、セリフが多すぎるのは映画向きではないかも?心理描写にこだわるなら小説だし、映画はハートに響く映像、音響を求めるものでセリフは必要最小限に抑えた方がうまくまとまると私は思う。

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村上春樹を読み返して1

2010-09-02 05:14:37 | 
この夏は村上春樹を読み返してみた。

小説として重厚感がある「海辺のカフカ」「ねじまき鳥クロニエル」をじっくり堪能させてもらった。時間はかかるけれど、高級ウィスキーを飲んでいるようなコクのある上質な雰囲気を味わえる。同時に、軽めの「アフターダーク」「東京奇譚集」やエッセイも読んだ。これはさほどでもなかった。
あとは何度読んだかわからない「国境の南太陽の西」も再読した。村上春樹は先日発刊されたインタビューでこの小説も評判悪かったなあといっていたが、個人的には好きだ。

彼が本領を発揮するのは「ねじまき鳥」「海辺のカフカ」などの長編小説だと思う。比較するのもどうかと思うが、長編小説ということで山崎豊子さんと比べてみる。村上春樹の小説は何度も推敲された結果文章になっている深みのあるものが多い。逆に山崎豊子の場合、周到な取材を重ねた結果書かれたというのが小説から読み取れる。しかし、連載小説を締め切りぎりぎりに書きあげたようなノリで推敲を重ねたような文章の厚みがない。「ねじ巻き鳥」ではノモンハン事件に関して綿密な資料の読み込みをした形跡がある。でもこれは珍しい。彼の場合、彼が重要と感じるいくつかの現実の出来事や映画の場面を基点にして、自分の想像を膨らましていく感じだ。

「国境の南太陽の西」は「ねじまき鳥」に比較すると短い小説だ。でも「ねじまき鳥」で書ききれないことをここで語ったと先日読んだインタビュー記事に書いてあった。この小説の時代背景はバブル崩壊直前だ。基調は小学校の同級生との純愛物語である。「1Q84」と同じような出会いである。ここではビジネスに関しての彼の考えが読み取れる。もともとジャズクラブを経営していた村上春樹が、主人公の言葉を通じてビジネスについて語る。これが興味深かった。初めて読んだ後そこだけを何度も読み返した。店の模様替えの話、出来のいいバーテンダーの話などがいい。あとはバブル紳士たちの言葉が、妻の父親の言葉として語られる。これも意味深い。「ねじまき鳥」にも一瞬だけそれを彷彿させるところがあった。「やり方」を知っているか知らないかでチャンスをつかめたりできなかったりするという話だ。

村上春樹の小説がまともに映画化されたのは「風の歌を聴け」くらいだ。あとは小品の映画だと思う。この映画は真行寺君枝さんが出演していた。個人的には物足りなかった。それはセットがあまりに稚拙な感じがしたからだ。ロケハンティングもうまくいっていないと思う。「国境の南太陽の西」を仮に映画化とすると、青山あたりをロケにしてうまくいくと思う。その場合に美術にがんばってもらって、しゃれたジャズクラブの演出が必要であろう。
でも「海辺のカフカ」、「ねじまき鳥」は映画化がかなり難しいであろう。
「ノルウェイの森」の映画公開は期待して待っている。

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チャンス  ピーターセラーズ

2010-09-02 04:44:52 | 映画(洋画 89年以前)
喜劇役者ピーターセラーズの79年の遺作である。単なる住み込みの庭師だった男がひょんなきっかけで大統領も一目置く有名人になってしまう話である。野心がないのにのし上がっていく姿はトムハンクスの「フォレストガンプ」を思い起こさせる。中年の域に達しつつあったシャーリー・マクレーンと大ベテランメルヴィン・ダグラスがわきを固めるが、いずれも好演である。ほのぼのとした気分を抱かせるいい映画だ。



ある古い屋敷の主人が病気で亡くなった。中年の庭師チャンスことピーター・セラーズと黒人のメイドの2人が残された。チャンスは小さいころから屋敷の外へは出ず、読み書きもできず、ひたすら庭いじりとテレビを観る楽しみだけで生きてきた男だ。財産整理の弁護士が来て屋敷を出されたチャンスは一人街の中をさまよった。財布に中身はないが、家の主人が持っていた仕立てのいいスーツを着て、高級カバンを手に提げていたので身なりは悪くなかった。そんな時、1台の高級車にぶつけられた。中に乗っていた貴婦人シャーリー・マクレーンから手当てを受けるため家に寄って欲しいと言われた。その車が着いたのは大富豪ことメルビン・ダグラスの邸宅で、シャーリーは彼の妻だった。主人は高齢で健康状態もすぐれなかったが、チャンスに接していると気持ちが安らんだ。その後大富豪を見舞いに来た大統領は、チャンスと会い、庭の手入れに例えた景気に関する楽観論を聞き妙に感心してしまうが。。。。

まず映画が始まってすぐにシューベルトの「未完成交響曲」が流れる。そして、主人のいない家を出てさまよう時に、デオ・ダートが演奏する「ツァラストラはかく語りき」の軽快な音楽が流れる。この当時はやっていたクロスオーバー系のアレンジだ。記憶に間違えなければ、全米ヒットチャート上位にランクしていた気がする。2つの有名曲を基調にしてゆったりと始まった後、シャーリーとの出会いから映画が二転三転していく。



誤解が誤解を生む構造である。
チャンスという名でガーデナーだと大富豪の前で自己紹介したらチャンシー・ガーディナーという人物と誤解される。大統領とその側近が懸命に彼のことを調べるが、どこにも彼の情報がない。それはそうだ。でもテレビに出演すると人気者になる。
最近ではコーエン兄弟が得意とするパターンだ。でもベテラン俳優が中心となって急がず映画は続いていく。コメディといっても、ドタバタで大笑いという訳ではない。世間知らずのピーターセラーズの存在自体を面白く描いている。
変な野心のない人間が一番だ。この映画は言いたかったのかもしれない。

ピーターセラーズピンクパンサーの警部役とキューブリックの「博士の異常な愛情」の一人三役が映画史上では有名である。でもこの翌年亡くなった時はまだ50代だった。今思えばずいぶんと早い。この映画のラストに妙なシーンが二つ続く。それ自体彼の映画とのお別れを暗示しているようにみえるのであるが。。。。


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