後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

偏見と感傷に満ちた随筆ですね。

2007年11月14日 | 旅行記

外国体験いろいろの(1)から(4)を掲載して読み返してみると、外国体験をした当時の日本の国際的な立場や国策に深く影響を受けていると思い知りました。また偏狭な考えにとらわれているなと感ずるところも数々あります。それから若かったせいもあり感傷的すぎるところも随所にみえます。71歳の現在読み返し恥ずかしい感じですが当時の時代的な空気を記録するのも何か意味があるかも知れないと修正なしでけいさいします。

これからたった一つ残ったある委員会の仕事で高崎と福井に行きますのでブログは3日休みます。福井では越前蕎麦をたべる予定です。蕎麦のことはご報告します。


外国体験のいろいろ(5)

2007年11月14日 | 旅行記

外国体験のいろいろ(5)

              

      ◎ 温顔の将校ホーチーミン

1990年代に入り、日本企業は中国やベトナムへ工場を移転・拡大しはじめた。ところが、工場建設の許認可から、生産管理、利潤の送金などでトラブルが生じた。日本企業はアメリカやヨーロッパで工場を建設し、順調に生産を続けてきたが、経験が役に立たない。 そういった現実を踏まえて、代々木駅のそばにある代々木高等学院が企業人向けに「ベトナム・中国ビジネス講座」という夜間講習会を実施。講座を企画運営した私は三つの柱を立てた。

①現地での工場建設許認可に関する現地の法律・規制を教える②中国語あるいはベトナム語の初歩を教える③中国人、ベトナム人が尊敬する政治家の生涯を教えるーの三点だ。 ベトナム講座の③はホーチーミンに絞った。情報源は大戦後ベトナムに残留してホーチーミンの部下としてフランスと戦った二人の日本兵と一人の銀行家。講師として自らの見聞や体験を語ってもらった。

「作戦の最中、川を渡ることがしばしばあった。川岸に来ると兵隊は下半身裸になり、服を着た将校を背負って渡る。軍隊では当たり前の習慣である。残留日本人は皆将校になったので、服を着たまま兵の肩に載って渡る。ふと前を見ると、将校服の老人がズボンをたくし上げて歩いて渡って行く。向こう岸にたどり着き、渡河した老将校の顔を見ると、それは温顔のホーチーミンだった。兵隊へ「ご苦労さん」と言っているようにニコニコ顔で振り返っていた。こんな場合、日本軍出の将校は兵から飛び降りる。一方ベトナム人将校は自分の行動を続ける。ホーチーミンも将校に歩いて渡れと命令しなし、そんなことを期待もしない。しかし、このエピソードは数日でベトナム全軍に広がる」

ベトナム兵の士気が上がるのは当然であろう。元日本兵はホーチーミンの部下として戦った6年間を人生の中で一番輝かしい期間だったと言う。

  @日本兵帰還の特別列車

1951年になり、朝鮮戦争が始まる。ホーチーミンは郷愁の念にかられる残留日本兵に深い感謝を伝え、北京までの特別列車を仕立て送り返した。講師を引き受けたF氏とY氏になぜ残留したのですかと聞いた。「ホーチーミン軍に加われば、食料に困らないと聞いたからですよ。共産主義が正しいとか大東亜共栄圏がよいとか考えませんでした。食べ物の誘惑でしょうね」

もう一人の講師H氏は元横浜正金銀行の幹部であった。ホーチーミン軍の財務担当幹部としてベトナムの銀行制度の骨子を作った。H氏は「ホーチーミンは官僚主義を憎んでいた。ベトナム共産党もすぐに官僚的文化に染まり、その結果、一般人民が被害を受けることを憎んでいた。彼は一般民衆の幸福を第一に考え、アメリカ、ソ連、中国からの完全な独立を確信していた」と語った。

日本人が外国で工場をつくり、利潤を日本へ持って帰るためには、その国の文化を知らなければならない。しかし文化一般は広い。一分野に焦点を絞るのがよい。「ある政治家を一般の人々がどんな理由で尊敬するか?」現在の日本人は政治家を尊敬しないからといって、外国人も同じだろうという考えが外国でのトラブルの原因になっている。(この項の終わり)


外国体験のいろいろ(4)

2007年11月14日 | 旅行記

外国体験のいろいろ(4)  

                

◎ホンダバイクの奔流―サイゴン 

 1994年、サイゴン、夏の夜のこと。目前の大きな通りいっぱいに、ホンダの50ccバイクが爆音をとどろかせ、後ろに三、四人乗せて大河の奔流のように流れて行く。ほかに楽しみのないベトナム人家族の夜の娯楽である。1976年、米軍がサイゴンを放棄し、ヘリコプターで最後の脱出をしてから18年。

立ち尽くす私の頬を静かに、しかし止めどなく熱い涙が流れる。平和って素晴らしい。フランス、アメリカとの三十年に及ぶ戦争い勝ったベトナム。しかし血の代償は大きかった。ハノイ市郊外の山並みを低空で飛ぶ米空軍の戦闘機を打ち落とした、元ベトナム兵の話を思い出している。先の大戦の終戦間際の東京空襲を思い出すがよい。

  @ホーチーミン記念館

ハノイでガイドをしてくれたベトナム人の若者はいいかげんなやつで、ホテルに迎えに来る時間は遅刻ばかり。道案内もでたらめで、とにかくやる気がない若者だった。こんなやつにはほかの国でも会ったことがない。そんな若者に、「君、ベトナム人が一番尊敬しているホーチーミンの記念館に、あす案内してくれないかね?」と頼んでみた。

いつもは汗臭いシャツ姿の彼が背広姿をビッシと決めて、ホテルのロビーで朝早くから待っていた。ホーチーミン記念館へ私を案内するのがそんなにうれしいのだろうか。喜びに絶えないといった様子で、私を引っ張るように連れて行く。締め慣れないネクタイを何度も直しながら道を急ぐ。

記念館には、ホーチーミンの写真やディエンビンフーでフランス軍を壊滅したグエンザップ将軍の写真などが、生前に使っていた家具や文房具類とともに展示してあった。記念館を出る時、たくさんの横長の旗が生暑い風にハタハタとなびいているのに気付いた。文章が書いてある。「なんて書いてあるの?」。「いいかげんな案内人」は目を潤ませて、「ホーチーミンはベトナム人の胸に生きている。いつまでも生きている」と読む。

この叙情的な文章は本当にベトナム人の本音。美しい文章である。

     @残留日本兵の活躍

ベトナムは先の大戦の前、仏領インドシナと言ってフランスの植民地であった。ドイツ軍のフランス占領に連動して、ドイツと同盟関係にあった日本軍が同地をほぼ無血占領。 こういった事情もあって、戦後日本に帰らず、ベトナムに残留した日本兵が多くいた。

ベトナムに残留してホーチーミンの部下としてフランス軍と戦った、そういった日本人の話を聞いたことがある。特攻隊として散華した日本人も偉かったが、東南アジアの国々、あるいは中国大陸に残留して、欧米列強に対する独立戦争に参加した日本人も尊敬すべきである。

米国を追い出したベトナムは1986年、共産主義の間違いに気付き、市場開放、資本主義化政策の導入を決定した。いわゆるドイモイ政策の導入である。まだ中国ほどには経済は発展をしていないが、もっと発展をしてもらいたい国である。

アメリカはベトナム戦争で文化が変質した。韓国は軍隊を送って血を流した。ボートピープル救済のために、アメリカやドイツの民間団体はベトナム沖に大型客船を常駐させていた。ベトナム戦争を日本人は少し忘れすぎてはいまいか?