八王子市の千人同心の住んでいた千人町からの甲州街道は多摩御陵への参道を兼ねているので両側に見事な銀杏並木が続いています。毎年、11月になると黄葉が輝いて美しいので写真を撮りに行きます。
そして多摩御陵前の交差点を右に曲がり御陵へと入っていきます。その道のケヤキの大木の並木の様子は下の写真に示しました。
この右手に広々とした駐車場があり森閑とした静けさが漂っています。
私は昭和11年の生まれで戦前、戦後の日本が苦しかった時代に育ちました。ですからこの多摩御陵に来ると昭和天皇のことをいろいろ思い出します。
あの方は善良な方でした。開戦を避けようとしましたが軍部に押し切られ、真珠湾攻撃をしてしまったのです。
1945年8月15日の終戦のお言葉は疎開先の田舎の国民学校の校庭で聞きました。意味はさっぱり分かりませんでしたが、昭和天皇の悲しそうな声が忘れられません。後からラジオや新聞で意味の説明がありました。
「終戦を受け入れることは恥辱ながら、日本民族が永遠に存在するためにも忍びがたきを忍び、終戦を受け入れました。国民はこれからどんな辛苦にも耐えて民族の存続のために努力して下さい」というような意味だったと覚えています。
そして敗戦後すぐに昭和天皇は全国津々浦々を丁寧にまわり、街頭の粗末な台に立って人々の歓迎に答え、復興に努力している国民を励ましたのです。私は仙台の町に帽子を上げて立っている新聞の写真を今でも覚えています。
昭和天皇もしばらくは苦しそうでした。しかし講和条約も出来、世の中も落ち着いてきました。大相撲にも皇后陛下と一緒に来ましたし、後楽園球場で王さん、長嶋さんの出場した野球も見に来ました。
そして1964年の東京オリンピックでは昭和天皇が開会宣言したのです。
皇太子が美智子さんと結婚し、お孫さんも生まれたのです。これで多くの国民は安心したのです。ホットしたのです。
しかし昭和天皇は終生2つのことを後悔していたと言われています。
軍部に押し切られて開戦をしてしまい、300万人もの戦争犠牲者を出したこと。
そして沖縄戦で多くの民間人や学生を犠牲にしたことです。
昭和天皇は沖縄への慰霊の旅をしたかったのですが、それは終生かないませんでした。その後、皇太子が昭和天皇の代わりに沖縄に慰霊の旅に行きました。
これで昭和天皇のお気持ちも少しは安らかになったと思います。
写真を撮りながら、今日も昭和天皇と皇后陛下のご冥福をお祈りしました。