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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本にある道教の信仰・・・庚申の日は徹夜する・塔を建てる

2013年11月07日 | うんちく・小ネタ

先日、府中郷土の森博物館公園を散歩していたら江戸時代中頃の1700年代の庚申塔が数基と馬頭観音塔が一基集めて保存してありました。

庚申塔は江戸時代に大流行して全国に建てられたそうです。

不思議な信仰活動なので家に帰ってから調べてみました。

そうしたら庚申塔信仰は道教が日本に導入されたもので、日本では珍しい道教起源の信仰でした。

その信仰は体内に棲む三し(さんし)という虫が庚申(かのえさる)の日に眠っている間に抜け出して、天帝へ棲み込んでいた人間の罪状を報告するという信仰です。これを防ぐために庚申(かのえさる)の日に徹夜をして、体内の虫が抜け出さないように見張っているのです。いかにも道教らしい民間信仰です。

下に府中郷土の森博物館公園で撮った庚申塔の写真2枚と馬頭観音の写真を一枚示します。

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上の馬頭観音はヒンズー教の影響を受けた仏教の観音様の一つの変化なので道教とは関係がありません。

しかし江戸時代にはこれも沢山建てられ本来の意味を離れ旅の安全を守るものとして信仰を集めていました。

下に目黒区の区役所の庚申塔の説明が明快なので添付します。

=======庚申塔信仰とは?=================

寿命を縮めないために 江戸時代に大流行した民間信仰 http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/koshinto/nani.html

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旧暦では60日に1度、庚申(かのえさる)の日が巡ってきますが、この夜眠ってしまうと人の体内にすんでいる三し(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあり、罪状によっては寿命が縮まると言われていました。寿命が縮まっては大変。この日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごしました。日本では既に10世紀ごろには盛んだったようで、「枕草子」、「大鏡」などに記述があります。この教えが広まっていく中で仏教や庶民の信仰が加わり、江戸時代には全国の農村などで大流行しました。

身を慎むことから始まりましたが、徐々に米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごす楽しい集まりになっていきました。また、さまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場でもありました。この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔です。長寿や健康のみならず、家内安全や五穀豊じょう、現世や来世のことなどを祈り、それを碑面に刻みました。

庚申塔いろいろ

病魔・病鬼を払い除くといわれる青面(しょうめん)金剛像や謹慎の態度を表すという三猿を彫ったものをよく見かけますが、文字だけを刻んだものや観音様やお地蔵様の姿のもの、さらには道しるべの標石を兼ねているものもあります。建造した年号・建立者の名前などが刻まれていて村の歴史やその土地の信仰、人々の生活、集落形成の様子などを知る貴重な資料となっています。
盛んだった庚申信仰も時代を経るにつれ、次第に忘れられていきました。都市開発や宅地の造成に伴って場所を移動させられたり、行方不明になった庚申塔もあります。また親睦会という形で人々の集まりが続いている地域もあります。

=====そして馬頭観音については下記をクリックしてご覧下さい========

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%A0%AD%E8%A6%B3%E9%9F%B3

梵名のハヤグリーヴァ(音写:何耶掲梨婆)は「馬の首」の意である。これはヒンドゥー教では最高神ヴィシュヌの異名でもあり、馬頭観音の成立におけるその影響が指摘されている。 他にも「馬頭観音菩薩」、「馬頭観世音菩薩」、「馬頭明王」など様々な呼称がある。衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩である。

近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物供養塔としての意味合いが強くなっていった。このような例は中馬街道などで見られる。なお「馬頭観世音」の文字だけ彫られたものは多くが供養として祀られたものである。

======以下省略==========================


私が体験した欧米文化の素晴らしさ(2)アメリカ人の開拓精神で助けられた経験

2013年11月07日 | 日記・エッセイ・コラム

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上は昨日、家内と一緒に散歩した公園の樹木の様子です。この木々の下を歩みつつ我々が昔、オハイオ州で結婚した頃のことをあれこれ思い出していました。

貧しい生活のなかで、日本から婚約者を呼び寄せ、オハイオ州で結婚式を挙げました。初めての子供もそこで生まれ3人で日本へ帰って来ました。

その結婚式から新婚生活のいろいろな場面でアメリカの指導教授夫妻や同級生夫妻などに大変助けられたのです。

特に結婚式と披露パーティを準備してくれ、多くのアメリカ人が出席してくれたことには感動しました。式の前に家内だけ招かれた「ウエディングシャワー」ではさまざまな品を贈られました。新生活に必要な台所用品や食品とレシピ、日用品、救急箱などです。妻が出産した時も同級生の奥さんたちがお祝いのパーティを開いてベビー用品や本の贈り物を下さいました。パーテイも式もお返しはしないことと教わりました。

また乳母車や子供用のベットを貸してくれて、我々の生活を助けてくれたのです。

何故、そんなに親切にしてくれるか聞いてみました。答えは「アメリカ人の開拓精神」ということでした。

アメリカ大陸へ来て開拓しようとする新しい移住者を周りの人々が助けるのが開拓時代の習慣です。それが現在でも生きています。ですから私たちはあなた達を助けるのが当然なのです。アメリカ人たちはそんなふうに説明していました。

新参者を暖かく迎え、助けるのもの開拓精神の一部なのだと理解出来ました。

それまでの私の理解では「開拓精神」とはアメリカの大地を切り開き豊かな農地にする、その困難にも絶対に負けない強い精神のことと思っていました。しかしそれは「開拓精神」の半分しか理解していなかったのです。

大地を開拓するとき、初めの1年間は収穫がありません。どうしても周囲の人々の援助が必要になります。

ですから開拓に挑戦している新しい人々を周囲の人が支援し、助けることも「開拓精神」の重要な半分の意味だったのです。

開拓は大地を切り開き農地することですか、その意味を拡げると「新しいことに挑戦し、新しい境地を切り開く」ことも意味します。

私はオハイオ州へ農地を切り開くために行ったのではありません。新しい研究分野に挑戦し、新しい研究分野を切り開くために行ったのです。そうしたら周囲のアメリカ人が本気で助けてくれたのです。

そしてアメリカ人達が、それは開拓時代の伝統ですと言い、涼しい顔をしているのです。この素晴らしいアメリカ文化に感動しました。いや現在、老境にいたって公園の林の中を妻と一緒に歩みつつ感謝しているのです。

この新移住者を歓迎し、暖かく援助するという文化は日本や旧世界のヨーロッパには無い文化です。素晴らしいアメリカ独特の精神文化なのです。

その延長にアメリカでは失敗しても新しいことに挑戦する人を支援する文化を持っているのです。失敗しても何度でもチャンスを与えるのです。

ところで、最近アメリカの茶会運動が大きな政治勢力になっています。

東海岸に入植した人へのお茶の貿易に英政府が大きな関税をかけようとしたのです。それに反対し税金撤廃運動をした「ボストン茶会事件」にならった名前の政治運動です。

その茶会運動の現在の趣旨は以下のようなものです。

政府は民間のことに干渉するのは最少にすべきで、景気対策や全国民の健康保険などに予算を使うべきではない。大体、開拓時代には、政府は開拓民へ何もしなかったではないか。開拓民同士が助け合って困難な開拓を成し遂げたのです。この開拓精神こそがアメリカをより強くし、世界のリーダーの座をまもるのです。

このような考え方に共和党保守派が賛同しています。アメリカの保守派の中心になっている考え方です。オバマさんの後の次期大統領選挙へもこの茶会運動は大きな影響を与ええると言われています。

茶会運動はオバマさんにいちいち反対する保守反動として、日本では悪玉として報道されることも多いようです。

しかし新婚のころその開拓精神に助けられた私にとっては、完全に悪玉とも言えません。複雑な気持ちです。そんなことを考えて長い時間、散歩した公園の林の写真をもう2枚下にしめします。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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