昭和という時代は日本民族にとって空前絶後の激動の時代でした。
この時代を否定的に考える日本人が多いのはアメリカの軍国主義否定の戦後政策によるものです。そして日教組をはじめ共産主義に染まった知識人たちの自虐趣味的な論評の影響です。
しかしそろそろ昭和という時代を客観的に評価し直しても良い時代になったと思います。
しかし一方で、私は300万人の戦争犠牲者と筆舌に尽くし難い悲劇を何度も、何度も思い出しています。そして戦前、戦後の苦しかった生活を忘れることは出来ません。
これらの日本人の未曾有の悲劇と悲しみを常に考えながら、「激動の昭和時代を客観的に見直す」と題する連載記事を書き進めて行きたいと思います。
連載第一回は戦前の軍事技術が戦後の工業発展を成し遂げたという考えを記します。
簡略に書けば戦前の軍用機の製造技術が戦後日本の自動車製造や新幹線車両製造技術を支え、日本を世界の一流の工業先進国にしたのです。
軍用機製造で一番重要な技術はどんな悪条件でも絶対に回り続けるエンジンを製造する精密機械工作技術です。
絶対に故障しないエンジンを作り、故障しない操縦装置を作れる技術者にとって故障しない自動車や新幹線の車両を作ることは容易なことです。
新幹線ではエンジンの代わりに絶対に故障しない強力な電動モーターを作製すれば良いのです。そして急速に車両を止めるブレーキを開発すれば良いのです。
この製作技術の中心は精密機械加工の技術と強靭な鉄鋼材料を作る技術です。
強靭な鉄鋼材料を作る技術は戦車や軍艦の装甲板を作る技術として発達していたのです。それは広島県の呉にあった帝国海軍呉製鋼所にあったのです。北海道の室蘭にあった日本製鋼所にも強靭な鉄鋼材料を製造する技術があったのです。
下に軍用機を25,800機も作った中島飛行機株式会社の軍用機の写真を示します。
・イラストの出典は、http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/です。
中島飛行機株式会社は1917年に彗星のように現れ、燃え上がるように成長し、通算25、804機の軍用機を大量生産し、1945年の終戦とともに煙の如く消えてしまった会社です。
その発展と各工場での生産活動の様子は多くの日本人の記憶から消えてしまいました。しかしその技術は富士重工のスバル360へと直結し、戦後日本の自動車産業のいしずえとなったのです。
そして下にはスバル360と新幹線の写真を示します。
(写真の出典は、http://plus.himote.in/rank/span:day/date:1379084400です。)
(写真の出典は、http://plaza.rakuten.co.jp/izuheoideyo/diary/201011280000/です。)
第二次世界大戦の日本人の300万人の犠牲者のことを想うと昭和時代を手離しで高く評価できませんが、その時代の軍用技術が戦後の日本の工業の発展を支えた事実はもっと肯定的に認めるべきではないでしょうか。
それこそが激動の昭和時代を客観的に見直す態度であると信じています。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)