後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「都立光が丘公園」のイチョウの黄葉をお楽しみ下さい

2013年11月20日 | 写真

今日は家内と一緒に練馬にある「都立光が丘公園」の銀杏の黄葉の写真を撮ってきました。丁度見事な黄金色になり、秋の陽射しが降りそそいでいたので華麗な景観が楽しめました。

広い駐車場もありますので、是非一度お出掛けになってみて下さい。

 


人間60歳になったら自分の墓を作るべき・・・作らない人は怠慢

2013年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム

老境に入ると人々はなんとなくお墓のことをボンヤリ考えるようになります。

お釈迦様は墓など作らずに自分の遺骨は野に打ち捨てよと言ったのです。

キリストはお墓を作れとは言わないで、代わりに信仰を守り死後に神に召されるようにしなさいと言いました。

しかし何処の国の人も墓を作ります。

日本では、「私は無宗教だからお墓など要らない」と冷やかに、しかし自慢げに言い放つ人がいます。

しかし墓を作らずに死ぬと困るのは子供達や友人たちです。生前の付き合いを思い出すと、どうしてもお墓詣りをしたくなります。

それが自然の人情というものです。先祖代々の墓がある人はそこに入ります。しかし故郷が遠い人は容易に行けません。

ですから自分の墓を作らないで死ぬ人は怠慢のそしりをまぬかれ得ません。少なくとも豊かになった日本では容易に墓を作れます。

高齢になったらお墓を自分で早めに作るのが社会的義務と思います。私個人はそのように思っています。

最近、天皇陛下と美智子さまが多摩御陵の中に小さめの陵を作るという計画を発表しました。良いことです。安堵しました。

しかし墓を作りたくても作れない人々がいるのも現実です。

 

今日はその極端な一例として不運にも日本で客死した外国人のお墓について書きます。

遠く異郷のはてで亡くなった外人たちの墓地は誰が作るのでしょうか?それは縁もゆかりも無い善意の日本人が作るのです。

私はそのような外人墓地の風景を感慨深く眺めます。

遺族は来ませんが日本人が供養しているのです。そして、不運にも異郷の地で果てた人々の冥福を私も祈っています。

下に、田(アメリカ水兵5人、ロシア水兵3人)、函館(ロシア人)、横浜(イギリス人多数、他)の外人墓地の風景写真を示します。

下田の外人墓地は日本で初めての欧米人の外人墓地になります。

外人墓地といえば普通欧米人の聖職者でない人々の墓地のことです。聖職者の墓地は別にあります。

ちなみに中国人や百済、新羅、高句麗の人々の墓地は外人墓地とは言いません。埼玉県の高麗郡にある高麗王の墓地は古いほうです。高麗王は戦いに敗れ、日本へ亡命し、大和朝廷から埼玉県に領地を貰ったのです。

そして唐の僧、鑑真のお墓は何処にあるのでしょう。唐招提寺にあるのでしょうが、私は参りませんでした。

外人墓地を見るたびにいろいろと考えさせられます。何故かとても悲しい、切ない気持になるのです。

下に示した写真は全て私自身が撮った写真です。

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下田の玉泉寺にはアメリカ水兵5名(上)とロシア水兵3名(下)の墓があります。(上の写真)

そして、下は函館のロシア人墓地です。正教徒の日本人のお墓も隣にあります。

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下は横浜の山の手にある外人墓地です。主にイギリス人ですが、他の国の人々も一緒に眠っています。

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そして下は日本へ亡命した高麗王の墓です。

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上の数枚の写真に示したような外国人のお墓をみると、日本人の優しさが誇らしく思います。

それこそが日本人が世界に対して自慢すべきことと思います。

私は老人になり最近は体が固くなり山登りやヨットが出来なくなりました。

そうすると自然に気が弱くなり、人々の優しさが理解できるようになったのです。

昨日も、男の本当の優しさを体験しました。と題する記事を書いたのです。

「自分のお墓は自分で造るべし」という題目で書き出したのですが、話がそれてしまいました。もう書くのはこれで止めます。お許し下さい。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=====参考資料:高麗王の墓===============

朝鮮半島にあった高句麗が新羅と唐の連合軍によって668年に滅ぼされました。その時、使者として日本に居た王族の若光は帰国できなくなり、日本へ亡命しました。

703年に文武天皇から従五位下に叙せられ、高麗王の姓を賜はりました。この事は続日本書記に明記してあります。

そして13年後の716年に大和朝廷は武蔵国に新たに高麗郡を作り、高麗王をそこの郡司に任命しました。高麗王は高句麗から従って来た1799名の家来を連れて高麗郡に移住しました。

高麗郡は現在の埼玉県西部から東京都の多摩地方にまたがっています。

高麗王の部下に農産物の増産を指導する人もいたらしく高麗郡は豊かになったそうです。そして無理な増税は強制しなかったようです。要するに大変評判の良い統治をしたのです。

高麗王は武蔵国の高麗郡に移住する前は神奈川県の大磯を治めていました。そこでも評判が良く、高麗郡へ去ったあと大磯の人々は高麗寺(現在は廃寺)と高来神社を作りました。

兎に角、大磯でも高麗郡でも高麗王は農民を大切にする善い政治をしたのです。

その高麗王、若光は一度も朝鮮へ帰ることが出来ませんでした。故郷から遠く離れた異境の土になったのです。

高麗王の没後、三男の聖雲が、現在の聖天院を建立し、一族の菩提寺にしたのです。

聖天院の後には高麗神社があり高麗王、若光が祀られています。そしてその神主は代々、現在に至るまで高麗王の子孫が務めて来ました。

朝鮮から亡命した王様が日本の武蔵国の高麗郡を見事に治め、現在も人々に慕われているのです。少し話をした住職さんの大黒さん(奥さん)が若光さんのお墓も忘れないで拝んでいって下さいと言いながら場所を教えてくれました。

時空を超えた、何か大きな歴史ロマンを感じながら境内の写真を撮って来ました。(終わり)