大型客船が接岸できる桟橋は1889年に建設が始まりました。そして1894年には現在の大桟橋の前身の「鉄桟橋」が完成します。その後、拡張工事が行われ1913年には幅43m、長さ738mの桟橋が完成します。
それ以来、横浜港は外国航路の拠点になり、日本郵船や大阪商船などの表玄関になります。そして外国の海運会社も欧州航路とアメリカ航路の定期便を運航していたのです。この期間が横浜港の一番はなやかな時代だったのです。
その詳細は末尾の参考資料に示しました。
戦後もメリケン波止場として、下の写真のように日本郵船の氷川丸などが北米などへ出航していたのです。
当時は外国に行く人をこのように盛大に見送ったのです。ひょっとするともう二度と会えないと考えている人も多かったのです。
この氷川丸も旅客機の普及で1960年に就航を止め、現在は山下公園に係留され公開されています。
1960以後は旅客機の時代になり大桟橋は淋しい所になります。特に貨物船はコンテナ船になり大黒ふ頭のようなところへ去ってしまったのです。
ところが1990年代になると豪華客船が流行になり、大桟橋が再び脚光を浴びるようになったのです。
そこで横浜市は斬新な桟橋の設計を公募することにして、世界中へ呼びかけました。それは2002年のことでした。
その公募には660件の応募があり、その中から最優秀作品としてイラン生まれのファッシド・ムサヴィさんという女性とスペイン生まれのアロハンドロ・ザエラ・ポロさんという男性の2人の合作による設計が優勝したのです。
その設計図にしたがって建設されたのが現在の大桟橋です。
その桟橋は実に独創的な構造になっていて散歩していると自然に屋上に上がって行きます。そして青い海が見え、その向こうに横浜の美しい街々が見渡せるのです。
客船の岸壁という機能と市民の憩いの海上公園としての機能をあわせ持った楽しい場所です。
一階は広大な駐車場になっているので私も何度も散策に行きました。下にその大桟橋関連の写真をしめします。
まず設計者のファッシド・ムサヴィさんとアロハンドロ・ザエラ・ポロさんの写真を示します。
彼等の履歴は、http://www.osanbashi.com/outline/designer.htmlにあります。
下は大桟橋の全景です。
(写真の出典は、http://shige-f.blog.so-net.ne.jp/2009-09-23です。)
下には桟橋の突端部部に草が植えてあって公園になっている様子を示します。
この桟橋は徹底的に木造になっています。下にその屋上部分の様子をしめします。
(写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E3%81%95%E3%82%93%E6%A9%8Bです。)
下はこの桟橋の屋上から見た街の風景です。私が撮った写真です。
この大桟橋は入場無料の公園です。係留されている船に乗り込むのは禁止ですが、その他は自由に散歩できます。
一階の広大な駐車場は有料です。
とにかく素晴らしい場所なので一度お出かけになって下さい。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和(藤山杜人)
====参考資料:「大さん橋」================
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E3%81%95%E3%82%93%E6%A9%8B)
抜粋文を以下に示します。
こうして鉄桟橋は外国航路の貨客船における日本の主要拠点となり、当時の日本郵船、東洋汽船、大阪商船など日本海運業界の表玄関の一つとして利用され、外国海運業界の外国定期航路の拠点として活躍した。欧州航路では英国P&O、北ドイツ・ロイド、フランス郵船、北米航路では米国太平洋郵船、カナダ太平洋汽船、アメリカンプレジデントライン等が定期航路を敷くようになった。新港埠頭が完成すると、外国航路の一部を移譲した。新港埠頭4号岸壁は日本郵船の北米航路が使用し。9号岸壁は欧州航路が接岸する等鉄桟橋の負荷を緩和させた。鉄桟橋は外国籍船と日本郵船のシアトル航路が発着するようになった。新港埠頭4号岸壁からは、太平洋戦争後もシアトル航路に復帰した日本郵船の氷川丸が発着を続けた。しかし氷川丸は1960年に最終航海を終了させるに伴い新港埠頭の旅客業務も終了した。
(中省略)
太平洋戦争終結により大桟橋は連合国に接収され、サウスピアと改称された。降伏調印の為に米国戦艦ミズーリ号に向かった重光外相も大桟橋から小型船に乗船している。連合国も当初GHQを置いたのも大桟橋に程近いホテルニューグランドであり、大桟橋が時代の節目で日本の歴史に深くかかわることが横浜の開港以来の宿命を如実に表している。大桟橋は1952年2月15日に接収解除となり、北米定期航路にはアメリカン・プレジデント・ラインの「プレジデント・ウィルソン」や「プレジデント・クリーブランド」、欧州航路にはP&Oの「チューサン」やオリエントラインの「オロンセイ」などが就航し、日本郵船の氷川丸がシアトル航路に復活するなど、第二の往事を迎えた。また移民船として「ぶらじる丸」、「あるぜんちな丸」等が就航し、1960年代初頭までの第二の南米移民ブームを支えた。また、またのちに、ナホトカ定期航路も開設され、その低価格による欧州渡航が人気を博した。この頃の氷川丸でフルブライト留学生として渡米した人々も少なくなく、また宝塚歌劇団の渡米にも利用された。(以下省略)