2009年の11月のある日、多摩川上流沿いの道を車でゆっくり走っていました。紅葉の写真を撮ろうと彼方此方見回しながら走っていました。
青梅の町から西へ入ったところに 、たたずまいの良いお寺が高台の上に建っています。写真を撮り、案内板を見ました。
青梅市一帯は南北朝の頃から三田氏という豪族が治めていたのです。直感的にこの三田氏は後北条氏一族に殺されたと思いました。
戦国時代の関東地方は北条早雲一族の所謂、後北条氏が占領してい筈です。
案内板の後半を読んで納得しました。
1559年に北条 氏照 に三田一族は殺されてしまったのです。この海禅寺は三田一族の菩提寺だったのです。その関係で後の人が立派な供養塔を寺の裏山の斜面に建てました。
皆死んで居なくなった後でも、山は変わらずに寺の後を包むように守っています。前には青梅の町が広がっていました。
三田氏を殺してしまった北条 氏照の最初に居た城は滝の城といって野火止めの地にありました。
野火止めは八王子城と北関東の中間にある重要な場所です。
しかし甲府の武田信玄一族は高尾山や奥多摩の山々を越えて関東平野に出ようと小競り合いを仕掛けてきます。そこで氏照はこの滝の城を部下に任せ高尾山近くの八王子城へ移ります。
下の写真は野火止めの地にあった滝の城の本丸跡に建っている城山神社です。高台にあるので南の平林寺方向は見晴らしが良いです。
このように一時は東京の周りを広く占領していた北条氏照も天正18年、1590年の秀吉による小田原城の落城の直後、殺されてしまいます。滝の城も八王子城も、とにかく関東一円の小さな城の全てが落城し、秀吉一派の占領するところになったのです。
江戸時代になると徳川家康は関東一円の全ての城を直轄領にしてしまったのです。武田信玄の居た甲府城も直轄領にしたのです。
現在から考えると日本人同志が互いに殺し合うという残酷な時代だったと怖くなります。ちょっと注意してお寺や神社の説明文を読むと地方の歴史が書いてあります。皆様の住んでいらっしゃる地方はどのような歴史があったのでしょうか?(終わり)
=========海禅寺の概略==============
開山は1400年代(室町時代)。
この地域の豪族、三田氏の厚い保護を受けていた。
裏山の辛垣山の山頂には辛垣城(からかいじょう)があった。
1563年(永禄6)(戦国時代末期)に三田氏が滅亡した際、兵火により海禅寺の建物も焼失した。
その後再建するが数度の罹災があり、近年では1984年(昭和59)に本堂、庫裏が焼失している。
横の小山がツツジ園になっている。
この付近の地名「二俣尾」は、かつては「二又尾」と書かれ、旅人が奥多摩方向と秩父方向(埼玉県)へ向かう分岐点だった。
J.M.バーダマン著「アメリカ黒人の歴史」NHK出版という本は新しい視点に立ったアメリカの歴史書です。
従来、アメリカの歴史書でまったく無視されていたアフリカ系黒人のアメリカ社会への貢献やその文化史的検討が総合的に公平な立場で書かれた画期的な出版です。
15世紀にアフリカへ渡ったポルトガル人がヨーロッパでアフリカ人奴隷の貿易を始めたのは1441年といいます。
そして1565年にはオランダ船に乗ったアフリカ人奴隷がフロリダに到着するのです。1644年にはアメリカから黒人奴隷の輸入のための船がアフリカへ派遣されます。それ以来、アフリカで奴隷狩りにあった黒人達が陸続として南部の農園地地帯に輸入され、その地の農業の発展に大きく寄与しました。
南北戦争後は数多くの奴隷が南部から北部へ移動して工場労働者としてアメリカ工業の発展に大きく寄与したのです。
しかし、黒人への差別と理不尽な取り扱いは20世紀の末まで続いたのです。あまりにもむごい仕打ちです。凄まじい人種差別を経験したことのない日本人が見たら、胸の潰れるような差別と圧迫だったのです。
アメリカは進歩的なキリスト教国です。カトリック教徒も多いのですが、おもにプロテスタント宗派のキリスト教国です。しかし黒人への差別と非人間的な取り扱いが1565年から2000年近くまで、実に400年以上も続いたのです。
宗教の無力さを思うと残念で仕方がありません。
バーダマン著「アメリカ黒人の歴史」NHK出版をご推薦いたします。
お読み頂いて、人類の残酷さや愚かさを絶対に忘れないようにして頂きたいと思います。
以下に私自身がアメリカで実体験した黒人差別の記述を掲載します。2008年2月6日に掲載した記事の抜粋です。
====私が実地で体験したアメリカ黒人差別の凄まじい実態======
◎50年前のアメリカの黒人差別の実状
1960年から二年間、オハイオ州の州都コロンバス市に住んだ。バスに乗ると、白人は前半分の席、黒人は仕切りの後ろ。遠慮して黒人の席に座ったら、白人男性が寄って来て、君は前半分に座れと言う。それ以来、白人席の末席に座る。
コロンバス市の南半分は黒人街、北半分は白人が住む場所と厳格に分かれていた。白人街にある映画館やレストランは白人専用で、黒人はよほどのことがない限り立ち入らない。
オハイオ州立大学には黒人学生がいたが、その数は圧倒的に少ない。教授は皆白人である。実験室の掃除人はメキシコ人で、黒人はいなかった。差別に心が痛み暗い気持ちになる。
しかし、黒人をこの芝居の黒子と思えば黒人が見えなくなる。
慣れてしまうと実にそれほどは胸が痛まない。
アパート代の安い黒人街の物件を見に行った。案内の黒人女性は柔和で親切である。アパートも当時の日本の住宅事情に比較すると上等だ。
引っ越そうとして大学の白人学生に相談した。ものすごい勢いで反対される。黒人は親切だが、貧しい親戚がしょっちゅう君のアパートに来て食べ物をねだる。勉強なんかできないと言う。反対の理由はそれだけでないようだ。黒人差別の秩序が壊れるのも反対理由である。
アメリカは自由と平等の国というが、50年前には凄い黒人差別が厳然としてあった。
@黒人差別克服への努力、そしていろいろな試みの挫折
その後、ベトナム戦争があった。黒人兵は危険な最前線に出て活躍したという。国内では黒人差別撤廃の公民権運動が盛り上がる。
リーダーは、後に白人に暗殺されたキング牧師。師の亡くなった日を哀悼の休日とする州が数多いが、オハイオ州も全官公庁・学校が休みになる。
1990年前後にもコロンバス市に二年間住んだ。バスの白人席と黒人席はなくなり、皆一緒に座っている。オハイオ州立大学も黒人学生が随分と増えていた。周辺レストランの客席に区別はなく、混じって座っている。
同僚のR教授とビールを飲みながら、「30年経って住んでみると、黒人差別がなくなっているので驚いた」と言うと、R教授は「先祖の犯した罪は子孫が償う。公共の場所での差別はなくなった。しかし、居住地は相変わらず南と北に分離されている。黒人学校と白人学校は依然存在している」。
R教授は悩ましそうにしている。「表面的な差別は撤廃できるが、心の中の差別は簡単になくならない」と続ける。「でも、先日、白人と黒人の若者が一緒に楽しそうにバーベキューをして騒いでいたが…」「そのような慈善活動をする若者グループが多くあり、混合ダンスパーテイなども実行する。しかし、帰る家は別々の住宅街にある」。
コロンバス市では、黒人小学校と白人小学校の児童分布を平等にするため、毎日、バスを黒人街へ迎えに行かせ、白人小学校へ送り込む。白人住宅地域へもバスを送り、その逆を行う。こうしたバス送迎を徹底し、白人と黒人の児童が完全に交じり合った教育を三年間続けた。
しかし、黒人学校は特有の教え方と遊び方がある。それは白人学校の教育や友達同士の付き合い方と異なる。大人の偽善的な試みの犠牲になるのは両方の生徒である。この試みは両方の反対に遭い挫折した。
1990年以後にもアメリカ各地を旅行した。
色々聞くと、どの会社も黒人を一定割合以上採用しなければならない。
テレビ・マスコミも黒人差別撤廃のキャンペーンを繰り返す。白人だけの高級住宅地区へ黒人も混じって住んでいる。
黒人市長があちこちで現れる。
そして2000年代になって黒人女性のライス国務長官が活躍する。
4年前には大統領として黒人のオバマ氏が就任したのです。
公民権運動のさなか銃弾にたおれたキング牧師は喜んでいるに違いありません。
それにしても400年にわたる黒人の徹底的な差別の歴史はアメリカ合衆国の暗黒面です。宗教の無力さを思うと粛然たる気持ちになります。
人類の文明は進歩しますが人間性の進歩があまりにも遅いのです。いつまでも、いつまでも黒人の奴隷狩りと奴隷制度の事実を忘れないで、完全に人種差別の無い世界が来ることをお祈りいたします。
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それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)