後藤和弘のブログ

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ヨーロッパ文化の闇(3)ハプスブルグ家の異常な領土欲と近親結婚の悲劇

2013年11月01日 | 日記・エッセイ・コラム

人類の歴史で武力で広い領地を平定し、王国を作った例は枚挙に暇がありません。戦い抜いて勝利の後、王国をつくるのですから分かりやすい歴史です。その上自分も敗れるリスクがあるのですから文字通り命がけです。善悪は別にして、それは男らしい爽快な態度です。

しかし結婚と策略を利用して領土を広げ、幾つもの王国を作り、その王達の生殺与奪の権力を手中に収める一家があるのです。本来なら純粋であるべき男女の愛を領土拡大や権力取得に何百年間も利用したのですから、それは「ヨーロッパ文化の闇」と言わざるを得ません。

ヨーロッパの歴史でそのような一家はウイーンのハプスブルグ家とフィレンツェのメジチ家です。メジチ家はルネッサンスの芸術家を援助したので日本では善玉になっていますが、一方ではハプスブルグ家と組んでローマ教皇の座を奪ったりし、フィレンツェの政治権力を欲しい侭にしました。ですから私はメジチ家も「ヨーロッパ文化の闇」と考えています。

この2つの家だけが有名なのは王様の権力の以上の権力を握っていたからです。

分かりやすい例を上げます。イギリスの王室はウインザー家でスペインの王室はブルボン家ですが、王に就任した人がウインザー家やブルボン家のどの家族よりも絶対的な権力を持つのです。これが普通です。

ところがハプスブルグ家の当主はその広大な領地内の幾つかの王国の王様たちより権力があるのです。その王位継承権をハプスブルグ家が握っているのです。

これは日本人にとって理解しにくい事情です。何か陰惨な雰囲気がまとわりついています。

それではハプスブルグ家の領土はどのくらい大きかったかを下の地図で示します。

Habsburg_map_15471

上の図は、1547年時点でのハプスブルク家の領土http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E5%AE%B6です。

ハプスブルグ家はオーストリアを中心にした領土とスペインを中心にした領土に別れていました。

そして中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の指名権、継承権を握っていたのですから驚きです。

現在も、最後の皇帝カール1世の子孫は婚姻によりスペインベルギールクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性すらあるのです。

そしてこの一家の本拠地はウイーンのシェーンブルン宮殿にありました。下にその写真を示します。

Wien_schoenbrunn_rueckseite1

上はシェーンブルン宮殿http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%B3%E5%AE%AE%E6%AE%BFです。

そして多くの王国(公国や帝国を含む)の連合として、1526年から1804年まで「ハプスブルグ君主国」が存在したのです。

その歴史は複雑怪奇で、頭の悪い私には理解出来ません。ご興味のある方は末尾に付けた参考資料をご覧ください。

ハプスブルグ家が何故か暗い印象を与えるのは領土拡大に結婚を利用したことです。そしてその領土が他人へ相続されないように近親結婚を繰り返したことです。それは領土のために個人の自由を踏みにじる行為でした。

「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によって所領を増やしていったのです。
そして近親結婚で領地を確保したのです。マリア・テレジアの例はよく知られています。

そのため、叔父と姪やいとこ同士(二重いとこの場合もあった)という血族結婚を数多く重ね、一族外に所領が継承される事態を防ごうとしたのです。その結果、17世紀頃には誕生した子供の多くが障害を持っていたり、幼くして死亡するという事態が起こったのです

カール5世以降、下顎前突症の人物が一族に多くなっており、カール5世は不正咬合により食事は丸呑み状態であったことが伝えられています。

特にスペイン・ハプスブルク家ではカルロス2世のような虚弱体質・知的障害を併せ持った王位継承者を誕生させ、スペイン王位をブルボン家に渡すこととなったのです。

そのブルボン家も血族結婚を古くから重ねており、ブルボン家とハプスブルク家の間で頻繁に婚姻が行われるようになると、双方で夭折したり、成人に達しても身体に障害を持った人物が続出したのです。

その一方、ハプスブルク家には強固な当主の概念があったため、外戚に家を乗っ取られることも、また一族内で争いが起こることも非常にまれであったと言います。

ハプスブルグ家の事情は何かどろおどろしい雰囲気につつまれています。やはりこれも「ヨーロッパ文化の闇」の一つではないでしょうか。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===========参考資料=================

ハプスブルク家(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E5%AE%B6(ドイツ語: Haus Habsburg)は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の家系となった。また、後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の皇帝位を中世以来保持し、その解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一ドイツ帝国から排除されるまで、形式的には全ドイツ人の君主であった。ヨーロッパ随一の名門王家と言われている。

ハプスブルク君主国(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E5%90%9B%E4%B8%BB%E5%9B%BD(ハプスブルクくんしゅこく、ドイツ語: Habsburgermonarchie, 英語: Habsburg Monarchy)は、オーストリア系ハプスブルク家(のちハプスブルク=ロートリンゲン家)が君主として統治した国家の歴史学上の呼称である。

正確には「帝国」ではない時代もあるがハプスブルク帝国(ドイツ語: Habsburgisches Reich,英語: Habsburg Empire)とも呼ばれる。成立年はハプスブルク家がオーストリア大公領に加えてハンガリー王国、ボヘミア王国を獲得した1526年とされる。1804年までは公式の名称を持っていなかったが、同時代の人々ですらこれを事実上の国家として認識し、オーストリア(ハプスブルク家をオーストリア家ということから)と呼称していた。1804年から1867年はオーストリア帝国(「オーストリア家の帝国」という意味)、1867年から1918年はオーストリア=ハンガリー帝国(「帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」)を総称とした。

ハプスブルク君主国の領域は、大きく分けて以下の3つから形成されていた。

ハプスブルク家世襲領
ハプスブルク家の所領とされたのは、現在のオーストリア、スロベニア、イタリア北部、ラインラント(1797年まで)である。ナポレオン戦争の過程でこれらの領土の多くが一旦は失われたが、ウィーン会議(1814年)によって多くを回復し、さらにザルツブルク大司教領を加えた。
ベーメン王冠領
ベーメン王国領はベーメン(ボヘミア)、メーレン(モラヴィア)、シュレージエン(シレジア)、ラウジッツからなっていた。ラウジッツは1620年にザクセン公国へ割譲され、シュレージエンはオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)の結果プロイセン王国に奪われた。
ハンガリー王冠領
ハンガリー王国はモハーチの戦いの後、北西部の3分の1がハプスブルク家、東南部と中部の3分の2がオスマン帝国の支配下に入った(オスマン帝国領ハンガリー)。オスマン帝国の衰退とともに、1699年のカルロヴィッツ条約で旧ハンガリー王国の領域の大部分がハプスブルク家へ割譲された。ハンガリー王国領とされた地域は、現在のハンガリー、スロバキア、クロアチア、ヴォイヴォディナ、トランシルヴァニア、ルテニアのカルパチア地方が含まれていた。オスマン帝国と接する最前線は、軍事上の必要性からウィーン政府による直轄支配とされた。

 

これら以外に歴史上、以下の地域がハプスブルク君主国の領域となった。

南ネーデルラント (現在のベルギーとルクセンブルク、1713年 - 1792年)

ミラノ公国(ロンバルディア、1713年 - 1797年)

ナポリ王国(1713年 - 1735年)

サルデーニャ王国 (1713年 - 1720年)

トスカーナ大公国 (1737年- 1860年)

バナト・テメスヴァル (1718年 - 1778年)

セルビア (1718年 - 1739年)

ボスニア (1718年 - 1739年)

オルテニア (1718年 - 1737年)

シチリア王国 (1720年 - 1735年)

パルマ公国(1735年 - 1748年)

ガリツィア・ロドメリア王国 (現在のポーランドとウクライナの一部、1772年 - 1918年)

ブコビナ (1774年 - 1918年)

ヴェネツィア(1797年 - 1805年, 1814年 - 1866年)

ダルマチア(1797年- 1805年, 1814年 - 1918年)

ロンバルディア (1814年 - 1858年)

ホルシュタイン (1865年 - 1866年)

ボスニア・ヘルツェゴビナ (1908年 - 1918年)