最近、三回ほどイギリスのEU離脱問題を話題にした記事を書きました。
そうしたらある方から以下のようなコメントを頂きました。「もうイギリスのEU離脱も昔の話です。ダッカでのテロも新聞紙上を賑わさなくなりました。老人にとって大切なのは家庭菜園のトマトの成長だと思います。」
このご意見にしたがうと、高齢者にとっては、日常の生活をどのように暮らすかということが一番大切になります。
そこで今日は、トマトがうまく成らなかったら、それをあっさり あきらめてキューリを植えれば良いという日常生活の心の在り方を考えてみたいと思います。
そういう生活を私は「諦観の日常生活」と言います。
辞書をひくと諦観とは悟りあきらめることで超然とした態度をとることと書いてあります。
何故この態度を後期高齢者に薦めるのでしょうか?
理由は簡単でその年齢になると誰でもこの諦観の境地になりやすくなるからです。そして諦観の境地になると全ての心配事が無くなります。幸せになります。
ですから毎日の日常生活を諦観の境地で笑って楽しく過ごすのが良いと思います。
それでは諦観の境地になるための具体的な考え方を書きます。
(1)朝起きたら生きていることを喜びます。
(2)朝から今日の3食に、どのような美味しいものを食べようと真剣に考えないことです。冷蔵庫にある魚や肉を上手に料理すれば美味しい食事が出来ます。冷蔵庫に何もなければウドンやソーメンを茹でて、出汁を工夫して美味しく食べます。
(3)子供や孫がさっぱり遊びに来なくても諦めて愚痴を言わずに平穏な気持ちになります。
(4)病院へ行くのが嫌でもそれが老人のたった一つの義務だと諦めて、ハイキングに行くような楽しい気分で気軽に出かけます。
(5)夫や妻が先に逝ってしまってもあきらめて、楽しい思い出だけを大切にして暮らします。
その他いろいろありますが何事も若い時のように高望みをしないで身の回りにあるものだけを工夫して使い平穏な気持ちで過ごすのです。
さて先日、達観の境地の具体的なあり方を書きました。そうしたら多くの高齢者から達観の境地を楽しんでいますというコメントを頂きました。
そしてある方が言っていました。達観の境地とはある程度、充実した人生を送った人のことではないでしょうか。私は諦観の境地ですというコメントを頂きました。達観でも諦観でも雑に言えば同じようなものです。毎度、雑ですみません。
そこでいろいろ深く考えています。
達観も諦観もお釈迦様の教えた「悟りの境地」と同じようなものです。
ある国際的な統計によると、日本人は外国の諸国と比べると宗教を信じている人が非常にに少ないのです。
仏教は1000年以上も日本に存続していますが、現在は、意識的に仏教を信じようとする人が少なくなっているようです。
あなたは仏教徒ですかと聞くと、いや信じてはいませんが、お寺さんとお付き合いはしていますという答えも返ってきます。
ですから多くの人が仏教とは関係無く達観や諦観の境地に入ろうとしているのかも知れません。それが仏教の悟りの境地と同じようなものだと意識していないのです。勿論。意識している人もいますが。
意識していないとしたら仏教は知らず知らずのうちに日本人の心に大きな影響を与えていると言えます。
日本が仏教国だと欧米人がよく言います。私も何度も聞きました。何故ですかと聞き返すと全国にお寺がいっぱいあります。巨大な仏像や観音像が立っています。そして日本人が行動を決める時、必ずのように仏教の影響を受けています。ですから仏教国だと言うのです。
今日の私の主張は、特に新しいものではありません。日本は正真正銘の仏教国だという主張です。この主張が仮に正しいとすれば、後期高齢者が諦観の日常生活を幸せに送ることは自然なことと思います。
私自身は諦観の毎日ではありません。ときどきその真似事をしているだけです。
実はキリスト教にも悟りの境地に近い教えがあります。野山を嬉々として飛んでいる小鳥たちには何の心配事がありません。神様が良いようにしてくれるのです。この世の欲望を捨てて神様やイエスさまへ全てを任せなさいと教えています。わたしはこれが悟りの境地だと独りで合点しています。これから参議院の投票をして、ミサへ行きます。
今日の挿し絵の写真は相模湖のそばでフラリと寄った善勝寺の写真と小金井の真蔵院のハスの花の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
そうしたらある方から以下のようなコメントを頂きました。「もうイギリスのEU離脱も昔の話です。ダッカでのテロも新聞紙上を賑わさなくなりました。老人にとって大切なのは家庭菜園のトマトの成長だと思います。」
このご意見にしたがうと、高齢者にとっては、日常の生活をどのように暮らすかということが一番大切になります。
そこで今日は、トマトがうまく成らなかったら、それをあっさり あきらめてキューリを植えれば良いという日常生活の心の在り方を考えてみたいと思います。
そういう生活を私は「諦観の日常生活」と言います。
辞書をひくと諦観とは悟りあきらめることで超然とした態度をとることと書いてあります。
何故この態度を後期高齢者に薦めるのでしょうか?
理由は簡単でその年齢になると誰でもこの諦観の境地になりやすくなるからです。そして諦観の境地になると全ての心配事が無くなります。幸せになります。
ですから毎日の日常生活を諦観の境地で笑って楽しく過ごすのが良いと思います。
それでは諦観の境地になるための具体的な考え方を書きます。
(1)朝起きたら生きていることを喜びます。
(2)朝から今日の3食に、どのような美味しいものを食べようと真剣に考えないことです。冷蔵庫にある魚や肉を上手に料理すれば美味しい食事が出来ます。冷蔵庫に何もなければウドンやソーメンを茹でて、出汁を工夫して美味しく食べます。
(3)子供や孫がさっぱり遊びに来なくても諦めて愚痴を言わずに平穏な気持ちになります。
(4)病院へ行くのが嫌でもそれが老人のたった一つの義務だと諦めて、ハイキングに行くような楽しい気分で気軽に出かけます。
(5)夫や妻が先に逝ってしまってもあきらめて、楽しい思い出だけを大切にして暮らします。
その他いろいろありますが何事も若い時のように高望みをしないで身の回りにあるものだけを工夫して使い平穏な気持ちで過ごすのです。
さて先日、達観の境地の具体的なあり方を書きました。そうしたら多くの高齢者から達観の境地を楽しんでいますというコメントを頂きました。
そしてある方が言っていました。達観の境地とはある程度、充実した人生を送った人のことではないでしょうか。私は諦観の境地ですというコメントを頂きました。達観でも諦観でも雑に言えば同じようなものです。毎度、雑ですみません。
そこでいろいろ深く考えています。
達観も諦観もお釈迦様の教えた「悟りの境地」と同じようなものです。
ある国際的な統計によると、日本人は外国の諸国と比べると宗教を信じている人が非常にに少ないのです。
仏教は1000年以上も日本に存続していますが、現在は、意識的に仏教を信じようとする人が少なくなっているようです。
あなたは仏教徒ですかと聞くと、いや信じてはいませんが、お寺さんとお付き合いはしていますという答えも返ってきます。
ですから多くの人が仏教とは関係無く達観や諦観の境地に入ろうとしているのかも知れません。それが仏教の悟りの境地と同じようなものだと意識していないのです。勿論。意識している人もいますが。
意識していないとしたら仏教は知らず知らずのうちに日本人の心に大きな影響を与えていると言えます。
日本が仏教国だと欧米人がよく言います。私も何度も聞きました。何故ですかと聞き返すと全国にお寺がいっぱいあります。巨大な仏像や観音像が立っています。そして日本人が行動を決める時、必ずのように仏教の影響を受けています。ですから仏教国だと言うのです。
今日の私の主張は、特に新しいものではありません。日本は正真正銘の仏教国だという主張です。この主張が仮に正しいとすれば、後期高齢者が諦観の日常生活を幸せに送ることは自然なことと思います。
私自身は諦観の毎日ではありません。ときどきその真似事をしているだけです。
実はキリスト教にも悟りの境地に近い教えがあります。野山を嬉々として飛んでいる小鳥たちには何の心配事がありません。神様が良いようにしてくれるのです。この世の欲望を捨てて神様やイエスさまへ全てを任せなさいと教えています。わたしはこれが悟りの境地だと独りで合点しています。これから参議院の投票をして、ミサへ行きます。
今日の挿し絵の写真は相模湖のそばでフラリと寄った善勝寺の写真と小金井の真蔵院のハスの花の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)