最近の参議院の改選で改憲派が3分の2以上の議席を獲得しました。
第二次大戦による悲惨な体験をした人々は戦争に懲り懲りなので憲法改正に絶対反対です。このような体験をした年代の人々への深い同情を忘れるべきではありません。
しかし一方、第二次世界大戦以後の世界の各国の軍備技術の進歩と数々の戦争の歴史を現実的に考えている人々も少なからず居ます。その人々の考えによると日本の平和を守るために、憲法を改正し、自衛のための交戦権を明記すべしと主張しています。
以上の状況を勘案すると、現実的な平和主義者は憲法改正に賛成し、理念的な平和主義者は憲法改正に反対していると言えます。
日本は戦後71年間平和でした。
何故平和が続いたかと考えてみると2つの見方があります。
一つは理念的な平和主義者の考え方です。それによると日本には平和憲法があったので71年間の平和があったと言います。
もう一つは現実的な平和主義者の考え方です。戦後71年間、アメリカ軍が日本の各地に軍事基地を置き、駐留をして、日本を防衛していたから日本には平和が続いたと言います。
憲法改正は一朝一夕には出来ません。慎重な準備と議論をしてゆっくり進行すると考えられます。拙速は絶対に避けるべきです。
しかし最近にわかに憲法改正に関心を持つ人々が増え、インターネットの上で議論されています。
その議論を読んでみるとかなり感情的な意見が掲載されているように感じられます。
感情的な議論は絶対に建設的な結果を生みません。
そこで今日は、少しでも感情的な議論を避ける為に約2000年前の弥生時代の人々は戦争に対してどのような準備をしていたか考えてみましょう。
その為には弥生時代の代表的な遺跡の「吉野ケ里遺跡」の展示施設を見れば明快に分かります。
日本の弥生時代は地方によって違いますが、紀元前300年から紀元後300年までの600年間と言われています。そしてその後は古墳時代を経て大和朝廷の時代へと続くわけです。
佐賀県の「吉野ケ里遺跡」の展示施設を見ると人々の戦争に対しての準備施設が周到に用意されていたのです。
遺跡は稲作の始まった紀元前300年から紀元後300年にわたって造営された環濠村落で、数多くの建物は堀や柵で囲まれ、独立した小王国のような構造になっています。特に注目すべきは敵の襲撃に備えた堅固な柵、そして環濠を呼ばれる堀があることです。
その様子は原始的ながらも中世の城郭都市を彷彿とさせる構造になっています。その様子を下の数枚の写真で示します。
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この1番目の写真はまつりごとの行われていた北内郭の部分です。
出典は、http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=10 です。
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2番目の写真は復元された建物の写真です。
出典は、http://www.yado.co.jp/kankou/saga/sagasi/yosino/yosino.htmです。
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3番目の写真は政治の行われていた北内郭の遠景の写真です。北内郭を環濠と柵の外から撮った写真です。
手前の高床式の家と竪穴式の倉庫は食料の貯蔵庫と考えられます。
これらの写真と青森県の縄文時代の丸山三内遺跡と比較すると明快に次の2点が大きな違いです。
(1)青森の縄文時代は戦争が少なかったらしく、敵襲へ備えた環濠や堅固な柵が無かった。
(2)青森の建物群は非常に土俗的デザインで原始的な構造をしている。それに対して佐賀県の建物群は高床式の発展した高殿式構造を有し、中国大陸や東南アジアからの文化的影響が暗示されている。
その上、縄文文化は北東北から南北海道にかけて栄えたのに対して弥生文化は九州や西日本で始まっているのです。
稲作という大きな生産力のある農業が人口増加を生み、いろいろな手工芸や鋳物細工や鉄器製造の職人をそだてたのです。
生活に使用される道具も次第に石器から金属製へと変って行ったのです。土器のデザインも呪術的な装飾が姿を消し、実用的な簡素な形に変化して行きました。
縄文文化を支えたのがアイヌ民族で、弥生文化を支えたのが朝鮮や中国から移住してきた人々と原日本人が混血した人々と仮定すると判りが良いのです。
しかし事実はもっと、もっと複雑でアイヌ人も弥生文化を受け入れたのかも知れません。アイヌと原日本人の混血も進み、地方によってはその区別もなくなったのかもしれません。
さて戦争の為に備えた防御施設をもう少し詳しく見て見ましょう。以下の全ての写真の出典は、http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=10 です。
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上の4番目の写真は環濠の内部へ入る入り口の様子です。敵襲を防ぐ逆木や乱杭が恐ろしい印象を与えています。
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上の5番目の写真は人々の生活を支える畑作の様子を示す写真です。吉野ケ里遺跡ではまだ水田の跡は見つかっていませんが付近の湿地からは鍬などの農具が見つかっているの当然、稲作もされていたに違いないと考えられています。
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上の6番目の写真は居住区から離れた所にある墓地の航空写真です。
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上の7番目の写真は王の墳墓です。銅剣とガラスの管玉が副葬されていました。この墳墓の形は後の古墳時代の古墳の原型のように見えます。
これらの写真を見ると弥生時代から人々は戦争に悩まされていたのです。そして平和な時期でも敵襲に備えて堀を巡らせ、入り口には敵襲を防ぐ逆木や乱杭が作ってあったのです。
このような遠い昔の歴史を勘案しながら、決して感情的にならないでで現在の日本の自衛を考えるのが良いのでしょう。そしてそれに従って憲法もあせらずゆっくり変えて行くのが良いと思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
第二次大戦による悲惨な体験をした人々は戦争に懲り懲りなので憲法改正に絶対反対です。このような体験をした年代の人々への深い同情を忘れるべきではありません。
しかし一方、第二次世界大戦以後の世界の各国の軍備技術の進歩と数々の戦争の歴史を現実的に考えている人々も少なからず居ます。その人々の考えによると日本の平和を守るために、憲法を改正し、自衛のための交戦権を明記すべしと主張しています。
以上の状況を勘案すると、現実的な平和主義者は憲法改正に賛成し、理念的な平和主義者は憲法改正に反対していると言えます。
日本は戦後71年間平和でした。
何故平和が続いたかと考えてみると2つの見方があります。
一つは理念的な平和主義者の考え方です。それによると日本には平和憲法があったので71年間の平和があったと言います。
もう一つは現実的な平和主義者の考え方です。戦後71年間、アメリカ軍が日本の各地に軍事基地を置き、駐留をして、日本を防衛していたから日本には平和が続いたと言います。
憲法改正は一朝一夕には出来ません。慎重な準備と議論をしてゆっくり進行すると考えられます。拙速は絶対に避けるべきです。
しかし最近にわかに憲法改正に関心を持つ人々が増え、インターネットの上で議論されています。
その議論を読んでみるとかなり感情的な意見が掲載されているように感じられます。
感情的な議論は絶対に建設的な結果を生みません。
そこで今日は、少しでも感情的な議論を避ける為に約2000年前の弥生時代の人々は戦争に対してどのような準備をしていたか考えてみましょう。
その為には弥生時代の代表的な遺跡の「吉野ケ里遺跡」の展示施設を見れば明快に分かります。
日本の弥生時代は地方によって違いますが、紀元前300年から紀元後300年までの600年間と言われています。そしてその後は古墳時代を経て大和朝廷の時代へと続くわけです。
佐賀県の「吉野ケ里遺跡」の展示施設を見ると人々の戦争に対しての準備施設が周到に用意されていたのです。
遺跡は稲作の始まった紀元前300年から紀元後300年にわたって造営された環濠村落で、数多くの建物は堀や柵で囲まれ、独立した小王国のような構造になっています。特に注目すべきは敵の襲撃に備えた堅固な柵、そして環濠を呼ばれる堀があることです。
その様子は原始的ながらも中世の城郭都市を彷彿とさせる構造になっています。その様子を下の数枚の写真で示します。
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この1番目の写真はまつりごとの行われていた北内郭の部分です。
出典は、http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=10 です。
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2番目の写真は復元された建物の写真です。
出典は、http://www.yado.co.jp/kankou/saga/sagasi/yosino/yosino.htmです。
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3番目の写真は政治の行われていた北内郭の遠景の写真です。北内郭を環濠と柵の外から撮った写真です。
手前の高床式の家と竪穴式の倉庫は食料の貯蔵庫と考えられます。
これらの写真と青森県の縄文時代の丸山三内遺跡と比較すると明快に次の2点が大きな違いです。
(1)青森の縄文時代は戦争が少なかったらしく、敵襲へ備えた環濠や堅固な柵が無かった。
(2)青森の建物群は非常に土俗的デザインで原始的な構造をしている。それに対して佐賀県の建物群は高床式の発展した高殿式構造を有し、中国大陸や東南アジアからの文化的影響が暗示されている。
その上、縄文文化は北東北から南北海道にかけて栄えたのに対して弥生文化は九州や西日本で始まっているのです。
稲作という大きな生産力のある農業が人口増加を生み、いろいろな手工芸や鋳物細工や鉄器製造の職人をそだてたのです。
生活に使用される道具も次第に石器から金属製へと変って行ったのです。土器のデザインも呪術的な装飾が姿を消し、実用的な簡素な形に変化して行きました。
縄文文化を支えたのがアイヌ民族で、弥生文化を支えたのが朝鮮や中国から移住してきた人々と原日本人が混血した人々と仮定すると判りが良いのです。
しかし事実はもっと、もっと複雑でアイヌ人も弥生文化を受け入れたのかも知れません。アイヌと原日本人の混血も進み、地方によってはその区別もなくなったのかもしれません。
さて戦争の為に備えた防御施設をもう少し詳しく見て見ましょう。以下の全ての写真の出典は、http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=10 です。
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上の4番目の写真は環濠の内部へ入る入り口の様子です。敵襲を防ぐ逆木や乱杭が恐ろしい印象を与えています。
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上の5番目の写真は人々の生活を支える畑作の様子を示す写真です。吉野ケ里遺跡ではまだ水田の跡は見つかっていませんが付近の湿地からは鍬などの農具が見つかっているの当然、稲作もされていたに違いないと考えられています。
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上の6番目の写真は居住区から離れた所にある墓地の航空写真です。
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上の7番目の写真は王の墳墓です。銅剣とガラスの管玉が副葬されていました。この墳墓の形は後の古墳時代の古墳の原型のように見えます。
これらの写真を見ると弥生時代から人々は戦争に悩まされていたのです。そして平和な時期でも敵襲に備えて堀を巡らせ、入り口には敵襲を防ぐ逆木や乱杭が作ってあったのです。
このような遠い昔の歴史を勘案しながら、決して感情的にならないでで現在の日本の自衛を考えるのが良いのでしょう。そしてそれに従って憲法もあせらずゆっくり変えて行くのが良いと思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)