後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日は幸田和生司教さまのミサに行きました

2016年07月03日 | 日記・エッセイ・コラム
今日のカトリック小金井教会での10時からのミサは久しぶりに幸田和生司教さまが司式してくださいました。
2つのことが感動的でした。
一つは今日読み上げられた「イザヤの予言」、「使徒パウロのガラテヤの教会への手紙」、と「ルカによる福音」は世界中のカトリック教会で同じように朗読されますという幸田司教さまのお話しで、世界中の教会が一致していることに感動しました。そしてかつて自分が訪れた外国の幾つもの教会を懐かしく思い出しました。
カトリック教会のミサは世界中同じなのです。そして各地の司教区はローマ法王のフランスコ教皇に直接つななっがています。ですから説教でもフランシスコ教皇さまの話がよく出ます。
二つ目は幸田司教さまの説教が実に明快なことです。
今日の説教の主題はイエスさまの言う「平和」の意味でした。
日本人は戦争さえ無ければ平和だと思っています。その理解も間違っていませんが、イエスさまの言う平和とか神の与えてくれる平和の意味はもう少し厳しい意味があります。
「主の平和」というときの平和とは心の中に憎しみや争いの無い完全に穏やかな状態であることが必須条件です。平和は個人の心から生まれるのです。例えば独裁国家で人権蹂躙があるような社会では、たとえ戦争が無くても平和とは言えません。あるいは横暴な父のいる家庭では一見平和な家庭に見えても家族一人一人の尊厳が大切にされていなければ平和とは言えません。
このように理解すると神が人間に与える平和は非常に大切なものです。
そのような平和が心の中にありますようにという祈りがミサの間に何度も唱えられるのです。
何気なく、「司祭さまにも平和がありますように」と鸚鵡返しに唱えているその一行の言葉にも深い意味があるのです。

今日の説教の明快さと深い意味に感動して日記に残そうとしました。今日は写真機を持って行きませんでしたので、「幸田和生司教の写真」を検索しましたら沢山の写真がありました。下の1番目の写真は私が選んだ一枚の写真です。

そして写真を検索していたら幸田司教さまがブログを書いていることを発見しました。
それは「毎日がクリスマス」http://nativitas.blog130.fc2.com/ というブログです。
以下は6月26日に幸田司教さまが湘南のカトリック茅ケ崎教会のミサを司式されたときの記事の抜粋です。
茅ケ崎海岸には時々ドライブに行くので、何故かご縁を感じ、幸田司教さまのブログの抜粋を以下にお送りします。
・・・わたしたち全世界のカトリック信者は、フランシスコ教皇の呼びかけに従って、いつくしみの特別聖年という年を過ごしています。聖年には昔からの伝統で、巡礼が行われてきました。今もそうかもしれません。聖年の扉をくぐるためにローマまで行ったり、司教座聖堂に行ったりする人もいるかもしれません。もちろん多くの人はそんなことできまないと思います。フランシスコ教皇は、刑務所にいる人も、病気で動けない人も、聖年の巡礼の恵みにあずかることができるとはっきり言っておられます。わたしたちは今年、特別に、主日のミサの中でルカ福音書を読んでいますから、今日の箇所を出発点としてイエスさまとともに、エルサレムへ向かう巡礼を、霊的な(spiritualな)旅をしていけたら良いと思います。これなら誰でもできます。・・・・以下省略。
下の2番目の写真は幸田司教さまが撮ったカトリック茅ケ崎教会の写真です。

3番目の写真は6月に茅ヶ崎海岸に行った時、私が撮った写真です。

この幸田司教さまの「毎日がクリスマス」というブログを読むと実に分かりやすい文章で書かれていることに感銘を憶えます。
優しいお人柄が伺えるようです。
キリスト教にご興味がある方々にお薦めいたします。ご一読なさいますように祈っております。

高齢者の達観の境地と深い森にすむ神々、そして仏教やキリスト教

2016年07月03日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「老境の幸せと達観の境地の具体的な説明」と題する記事を掲載しました。
そうしたら22人の高齢者の方々からコメントを頂きました。
驚くべきことに大部分の方々が達観の境地にあるようなのです。ですから多くの高齢者は幸せに暮らしているのです。この日本に感謝します。生きていることに感謝します。
そこでもう一度達観の境地とはどのようなものか個条書きにしてみます。
(1)偉くなろう、お金を儲けようと一切思わない。
(2)病気の心配をしない、病気を苦に思わない。
(3)子供や孫の将来を心配しない。
(4)国内政治に不満を感じない、政治は若者に任せる。
(5)敵対する外国を許し、国の安全と外交も若者に任せる。
(6)生きているだけで幸せと感じるような訓練を続ける。

さて昨日は達観の境地に関する記事を出してから、9時半頃に家を出発して甲斐駒岳の麓の深い森の中へ行ってきました。
そうしたら深い森には神々が住んでいると感じたのです。
一瞬ではありましたが、森の精霊が暗い樹々の間を飛んでいるのが見えるような気がしたのです。
そこで皆様をその深い森にご案内したいと存じます。

1番目の写真は昨日の甲斐駒岳と山稜の上に不思議な形で空に広がる雲の写真です。昨日は梅雨の晴れ間でしたが上空は気流が乱れているようで青空が見えたり不気味な雲が踊ったりしています。写真の撮った場所は北杜市武川町の石空川の岸です。

2番目の写真はこれから入っていく森のたたずまいです。

3番目の写真は森の奥にある小屋に上っていく道です。未舗装の悪路で暗い森の中を根気よく上って行きます。

4番目の写真は到着した小屋の周囲に茂る雑木林の様子です。

5番目の写真は何時行っても変わらず清い水が流れている小屋の前の小川です。

昨日は時折青空も見えましたが曇り日だったので森の奥は暮れかかった夕方のようでした。
遠方で小鳥の鳴くこ声がかすかに聞こえてきます。小川の水音だけが静かな森に響いています。
6月に行ったときはハルゼミが賑やかに鳴いていましたが昨日は静まり返っています。
そんな中で1時間ほどぼんやりしていると周りの森の中に神々が住んでいるような気がします。気のせいか一瞬ですが、森の精霊が樹と樹の間を飛んでいるのが見えるような気分になります。
嗚呼、これが原始的な宗教の生まれていく感じなのだと判かったのです。いや正確には判ったような気分になっただけかも知れません。
大きな樹木や山を信仰の対象にする気持ちが理解できたのです。神道という宗教はこのような人間の感じ方から始まったのかも知れません。
そしてこの自然と共に生きているだけで幸せと感じたのです。それは達観の境地かもしれません。
そして仏教の教えを想います。俗な欲望を捨てれば悟れます。悟ってしまえば恐れることがすべて無くなります。この世のことは空なのです。
執着心があるかぎり悟りの境地に入れません。死んだ後、自分の墓に執着してはいけません。遺骨は野に捨てなさい。像を拝んではいけません。色即是空、空即是空ということを深く理解し、それを信じればおのずと悟りの境地に入れるのです。
この上の文章の悟りの境地と「達観の境地」は似ています。
そう言えばお釈迦さまが悟りを開いたのは菩提樹の下と伝えられています。人間と樹木には何か深い関係があるのでしょうか。

さて昨日見たような深い森には神々が住んでいます。するとその神々を治める力のある神が一人いると考えるのも自然なことではないでしょうか。その一人の神は広大な宇宙の星空のかなたに住みたまう全知全能の神です。宇宙を創り、宇宙の全てを支配している一人の神です。
この発想が一神教を生んだのでしょうか。イスラム教やキリスト教はこのようにして育って行ったのもかも知れません。
昨日、深い森の中でフッと思いついたことです。真偽の程は知りません。間違っていると思いますが、こんなことを考えながら中央高速道路を走って帰って来ました。昨日の日記です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)