前回の記事の「若き日の冒険、恥多き思い出、その1」に書いたような事情で、貧乏だった学生の私でもアメリカへの留学のチャンスを掴めたのです。
フルブライト委員会から送ってきたノースウエスト機の航空券で、羽田を飛び立ったのは1960年の8月のことでした。中学校時代の友人や親類が羽田まで多数見送りに来てくれました。日本は外貨不足で、外国への自由な観光旅行が禁止され、外貨持ち出しは60ドルまでと制限されていた時代でした。1ドル360円の時代です。
オハイオ州立大学での勉強は想像以上に厳しいものでした。
それでも1962年の8月には、Doctor of Philosophy (哲学博士)の学位記を手にすることが出来たのです。
アメリカのDoctor of Philosophyの学位を取得するための必要条件は末尾の参考資料に簡略に説明してあります。
さてこのような短期間で学位を貰えた陰にはアメリカ人の強い支援があったからなのです。それは老境にいたった現在振り返っても、胸が熱くなるような励ましといろいろな助けでした。
指導教官のセント・ピールの励ましと学位論文の指導が素晴らしかったのです。
そして15人位いた博士課程の同級生が実に親切でした。言葉が出来ない私に頻繁に行われる試験の日時と出題範囲を噛んで含めるように教えてくれます。総合学力試験の時は各教授の出題傾向まで教えてくれたのです。
その級友のなかで特に親切だったのが、かなり年上のジョージ・オートンさんでした。
ジョージとはハイオ州立大金属工学博士課程の講義に初めて出た時に会ったのです。
彼はアメリカ空軍から大学へ派遣されてきた空軍大佐でした。
驚いたことに彼はB29爆撃機を操縦して、東京へ焼夷弾を落としに何度も来たのです。
大きな体、坊主頭、赤ら顔のカウボーイのような男でした。非常に面倒見のよい人で、英語のできない私にノートを見せてくれ、何度も家に招待してくれました。
当時、彼は空軍大佐でしたので裕福だったのか、真っ赤なイギリスのスポーツカーのMGに乗って通学していました。
自宅での簡単な夕食に招んでくれるときは必ずこのMGに乗せてくれます。運転が上手で、なるほど飛行機の操縦をしていた人は違うと感心したものです。MGは繊細で神経質なスポーツカーで運転が難しいのです。
かなり親しくなってから彼に聞いたことがあります。
「なぜ日本人の私の面倒をそんなに本気でみるのか?」
彼は急に厳しい顔になって、「俺は東京や各地へB29で何十回も空襲に行ったよ。でもそんな質問は二度とするな」と言ったのです。彼はその後、戦争のことは二度と話しませんでした。
私の帰国後もジョージとは長い間、家族同士の付き合いをしました。家族一緒に熱海の旅館へ泊ったこともあります。
日本に来るときは空軍の飛行機できます。その頃は、とっくに退役していたのですが、何時もアメリカの立川基地に来ます。退役していても若い兵が荷物を持って私の車まで送って来ます。兵は直立するときちんと敬礼をして帰っていきます。嗚呼、これが軍隊なのだなと感じたものです。
ジョージの奥さんのケイが死んだのは1980年頃でした。しばらくしてから南部にジョージを訪ね、二人でケイの墓参りをしました。いつも大声で陽気に話していた彼が消え入るように沈み込んでいます。平らな白い石の墓石が一面に広がり、秋風が吹き渡っていました。ジョージは何年か過ぎたときアニタという女性と再婚しました。元気を取り戻しました。
1988年、私はオランダのエルスビーア出版社から初めて英語で専門書を出版することになりました。その時、原稿の英語を逐一訂正してくれたのがジョージともう一人の同級生のジム・バテルでした。
ジョージのことを思い出すと、1945年7月、少年であった私の目の前で一面火の海になった仙台の町々の光景を思い出します。
そして仙台空襲の大火に映しだされるB29の白い機体のゆっくりした動きを思い出します。憎しみも悲しみもない走馬灯のように。
ジョージは2006年の末に亡くなりました。息子から連絡が来ました。花輪を送り、遠くから冥福を祈るだけです。
オハイオの同級生のことはもっと書きたいことがありますが、これで止めにします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料=================
「アメリカで博士の学位をとるために要求される条件」
まずアメリカで博士の学位は多くの分野でDoctor of Philosophy (哲学博士)と呼ばれていることを説明します。
それはギリシャからの伝統にしたがっています。古代ギリシャでは哲学も数学も天文学も科学も、そしてその他の分野の研究も全て哲学と称していたそうです。哲学とは宇宙の中の、勿論、地球上の全ての現象の法則性を考え、いろいろな宇宙観を提唱するものです。ですから日本でいう狭義の哲学は勿論、理学や工学や全ての研究分野でも博士号は全てDoctor of Philosophyと呼びます。
日本のように理学博士、工学博士、農学博士などという細分化した博士の学位はありません。勿論、例外はありますが、長くなるので省略します。
このDoctor of Philosophy (哲学博士)の学位を授与される為には以下の4つほどの条件を満足しなけらばなりません。
(1)大学院の十数個以上の科目の単位を取り、その成績の平均点があるレベル以上でなければなりません。そのレベルは大学によって異なりますが、それを下回った成績をとると強制退学させられます。
(2)学科の勉強と並行して自分の学位論文のテーマを指導教官に決めて貰い、その研究を続けなければなりません。工学の場合は自分で実験装置を組み立てて、授業のない夜の時間や週末に大学に行って実験を一人で行います。
(3)十数個以上の科目の単位を取りおわるとGeneral Examinationという総合的な学力試験を受けます。一日間くらいの筆記試験ですが時間に制限が無く、短時間なら図書館に行って調べて答案を書いても良いのです。
筆記試験の次の日に口頭試験があります。これが一番難しくて厳しいものです。
(4)総合的な学力試験の筆記試験と口頭試験に合格すると自分の実験結果にもとずいた学位論文を指導教官へ提出します。
その論文の審査は、4,5人の教授たちによる口頭試験で行われます。この場合重要なことは審査員の教授の1人は必ず他の学科の教授でなければならないことです。これには審査のなれ合いを防ぐ目的と、学位論文が本当に独創的で普遍的な価値があるかを評価する目的があるのです。
以上のような条件が要求されるのがアメリカの学位制度なのです。ですからアメリカでは大学院に入らないといけません。日本のように論文だけを提出するいわゆる「論文博士」という制度はありません。(名誉博士は別です。)
学位記の授与は大きな講堂で学長から手渡されます。それは伝統的な儀式で、出席する教授も学生も黒いガーンと黒い角帽子をかぶります。後ろの席には正装した家族たちが座ります。黒いガーンと黒い角帽子は大学の正門に近い貸衣装店から1日だけ借りるのです。
今日の挿し絵代わりの写真は先日、都立神代植物公園で撮ったいろいろな睡蓮の花々の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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フルブライト委員会から送ってきたノースウエスト機の航空券で、羽田を飛び立ったのは1960年の8月のことでした。中学校時代の友人や親類が羽田まで多数見送りに来てくれました。日本は外貨不足で、外国への自由な観光旅行が禁止され、外貨持ち出しは60ドルまでと制限されていた時代でした。1ドル360円の時代です。
オハイオ州立大学での勉強は想像以上に厳しいものでした。
それでも1962年の8月には、Doctor of Philosophy (哲学博士)の学位記を手にすることが出来たのです。
アメリカのDoctor of Philosophyの学位を取得するための必要条件は末尾の参考資料に簡略に説明してあります。
さてこのような短期間で学位を貰えた陰にはアメリカ人の強い支援があったからなのです。それは老境にいたった現在振り返っても、胸が熱くなるような励ましといろいろな助けでした。
指導教官のセント・ピールの励ましと学位論文の指導が素晴らしかったのです。
そして15人位いた博士課程の同級生が実に親切でした。言葉が出来ない私に頻繁に行われる試験の日時と出題範囲を噛んで含めるように教えてくれます。総合学力試験の時は各教授の出題傾向まで教えてくれたのです。
その級友のなかで特に親切だったのが、かなり年上のジョージ・オートンさんでした。
ジョージとはハイオ州立大金属工学博士課程の講義に初めて出た時に会ったのです。
彼はアメリカ空軍から大学へ派遣されてきた空軍大佐でした。
驚いたことに彼はB29爆撃機を操縦して、東京へ焼夷弾を落としに何度も来たのです。
大きな体、坊主頭、赤ら顔のカウボーイのような男でした。非常に面倒見のよい人で、英語のできない私にノートを見せてくれ、何度も家に招待してくれました。
当時、彼は空軍大佐でしたので裕福だったのか、真っ赤なイギリスのスポーツカーのMGに乗って通学していました。
自宅での簡単な夕食に招んでくれるときは必ずこのMGに乗せてくれます。運転が上手で、なるほど飛行機の操縦をしていた人は違うと感心したものです。MGは繊細で神経質なスポーツカーで運転が難しいのです。
かなり親しくなってから彼に聞いたことがあります。
「なぜ日本人の私の面倒をそんなに本気でみるのか?」
彼は急に厳しい顔になって、「俺は東京や各地へB29で何十回も空襲に行ったよ。でもそんな質問は二度とするな」と言ったのです。彼はその後、戦争のことは二度と話しませんでした。
私の帰国後もジョージとは長い間、家族同士の付き合いをしました。家族一緒に熱海の旅館へ泊ったこともあります。
日本に来るときは空軍の飛行機できます。その頃は、とっくに退役していたのですが、何時もアメリカの立川基地に来ます。退役していても若い兵が荷物を持って私の車まで送って来ます。兵は直立するときちんと敬礼をして帰っていきます。嗚呼、これが軍隊なのだなと感じたものです。
ジョージの奥さんのケイが死んだのは1980年頃でした。しばらくしてから南部にジョージを訪ね、二人でケイの墓参りをしました。いつも大声で陽気に話していた彼が消え入るように沈み込んでいます。平らな白い石の墓石が一面に広がり、秋風が吹き渡っていました。ジョージは何年か過ぎたときアニタという女性と再婚しました。元気を取り戻しました。
1988年、私はオランダのエルスビーア出版社から初めて英語で専門書を出版することになりました。その時、原稿の英語を逐一訂正してくれたのがジョージともう一人の同級生のジム・バテルでした。
ジョージのことを思い出すと、1945年7月、少年であった私の目の前で一面火の海になった仙台の町々の光景を思い出します。
そして仙台空襲の大火に映しだされるB29の白い機体のゆっくりした動きを思い出します。憎しみも悲しみもない走馬灯のように。
ジョージは2006年の末に亡くなりました。息子から連絡が来ました。花輪を送り、遠くから冥福を祈るだけです。
オハイオの同級生のことはもっと書きたいことがありますが、これで止めにします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料=================
「アメリカで博士の学位をとるために要求される条件」
まずアメリカで博士の学位は多くの分野でDoctor of Philosophy (哲学博士)と呼ばれていることを説明します。
それはギリシャからの伝統にしたがっています。古代ギリシャでは哲学も数学も天文学も科学も、そしてその他の分野の研究も全て哲学と称していたそうです。哲学とは宇宙の中の、勿論、地球上の全ての現象の法則性を考え、いろいろな宇宙観を提唱するものです。ですから日本でいう狭義の哲学は勿論、理学や工学や全ての研究分野でも博士号は全てDoctor of Philosophyと呼びます。
日本のように理学博士、工学博士、農学博士などという細分化した博士の学位はありません。勿論、例外はありますが、長くなるので省略します。
このDoctor of Philosophy (哲学博士)の学位を授与される為には以下の4つほどの条件を満足しなけらばなりません。
(1)大学院の十数個以上の科目の単位を取り、その成績の平均点があるレベル以上でなければなりません。そのレベルは大学によって異なりますが、それを下回った成績をとると強制退学させられます。
(2)学科の勉強と並行して自分の学位論文のテーマを指導教官に決めて貰い、その研究を続けなければなりません。工学の場合は自分で実験装置を組み立てて、授業のない夜の時間や週末に大学に行って実験を一人で行います。
(3)十数個以上の科目の単位を取りおわるとGeneral Examinationという総合的な学力試験を受けます。一日間くらいの筆記試験ですが時間に制限が無く、短時間なら図書館に行って調べて答案を書いても良いのです。
筆記試験の次の日に口頭試験があります。これが一番難しくて厳しいものです。
(4)総合的な学力試験の筆記試験と口頭試験に合格すると自分の実験結果にもとずいた学位論文を指導教官へ提出します。
その論文の審査は、4,5人の教授たちによる口頭試験で行われます。この場合重要なことは審査員の教授の1人は必ず他の学科の教授でなければならないことです。これには審査のなれ合いを防ぐ目的と、学位論文が本当に独創的で普遍的な価値があるかを評価する目的があるのです。
以上のような条件が要求されるのがアメリカの学位制度なのです。ですからアメリカでは大学院に入らないといけません。日本のように論文だけを提出するいわゆる「論文博士」という制度はありません。(名誉博士は別です。)
学位記の授与は大きな講堂で学長から手渡されます。それは伝統的な儀式で、出席する教授も学生も黒いガーンと黒い角帽子をかぶります。後ろの席には正装した家族たちが座ります。黒いガーンと黒い角帽子は大学の正門に近い貸衣装店から1日だけ借りるのです。
今日の挿し絵代わりの写真は先日、都立神代植物公園で撮ったいろいろな睡蓮の花々の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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