あんなに暑かった夏も過ぎ朝夕が涼しくなりました。嗚呼、秋が始まったのだなと感じる今日この頃です。
この季節になると何故か堀辰雄の「風立ちぬ」という小説を思い出します。そして紅葉が待ち遠しい時期です。
この「風立ちぬ」とはポール・ヴァレリーの詩の一節だそうです。
「海辺の墓地」という作品の最終節です。
この詩を、http://ameblo.jp/quarts7/entry-11587655268.htmlを引用し、その一節を示します。
L'air immense ouvre et referme mon livre,
La vague en poudre ose jaillir des rocs!
Envolez-vous, pages tout éblouies!
Rompez, vagues! Rompez d'eaux réjouies
Ce toit tranquille où picoraient des focs!
「風が立つ!・・・生きる努力をせねばならぬ!
広大な大気が私の本を開いては閉じ、
波が飛沫となって岩をほとばしる!
飛び去るがいい、光にくらむページよ!
砕け、波よ!砕け 喜びに沸き立つ水で
三角帆が餌をついばんでいた穏やかな屋根を!」
(ポール・ヴァレリー 海辺の墓地より)
岩波文庫フランス名詩選 [ 安藤元雄 ]
冒頭の「風が立つ!」を「風立ちぬ」として堀辰雄が自分の小説の題名にしたのです。さらにその作品の第3章の題にもしています。
この章は秋の季節です。ですから堀辰雄の「風立ちぬ」の風は秋風なのでしょう。
そのせいで秋が始まると毎年この堀辰雄の「風立ちぬ」を思い出します・
美しい小説なので、そのあらすじを示します。
あらすじは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%81%AC_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC) から引用しました。
序曲
秋近い夏、出会ったばかりの「私」とお前(節子)は、白樺の木蔭で画架に立てかけているお前の描きかけの絵のそば、2人で休んでいた。そのとき不意に風が立った。「風立ちぬ、いざ生きめやも」。ふと私の口を衝いて出たそんな詩句を、私はお前の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返していた。それから2、3日後、お前は迎えに来た父親と帰京した。
春
約2年後の3月、私は婚約したばかりの節子の家を訪ねた。節子の結核は重くなっている。彼女の父親が私に、彼女をF(富士見高原)のサナトリウムへ転地療養する相談をし、その院長と知り合いで同じ病を持つ私が付き添って行くことになった。4月のある日の午後、2人で散歩中、節子は、「私、なんだか急に生きたくなったのね……」と言い、それから小声で「あなたのお蔭で……」と言い足した。私と節子がはじめて出会った夏はもう2年前で、あのころ私がなんということもなしに口ずさんでいた「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句が再び、私たちに蘇ってきたほどの切なく愉しい日々であった。
上京した院長の診断でサナトリウムでの療養は1、2年間という長い見通しとなった。節子の病状があまりよくないことを私は院長から告げられた。4月下旬、私と節子はF高原への汽車に乗った。
風立ちぬ
節子は2階の病室に入院。私は付添人用の側室に泊まり共同生活をすることになった。院長から節子のレントゲンを見せられ、病院中でも2番目くらいに重症だと言われた。ある夕暮れ、私は病室の窓から素晴らしい景色を見ていて節子に問われた言葉から、風景がこれほど美しく見えるのは、私の目を通して節子の魂が見ているからなのだと、私は悟った。もう明日のない、死んでゆく者の目から眺めた景色だけが本当に美しいと思えるのだった。9月、病院中一番重症の17号室の患者が死に、引き続いて1週間後に、神経衰弱だった患者が裏の林の栗の木で縊死した。17号室の患者の次は節子かと恐怖と不安を感じていた私は、何も順番が決まっているわけでもないと、ほっとしたりした。
節子の父親が見舞いに2泊した後、彼女は無理に元気にふるまった疲れからか病態が重くなり危機があったが、何とか峠が去り回復した。私は節子に彼女のことを小説に書こうと思っていることを告げた。「おれ達がこうしてお互いに与え合っている幸福、…皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ、おれ達だけのものを形に置き換えたい」という私に、節子も同意してくれた。
冬
1935年の10月ごろから私は午後、サナトリウムから少し離れたところで物語の構想を考え、夕暮れに節子の病室に戻る生活となった。その物語の夢想はもう結末が決まっているようで恐怖と羞恥に私は襲われた。2人のこのサナトリウムの生活が自分だけの気まぐれや満足のような思いがあり、節子に問うてみたりした。彼女は、「こんなに満足しているのが、あなたにはおわかりにならないの?」と言い、家に帰りたいと思ったこともなく、私との2人の時間に満足していると答えてくれた。感動でいっぱいになった私は節子との貴重な日々を日記に綴った。私の帰りを病院の裏の林で節子は待っていてくれることもあった。やがて冬になり、12月5日、節子は、山肌に父親の幻影を見た。私が、「お前、家へ帰りたいのだろう?」と問うと、気弱そうに、「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」と、節子は小さなかすれ声で言った。
死のかげの谷
1936年12月1日、3年ぶりにお前(節子)と出会ったK村(軽井沢町)に私は来た。そして雪が降る山小屋で去年のお前のことを追想する。ある教会へ行った後、前から注文しておいたリルケの「鎮魂曲(レクイエム)」がやっと届いた。私が今こんなふうに生きていられるのも、お前の無償の愛に支えられ助けられているのだと私は気づいた。私はベランダに出て風の音に耳を傾け立ち続けた。風のため枯れきった木の枝と枝が触れ合っている。私の足もとでも風の余りらしいものが、2、3つの落葉を他の落葉の上にさらさら音を立てながら移している。
(あらすじは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%81%AC_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC) から引用しました。)
そして今日は昨年、北海道で撮った紅葉の写真を何度も眺めています。下にその写真をしめします。
昨年の10月17日、羽田から帯広空港に飛び、十勝の「さほろリゾート」のホテルとウトロのホテルに泊まる2泊3日の旅を致しました。 十勝平野を見下ろす狩勝峠から、幸福駅、鶴居の里、阿寒湖、知床五湖、網走のオホーツク流氷館などを巡る旅でした。その道すがら撮った紅葉の写真をお送りいたします。
いよいよ秋が喨々と空に鳴る季節になります。良い季節です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
この季節になると何故か堀辰雄の「風立ちぬ」という小説を思い出します。そして紅葉が待ち遠しい時期です。
この「風立ちぬ」とはポール・ヴァレリーの詩の一節だそうです。
「海辺の墓地」という作品の最終節です。
この詩を、http://ameblo.jp/quarts7/entry-11587655268.htmlを引用し、その一節を示します。
L'air immense ouvre et referme mon livre,
La vague en poudre ose jaillir des rocs!
Envolez-vous, pages tout éblouies!
Rompez, vagues! Rompez d'eaux réjouies
Ce toit tranquille où picoraient des focs!
「風が立つ!・・・生きる努力をせねばならぬ!
広大な大気が私の本を開いては閉じ、
波が飛沫となって岩をほとばしる!
飛び去るがいい、光にくらむページよ!
砕け、波よ!砕け 喜びに沸き立つ水で
三角帆が餌をついばんでいた穏やかな屋根を!」
(ポール・ヴァレリー 海辺の墓地より)
岩波文庫フランス名詩選 [ 安藤元雄 ]
冒頭の「風が立つ!」を「風立ちぬ」として堀辰雄が自分の小説の題名にしたのです。さらにその作品の第3章の題にもしています。
この章は秋の季節です。ですから堀辰雄の「風立ちぬ」の風は秋風なのでしょう。
そのせいで秋が始まると毎年この堀辰雄の「風立ちぬ」を思い出します・
美しい小説なので、そのあらすじを示します。
あらすじは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%81%AC_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC) から引用しました。
序曲
秋近い夏、出会ったばかりの「私」とお前(節子)は、白樺の木蔭で画架に立てかけているお前の描きかけの絵のそば、2人で休んでいた。そのとき不意に風が立った。「風立ちぬ、いざ生きめやも」。ふと私の口を衝いて出たそんな詩句を、私はお前の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返していた。それから2、3日後、お前は迎えに来た父親と帰京した。
春
約2年後の3月、私は婚約したばかりの節子の家を訪ねた。節子の結核は重くなっている。彼女の父親が私に、彼女をF(富士見高原)のサナトリウムへ転地療養する相談をし、その院長と知り合いで同じ病を持つ私が付き添って行くことになった。4月のある日の午後、2人で散歩中、節子は、「私、なんだか急に生きたくなったのね……」と言い、それから小声で「あなたのお蔭で……」と言い足した。私と節子がはじめて出会った夏はもう2年前で、あのころ私がなんということもなしに口ずさんでいた「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句が再び、私たちに蘇ってきたほどの切なく愉しい日々であった。
上京した院長の診断でサナトリウムでの療養は1、2年間という長い見通しとなった。節子の病状があまりよくないことを私は院長から告げられた。4月下旬、私と節子はF高原への汽車に乗った。
風立ちぬ
節子は2階の病室に入院。私は付添人用の側室に泊まり共同生活をすることになった。院長から節子のレントゲンを見せられ、病院中でも2番目くらいに重症だと言われた。ある夕暮れ、私は病室の窓から素晴らしい景色を見ていて節子に問われた言葉から、風景がこれほど美しく見えるのは、私の目を通して節子の魂が見ているからなのだと、私は悟った。もう明日のない、死んでゆく者の目から眺めた景色だけが本当に美しいと思えるのだった。9月、病院中一番重症の17号室の患者が死に、引き続いて1週間後に、神経衰弱だった患者が裏の林の栗の木で縊死した。17号室の患者の次は節子かと恐怖と不安を感じていた私は、何も順番が決まっているわけでもないと、ほっとしたりした。
節子の父親が見舞いに2泊した後、彼女は無理に元気にふるまった疲れからか病態が重くなり危機があったが、何とか峠が去り回復した。私は節子に彼女のことを小説に書こうと思っていることを告げた。「おれ達がこうしてお互いに与え合っている幸福、…皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ、おれ達だけのものを形に置き換えたい」という私に、節子も同意してくれた。
冬
1935年の10月ごろから私は午後、サナトリウムから少し離れたところで物語の構想を考え、夕暮れに節子の病室に戻る生活となった。その物語の夢想はもう結末が決まっているようで恐怖と羞恥に私は襲われた。2人のこのサナトリウムの生活が自分だけの気まぐれや満足のような思いがあり、節子に問うてみたりした。彼女は、「こんなに満足しているのが、あなたにはおわかりにならないの?」と言い、家に帰りたいと思ったこともなく、私との2人の時間に満足していると答えてくれた。感動でいっぱいになった私は節子との貴重な日々を日記に綴った。私の帰りを病院の裏の林で節子は待っていてくれることもあった。やがて冬になり、12月5日、節子は、山肌に父親の幻影を見た。私が、「お前、家へ帰りたいのだろう?」と問うと、気弱そうに、「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」と、節子は小さなかすれ声で言った。
死のかげの谷
1936年12月1日、3年ぶりにお前(節子)と出会ったK村(軽井沢町)に私は来た。そして雪が降る山小屋で去年のお前のことを追想する。ある教会へ行った後、前から注文しておいたリルケの「鎮魂曲(レクイエム)」がやっと届いた。私が今こんなふうに生きていられるのも、お前の無償の愛に支えられ助けられているのだと私は気づいた。私はベランダに出て風の音に耳を傾け立ち続けた。風のため枯れきった木の枝と枝が触れ合っている。私の足もとでも風の余りらしいものが、2、3つの落葉を他の落葉の上にさらさら音を立てながら移している。
(あらすじは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%81%AC_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC) から引用しました。)
そして今日は昨年、北海道で撮った紅葉の写真を何度も眺めています。下にその写真をしめします。
昨年の10月17日、羽田から帯広空港に飛び、十勝の「さほろリゾート」のホテルとウトロのホテルに泊まる2泊3日の旅を致しました。 十勝平野を見下ろす狩勝峠から、幸福駅、鶴居の里、阿寒湖、知床五湖、網走のオホーツク流氷館などを巡る旅でした。その道すがら撮った紅葉の写真をお送りいたします。
いよいよ秋が喨々と空に鳴る季節になります。良い季節です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)