後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

老境に至って知る日本画の魅力(1)河合玉堂の美の世界

2016年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム
年をとると月日がとても早く過ぎるように感じます。
2年前のある秋晴の日に家内と一緒に玉堂美術館に行ったのも昨日のように思い返されます。





上の写真はその時、撮った写真で、玉堂美術館とその前を流れる多摩川の様子です。
川合玉堂は明治6年愛知県に生まれ昭和32年に84歳で没しました。
昭和19年から32年まで美術館の前の多摩川の向側にある御岳駅のそばに住んでいました。
奥多摩の自然を愛し、数々の傑作を世に送り出したのです。それで奥多摩の人々は郷土の誇りのように思っています。

上は紅梅白梅図は大きな六曲一双 、琳派風の絢爛たる力作のうちの2面です。絵画の出典は川合玉堂美術館のHP(http://www.gyokudo.jp/)からです。
川合玉堂の絵画は自由闊達でのびやかです。上品で穏やかです。自然の風景、草木、小鳥などを愛する心が画面に温かい雰囲気をかもし出しています。
初め京都、円山四条派に学び、のち橋本雅邦に師事します。雅邦に学びながら次第に独自の境地を切り開いて行きます。

上の「行く春」という絵画は玉堂の生涯の傑作と絶賛される作品です。 出典は、川合玉堂名画集(http://www.u-canshop.jp/gyokudo/)です。
「行く春」を何年も前に国立美術館で見たときの感動を忘れられません。
ここに示した写真が小さすぎますので少々説明いたします。左から散りかけた桜花が画面中央へ伸びています。水豊かな山峡の流れに大きな水車を乗せた船が連なってしっかりと係留されています。激しい流れを使って水車を回す「水車船」なのです。船の中には臼がが並んでいて穀物を挽いているのが想像出来ます。雄大な自然と人々の生活が描がれているです。そして過ぎ行く春が時の流れのはかなさを暗示しています。

上は http://kaiseik.exblog.jp/14483265/ から転載させて頂きました。
「彩雨」という傑作で、「行く春」と並んで玉堂の二大傑作と言われている感動的な日本画です。
絵は原画を見るに限ります。この写真も画質が粗いので少し説明いたします。この絵の下の方に2人の傘をさした女性が小さく描いてあります。それで雨が降っていると判然とします。その女性が精密に描いてあり、嫁と姑のように見えるのです。
勿論、傘の2人を見なくても風景が雨もよいに描いてあります。何か懐かしい風景がのびやかに広がっています。玉堂の絵画の特徴を表している傑作です。

上の絵は、玉堂美術館で見た絵画の中で一番印象が深かった絵です。

上と下にもう2枚の作品を示します。

天才的な画家でも画風を変えようと苦悶する時期が一生の間に何度かあるものです。しかし玉堂にはその苦しみがなかったように見えるのです。自由に楽しみながら描いて一生を終えたのです。毎日、奥多摩を散歩してはスケッチし、画室に戻り絵筆をとり、楽しみながら描きました。その様子は美術館のロビーにある紹介ビデオで見ることができます。
是非一度、川合玉堂美術館へお出で下さい。新宿駅から御岳駅までJRで1時間30分です。
美術館は駅前の多摩川の上の大きな橋を渡って、左へ曲がり、美術館への遊歩道を谷へ下りるとあります。御岳駅から徒歩5分です。車の方のためには広い駐車場もあります。美術館の隣には風情のある和風レストランもあります。
今日は2年前に訪れた玉堂美術館のことを思い出しました。そして河合玉堂の絵画をあらためて見て静かな感動を覚えます。この秋にもまた行きたいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

陽賜里工房の恒例の秋のオープンガーデンのご案内

2016年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県、北杜市の甲斐駒の麓にある陽賜里工房ガーデンの恒例の秋のオープンガーデンが例年通り開催されます。
庭でお茶をゆっくり飲んで寛ごうという企画です。ホストは原田聖也さんという男性とその母上です。

日時:9月17日(土)と18日(日)の朝10:00時から午後4:00時ころまで、
ところ:山梨県北杜市武川町山高 3567-556の陽賜里工房ガーデンです。

連絡先:原田聖也さん、携帯電話:090-4170-0370 E-Mail:t-taraku@t-net.ne.jp

このオープンガーデンには私も家内と一緒に参加したことがあります。
私共は今年の春にも訪問しました。
6年前の春のオープンガーデンの報告記事を以下に掲載いたします。ご参考になれば幸いです。

======花の園の中の喫茶店・・・陽賜里工房というコーヒー店===
戦後に学生時代を過ごした方々にとっては喫茶店という言葉は懐かしいと思います。名曲喫茶とか純喫茶とか歌声喫茶とかいう名前で、コーヒーの香りとともに文化的な場所でした。当時、コーヒーは高価な飲みものだったのです。
それから幾星霜、不思議な喫茶店へ行ってきました。陽賜里工房という名前で、春と秋の2回しか開店しません。
春の花々、秋の花々に囲まれたコーヒー店です。店主は原田聖也さんという男性で、コーヒーの修業を重ね、特別のコーヒー豆焙煎工場のものを仕入れて使っています。食品衛生法を勉強をし、飲食店開業の資格も取りました。
この喫茶店は北杜市の真原桜並木のはずれにある花の園です。庭全体がなだらかな南向きの斜面になっていて満開の桜の木が2本、ピンクのユキヤナギ、水仙、ヒトリシズカ、イカリソウなどに囲まれて店主手造りの店があります。
花園の一番高い所にはロマンチックなデザインの木造の家があり店主が寝泊まりする場所になっています。お客は勝手に花の園を歩きまわり、花々を鑑賞します。そして花疲れしたら洒落た店に入って香り高いコーヒーを頂きます。
コーヒーを飲む場所には女主人が居て、つれづれの話し相手になってくれます。店の主人のお母さんです。上品な日本語を使う方です。花の園の作り方などのよもやま話です。私がカトリックの話をしましたら、ご自分の信仰のバプテスト教会の話を静かにして下さいました。亡くなったご主人はその教会の牧師さんで、ご自分も宣教活動をしながら幼稚園の園長さんもしていたそうです。兎に角、折り目正しい一生を過ごした方なのでお話をしていてもスッキリとした印象です。
下にこの花の園の中の喫茶店の写真をお送り致します。





雑木林の中の友人たちが消えて行き甲斐駒岳だけが残った

2016年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム
老境の悲しみは親兄弟、親戚、恩人、友人が一人、また一人と旅立って行くことです。
親兄弟や恩人、仕事仲間など我が人生を大きく支えてくれた人々との惜別は深い群青色の悲しみです。そして感謝の気持ちが豊かに湧いてきます。
そしてその一方、人生の余暇に一緒に遊んだ友人たちとの別れには、そこはかとない悲しみを感じるものです。それは淡い水色のような悲しみです。
そんな友人たちの思い出を少し書いてみたいと思います。山梨県の雑木林の中の別荘地で一緒に遊んだ人々の思い出です。

その別荘地の25人くらいのメンバーで40年ほど前に「柳沢清流園管理組合」というものを作りました。
毎年、夏に総会と懇親会をして来ました。 その清流園のある場所は下の写真にあるような甲斐駒岳の手前の深い森の中です。

この別荘地ではいろいろな人と知り合いました。大工さん、庭師、会計士、会社員、ブドウ栽培家、不動産業者、そして共産党員などなどです。
大工さんの中川さんはこの地に独りで住み着いていました。別荘を10軒も建て、井戸も掘り 、小型ブルドーザーで悪路も補修して清流園の維持に大きな貢献をした人でした。
何度も彼の家に上がり込み他愛のない話をしました。彼はたまにしか人に会えないのでいろいろな話をたて続けに話していました。
小さな別荘を作るときの苦心談が主な話題でした。彼はロマンチストだったらしく作る別荘には必ず小さなベランダのついた屋根裏部屋があるのです。露天風呂をつけた家も建てました。
新築の別荘に入れてくれて説明してくれます。2階の屋根裏部屋のベランダに出ると森の梢の上に甲斐駒岳が透けて見えるのです。八ヶ岳も少しだけ見えます。下に、別荘地の傍の牧草地から見た八ヶ岳の写真を示します。

中川さんは自分の別荘の庭に大きな池を作り、鱒を育てていました。その鱒を何度か頂いてきてムニエルにしてビールを飲んだものです。
最後の年の春に会った時は、「娘が旦那と一緒にこちらに引っ越して来る」と言って、楽しみにしていました。奥さんが早く亡くなったので、娘の自慢話を何度もしていたものです。その中川さんがその同じ年の初夏に旅立ってしまったのです。
その直後の田植えの頃、私は清流園に遊びに行って彼の訃報を知りました。
下に田植えの頃の、清流園への道の入口の写真を示します。


この清流園では、もと代々木の共産党本部で働いていた追平 さんとも知り合いました。一人で住んでいて、よく散歩をする人でした。私の庭にも何度も寄ってくれて話し込んで行きました。北海道帝国大学を出た人で、卒業後から一生、共産党本部で働いていた人です。
徳田球一さんや野坂参三さんの人間的な側面を話してくれたときは大変面白かったものです。
彼は都会育ちなのでパンが好きで近所に美味しいパン屋が無いとこぼしていたものです。 家内が東京の美味しいパンを届けたら満面笑顔になりました。彼も何処かに行ってしまってもう6年くらにになります。懐かしい人です。

懐かしいと言えば勝沼のブドウ農家だった中村さんも面白い人でした。狩猟が趣味で犬と共に奥深い山々に何日間も入ってイノシシや鹿を撃つそうです。しかしあまり命中しないと言います。獲物の話より山奥で野営する苦労話は面白かったのです。
その彼からブドウ酒の密造方法を教わったのです。まず多量の規格外のブドウを勝沼から買ってくるのです。それを潰して、砂糖を加えて、広口ビンに入れて数週間発酵させます。時々、味見をし甘味がアルコールになったら完成です。新聞紙で濾して葡萄酒の完成です。直ぐに飲まないと発酵が進み酢になってしまいます。
密造です。官憲の取り締まりは無いのですかと聞きました。するとブドウの産地の勝沼では皆が自家用に作っているので、時々取締りがあるそうです。しかし取締り日は近所の人が皆知っているので見つからないと言ってました。
別荘地にも官憲が来ますかと聞いたら、こんな悪路の奥までは来ないと笑っています。その悪路の写真を下に示します。

この中村さんは60歳を過ぎてすぐに亡くなりました。旅立ってからもう17年くらいになります。

それから向かいにかなり立派な別荘を建てた大宮市の長倉さんも懐かしい人です。何度も長倉さんの別荘に行っては一緒に飲みました。気持ちがサッパリした人でした。
息子やお嫁さんが幼子をつれて私の小屋の小川で遊んでいました。その前後に長倉さんが急に亡くなったのです。今年の別荘組合の懇親会で長倉さんの孫に会ったら大学生の青年になっていました。嗚呼、長倉さんが旅立ってからもう15年もの歳月が流れ去ったのです。下に私どもの質素な小屋の写真を示します。

こんなにも質素な小屋ですが、そのお陰で数多くの友人が出来たのです。
こうして柳沢清流園の人々は一人去り、また一人旅立ってしまい創立当時のメンバーは庭師の谷崎さんと私達だけになってしまいました。
しかし別荘の持ち主の二代目がメンバーになって今年の夏の懇親会には三代目の子供も含めて22人も集まりました。そして組合の役員全員が2代目の人に代替わりしたのです。

別荘地の風景は年年歳歳同じようですが、人々は変わって行きます。
気がついてみると、昔一緒に遊んだ人々がみな消えてしまいました。淋しくなりました。老境の悲しみです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)