秋になりましたね。昼間は残暑がけっこう厳しいですが、朝夕は流石に涼しくなってきました。
ここ数日、秋の野に出て花々の写真を撮りに行こうと考えています。でもまだまだ暑いので家の中で秋の花の写真を検索して楽しんでいます。
そして山上憶良の万葉集の和歌を読み返しています。
家人の持っている岩波の「古典文学体系」や角川文庫の万葉集、上巻(武田祐吉校註)を見ると、花の名が書いてあります。芽子は萩のことで、朝貌は現在のキキョウのことと理解したうえで、山上憶良の和歌を楽しんでみましょう。
その原文を分かりやすくしたものを下に示します。
秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種の花
(山上憶良 万葉集 巻八 一五三七)七種は「ななくさと」読みます。
萩の花 尾花 葛花(をばな くずばな) なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花
(山上憶良 万葉集 巻八 一五三八)
これらの歌を読むと、秋風がわたる野にいろいろな花が咲いているのどかな情景が浮かんできます。二番目の歌は花の名前を羅列しただけですが、その順序と読んだときの音の響きが心地よいのです。2首続けて読むと優雅で気品のある作品のように感じられます。
それでは秋の七草の花の写真をしめします。
この写真の出典は、http://mariko789.exblog.jp/18059356 です。
これらの7枚の写真の出典は、https://www.bioweather.net/column/ikimono/manyo/m0509_2.htm です。
それにてもこの和歌が作られたのは天平時代の730年ころです。現在よりも1300年も昔のことです。しかし現代の日本人もこの歌を楽しむことが出来るのです。
やはり万葉集は確かに素晴らしい文化遺産です。
ついでに末尾の付録に山上憶良の他の和歌も示しておきました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=====================
山上憶良:斉明天皇6年(660年)? - 天平5年(733年)?
大宝元年(701年)第七次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する(この時の冠位は無位)。なお、憶良が遣唐使に選ばれた理由として大宝の遣唐使の執節使である粟田真人が同族の憶良を引き立てたとする説がある。和銅7年(714年)正六位下から従五位下に叙爵し、霊亀2年(716年)伯耆守に任ぜられる。養老5年(721年)佐為王・紀男人らとともに、東宮・首皇子(のち聖武天皇)の侍講として、退朝の後に東宮に侍すよう命じられる。
神亀3年(726年)筑前守に任ぜら任国に下向。神亀5年(728年)頃までに大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人とともに、筑紫歌壇を形成した。天平4年(732年)頃に筑前守任期を終えて帰京。天平5年(733年)6月に「老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」を、また同じ頃に藤原八束が見舞いに遣わせた河辺東人に対して「沈痾る時の歌」を詠んでおり、以降の和歌作品が伝わらないことから、まもなく病死したとされる。
いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ(唐にて詠んだ歌)(『万葉集』巻1-63、『新古今和歌集』巻10-898)
憶良らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も 吾(わ)を待つらむそ(『万葉集』巻3-337)
春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや はる日暮らさむ(大宰府「梅花の宴」で詠んだもの)(『万葉集』巻5-818)
秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種(ななくさ)の花(『万葉集』巻8-1537)
瓜食めば 子供念(おも)ほゆ 栗食めば まして偲(しの)はゆ 何処(いづく)より 来たりしものぞ 眼交(まなかい)に もとな懸りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ(『万葉集』巻5-802)
銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子に如(し)かめやも (『万葉集』巻5-803, )
行く船を 振り留めかね 如何ばかり 恋しかりけむ 松浦佐用姫(『万葉集』巻5-874)
世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば(『万葉集』巻5-893)
以下省略。
ここ数日、秋の野に出て花々の写真を撮りに行こうと考えています。でもまだまだ暑いので家の中で秋の花の写真を検索して楽しんでいます。
そして山上憶良の万葉集の和歌を読み返しています。
家人の持っている岩波の「古典文学体系」や角川文庫の万葉集、上巻(武田祐吉校註)を見ると、花の名が書いてあります。芽子は萩のことで、朝貌は現在のキキョウのことと理解したうえで、山上憶良の和歌を楽しんでみましょう。
その原文を分かりやすくしたものを下に示します。
秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種の花
(山上憶良 万葉集 巻八 一五三七)七種は「ななくさと」読みます。
萩の花 尾花 葛花(をばな くずばな) なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花
(山上憶良 万葉集 巻八 一五三八)
これらの歌を読むと、秋風がわたる野にいろいろな花が咲いているのどかな情景が浮かんできます。二番目の歌は花の名前を羅列しただけですが、その順序と読んだときの音の響きが心地よいのです。2首続けて読むと優雅で気品のある作品のように感じられます。
それでは秋の七草の花の写真をしめします。
この写真の出典は、http://mariko789.exblog.jp/18059356 です。
これらの7枚の写真の出典は、https://www.bioweather.net/column/ikimono/manyo/m0509_2.htm です。
それにてもこの和歌が作られたのは天平時代の730年ころです。現在よりも1300年も昔のことです。しかし現代の日本人もこの歌を楽しむことが出来るのです。
やはり万葉集は確かに素晴らしい文化遺産です。
ついでに末尾の付録に山上憶良の他の和歌も示しておきました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=====================
山上憶良:斉明天皇6年(660年)? - 天平5年(733年)?
大宝元年(701年)第七次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する(この時の冠位は無位)。なお、憶良が遣唐使に選ばれた理由として大宝の遣唐使の執節使である粟田真人が同族の憶良を引き立てたとする説がある。和銅7年(714年)正六位下から従五位下に叙爵し、霊亀2年(716年)伯耆守に任ぜられる。養老5年(721年)佐為王・紀男人らとともに、東宮・首皇子(のち聖武天皇)の侍講として、退朝の後に東宮に侍すよう命じられる。
神亀3年(726年)筑前守に任ぜら任国に下向。神亀5年(728年)頃までに大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人とともに、筑紫歌壇を形成した。天平4年(732年)頃に筑前守任期を終えて帰京。天平5年(733年)6月に「老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」を、また同じ頃に藤原八束が見舞いに遣わせた河辺東人に対して「沈痾る時の歌」を詠んでおり、以降の和歌作品が伝わらないことから、まもなく病死したとされる。
いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ(唐にて詠んだ歌)(『万葉集』巻1-63、『新古今和歌集』巻10-898)
憶良らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も 吾(わ)を待つらむそ(『万葉集』巻3-337)
春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや はる日暮らさむ(大宰府「梅花の宴」で詠んだもの)(『万葉集』巻5-818)
秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種(ななくさ)の花(『万葉集』巻8-1537)
瓜食めば 子供念(おも)ほゆ 栗食めば まして偲(しの)はゆ 何処(いづく)より 来たりしものぞ 眼交(まなかい)に もとな懸りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ(『万葉集』巻5-802)
銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子に如(し)かめやも (『万葉集』巻5-803, )
行く船を 振り留めかね 如何ばかり 恋しかりけむ 松浦佐用姫(『万葉集』巻5-874)
世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば(『万葉集』巻5-893)
以下省略。