昨日は午前にカトリックのミサに行き、午後には家内の実家の墓参りに行きました。ミサの間はイエスさまの言葉を考えることが忙しくて自由な雰囲気でありませんでした。しかし墓参りに行ったら、まだお彼岸でないので人影が無く静かです。
森閑とした墓地のなかで家人が持参して来た庭の花を一心に供えています。生け花の色の組み合わせと、全体の形のバランスをいろいろ考えています。2日前に義妹の供えた花々との調和をとっています。
私はチャッカマンという長い形のライターで線香の束に火を着けています。静かな時間がゆっくりと流れています。
そんな折には「80歳以上の人生は天からケーキ」という想いがこみあげて来ます。そして愉快になります。何故か感謝の気持ちが湧いて来ます。
ボーナスを与えてくれた天の神様への感謝です。そして自分が80歳まで生きる間に支えになってくれた全ての人々への感謝です。この記事を読んでくれる全ての人々への感謝です。
私の中学校時代の友人に大川君というのがいました。彼は60歳代から「俺はせめて80まで生きるから、後藤も生きろよ!」としきりに言ってました。この「せめて80まで、、、」を呪文のようにして70歳代を乗り切りました。乗り切れて本当に嬉いのです。
80歳以後は思いがけず貰った「天からのぼた餅」です。そんな訳で毎日笑いながら楽しんでいます。
今日の記事はこれでお終いです。今日の挿し絵がわりの写真は昨日の墓まいりの時撮った写真です。
ところで昨日はキリスト教と仏教について少し書きました。
そうしたらフランス在住のMotokoさんと日本在住のひかりさんから素晴らしいコメントを頂きましたので、あらてめて以下にご紹介いたします。
Motoko Boutdumonde;
こんばんは。といってもそちらはもうそろそろ朝ですね。では、おはようございます!興味深いお話、ありがとうございました。今でこそキリストはユダヤ人でユダヤ教のラビでもあったことは知られていますが、19世紀にはキリストがユダヤ人だったと言うだけで冒涜だった時代がありましたね... でもキリストの教えは、私の(狭い)考えでは、キリスト教徒になれば救われる、ということではないと思っています。何のためにキリストは十字架の上で死んだのでしょう?すべての人を救うためだったと思います。それでなければキリスト教を知らなかった人は善人でも救われないということになりますから。神は慈悲の神だと思います。クリスマスのミサに歌われるフランス語の聖歌、MINUIT CHRETIEN という歌では「我々の原罪を消すために」とありますし。
話は変わりますが、仏教の色即是空、空即是色という考えも、灰の水曜日のミサのときの「汝は埃である、埃に戻るであろう」という言葉に通じるところがあり、宗教の普遍性を思います。
インドの昔の記録にも、「ユダヤからラビが来ていた」という記載があり、それがキリストだったとも考えられています。いろいろ考えされられますね。特に宗教の対立がまた過激に表面化してきた現在ですが、ユダヤ教とキリスト教、イスラム教の神は同じものですし、またキリストが仏教やヒンズー教も学んだかもしれないと考えると...
ひかりさん;
私には、神がいるのかいないのかさえも解りません。
もっと正確に言えば、神がいようがいまいが構わないという立場です。
また、科学では解明できない人知を超えたものがあることを認めていますが、神ではなく自然の摂理であると考えれば何の問題も生じません。
しかし、他人の心は不可侵です。ですから、信仰心や宗教も否定しません。尤も、亡き先祖の供養は欠かさずやっています。
この欄へコエメントを下さる方には宗教を否定するために、科学用語を利用する生物学決定論者がいるようですが、それは明らかに科学の誤用です。科学(技術)の本来の目的は、自然や社会の未知の領域を明らかにし、人々の生活の豊かや利便性を追求するものであって、宗教を否定するためにあるのではありません。むしろ、こういう似非科学者こそが当方が対峙すべき相手だと最近とみに感じだしました。
なお、神の存在確率をベイズ統計によって計算した書籍がありますが、それによれば神の存在確率は67%とのことです。ベイズ統計とは主観確率を基にする統計学手法であり現代のスグレモノで、従来の答えは一つであると仮定する頻度主義のフィッシャー統計とは根本的な違いがあります。また、ベイズ統計の生みの親は、イギリスの数学者かつプロテスタントのベイズ牧師です。キリスト教の主観的なモノの見方が生み出した統計学と言ってよいかもしれません。
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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
森閑とした墓地のなかで家人が持参して来た庭の花を一心に供えています。生け花の色の組み合わせと、全体の形のバランスをいろいろ考えています。2日前に義妹の供えた花々との調和をとっています。
私はチャッカマンという長い形のライターで線香の束に火を着けています。静かな時間がゆっくりと流れています。
そんな折には「80歳以上の人生は天からケーキ」という想いがこみあげて来ます。そして愉快になります。何故か感謝の気持ちが湧いて来ます。
ボーナスを与えてくれた天の神様への感謝です。そして自分が80歳まで生きる間に支えになってくれた全ての人々への感謝です。この記事を読んでくれる全ての人々への感謝です。
私の中学校時代の友人に大川君というのがいました。彼は60歳代から「俺はせめて80まで生きるから、後藤も生きろよ!」としきりに言ってました。この「せめて80まで、、、」を呪文のようにして70歳代を乗り切りました。乗り切れて本当に嬉いのです。
80歳以後は思いがけず貰った「天からのぼた餅」です。そんな訳で毎日笑いながら楽しんでいます。
今日の記事はこれでお終いです。今日の挿し絵がわりの写真は昨日の墓まいりの時撮った写真です。
ところで昨日はキリスト教と仏教について少し書きました。
そうしたらフランス在住のMotokoさんと日本在住のひかりさんから素晴らしいコメントを頂きましたので、あらてめて以下にご紹介いたします。
Motoko Boutdumonde;
こんばんは。といってもそちらはもうそろそろ朝ですね。では、おはようございます!興味深いお話、ありがとうございました。今でこそキリストはユダヤ人でユダヤ教のラビでもあったことは知られていますが、19世紀にはキリストがユダヤ人だったと言うだけで冒涜だった時代がありましたね... でもキリストの教えは、私の(狭い)考えでは、キリスト教徒になれば救われる、ということではないと思っています。何のためにキリストは十字架の上で死んだのでしょう?すべての人を救うためだったと思います。それでなければキリスト教を知らなかった人は善人でも救われないということになりますから。神は慈悲の神だと思います。クリスマスのミサに歌われるフランス語の聖歌、MINUIT CHRETIEN という歌では「我々の原罪を消すために」とありますし。
話は変わりますが、仏教の色即是空、空即是色という考えも、灰の水曜日のミサのときの「汝は埃である、埃に戻るであろう」という言葉に通じるところがあり、宗教の普遍性を思います。
インドの昔の記録にも、「ユダヤからラビが来ていた」という記載があり、それがキリストだったとも考えられています。いろいろ考えされられますね。特に宗教の対立がまた過激に表面化してきた現在ですが、ユダヤ教とキリスト教、イスラム教の神は同じものですし、またキリストが仏教やヒンズー教も学んだかもしれないと考えると...
ひかりさん;
私には、神がいるのかいないのかさえも解りません。
もっと正確に言えば、神がいようがいまいが構わないという立場です。
また、科学では解明できない人知を超えたものがあることを認めていますが、神ではなく自然の摂理であると考えれば何の問題も生じません。
しかし、他人の心は不可侵です。ですから、信仰心や宗教も否定しません。尤も、亡き先祖の供養は欠かさずやっています。
この欄へコエメントを下さる方には宗教を否定するために、科学用語を利用する生物学決定論者がいるようですが、それは明らかに科学の誤用です。科学(技術)の本来の目的は、自然や社会の未知の領域を明らかにし、人々の生活の豊かや利便性を追求するものであって、宗教を否定するためにあるのではありません。むしろ、こういう似非科学者こそが当方が対峙すべき相手だと最近とみに感じだしました。
なお、神の存在確率をベイズ統計によって計算した書籍がありますが、それによれば神の存在確率は67%とのことです。ベイズ統計とは主観確率を基にする統計学手法であり現代のスグレモノで、従来の答えは一つであると仮定する頻度主義のフィッシャー統計とは根本的な違いがあります。また、ベイズ統計の生みの親は、イギリスの数学者かつプロテスタントのベイズ牧師です。キリスト教の主観的なモノの見方が生み出した統計学と言ってよいかもしれません。
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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)