日本は第二次大戦後に復興期があり、続いて経済の高度成長期があり、そのGDPが世界で2位になりました。
同じ様に中国は1966年から1976年の文化革命という凄惨な内戦があり、荒廃した中国の復興期があり、続いて経済の高度成長期があり、そのGDPは日本を抜いて世界2位になっています。
この日本と中国の高度成長を支えてきたのはどちらも欧米の技術を導入した工業技術の進歩によるものでした。
さて、ある国の経済の高度成長にはいろいろな要因があります。政府の経済政策、資金調達に関する法律の整備、工業団地の設置、アメリカ式の経営と品質管理方法の導入などなど多数の要因の相乗効果で経済の高度成長が起きると考えられます。
しかしそれらを支える優秀な人材が集まらなければ高度成長は達成できません。
必要な人材にはいろいろな分野の人材があります。その中で重要なものの一つは、優秀な技術者を集めることです。そしてそれを育てる大学の工学部の学生が熱心に勉強することが非常に重要です。
日本の復興期と高度成長期の工学部の学生は猛烈に勉強をしたものです。大学を卒業して会社に就職した後も、技術者は職場で熱心に勉強会を開催して欧米の技術書を原語で読むことをしていました。兎に角、工学部の学生はよく勉強しました。工場の技術者達も職務時間の後も会社に残って欧米の専門書を読み、輪読会もしていたのです。そんな時代があったのです。
今日は日本と中国の工学部の学生や技術者が猛烈に勉強していた様子を少し具体的にご紹介したいと思います。全て自分の体験にもとづいたご紹介です。
(1)日本の工学部の学生と技術者の勉強ぶり
日本の戦後の復興期の工学部は旧制の大学時代の教授が学生を教えていました。学生は勉強するのが当然な時代でした。授業の内容は欧米の工業技術を分野ごとに整理して教えます。そしてその分野の基礎科学を教えます。その上、実験教育の時間が長かったものです。その専門教育では英語の専門用語が徹底的に教え込まれました。会社に入ってから欧米の技術を学び、導入するために英語の専門用語が絶対必要だったのです。
その上、卒業論文は自分の実験に基づいて書かなければいけません。
4年生になるとあまり講義は無くなり、連日、卒業実験をさせられたのです。先輩の助手や大学院生が指導するのですが、実験ノートの書き方から始まって、それは厳しいものでした。そして卒論提出の期日が迫ってくると連日、徹夜で実験をするのです。
こんな教育を受けて会社に入り技術者になると会社の職務時間の終わった後に勉強会をするのです。工場勤務は3交代です。夜の勤務は暇があるので欧米の専門書を読むのです。このような猛烈な勉強のお陰で欧米の技術が素早く導入出来たのです。そして大量生産と品質管理で日本の高度成長が達成出来たのです。
このような事情は実は中国でもあったのです。それを実際に見たことを次にご紹介いたします。
(2)中国の工学部の学生と技術者の勉強ぶり
中国の凄惨な内戦は、毛沢東の死んだ1976年に終了しました。その直後に行った北京と瀋陽は丁度、戦争直後の日本のように荒廃していました。街路に汚物が散乱し、公衆便所は極端に汚くて使えません。町には人民服を着た栄養失調の人々が群れていました。その光景はあまりにも貧しいものでした。
中国の文革後の復興期は1976年から天安門事件の1989年までの鄧小平の時代と考えられます。
それに続く1990年から現在までを経済の高度成長期と考えて大きな間違いがないでしょう。
中国の学生と技術者の猛烈な勉強ぶりに圧倒されたのは1981年のことでした。
その年の秋に北京鋼鉄学院で集中講義をしました。聞いてくれたのは北京鋼鉄学院の学生と全国の鉄鋼会社から電報で呼び集められた技術者達でした。私の言葉の一言半句も聞き逃さないように真剣に聞くのです。講義は英語で、それを通訳が説明します。
通訳の説明をノートに書きつけてます。講義は1週間くらいでした。終了後、配った手製のテキストを瀋陽の東北工学院でも使おうと回収しました。ところが半部以上が返って来ません。周栄章教授が、「兎に角、専門書に飢えているのです。遠方から来たのですから勘弁して下さい」と言います。
そして周栄章教授が学生の猛烈な勉強ぶりと会社の技術者の自主的な勉強会の様子を縷々説明してくれたのです。
それは日本の復興期の猛列な勉強ぶりと同じだったのです。いえ、日本よりもすごかったのです。
北京鋼鉄学院と瀋陽の東北工学院で実際に見た彼等の勉強ぶりを思い出すと、その後の中国の高度成長も当然なように思えます。そして嬉しく思います。努力が報われるのを見るとだれでも嬉しく感じるのではないでしょうか。
今日の記事の構想は先週、相模湖畔を散歩しながら考えたことです。そこでその折に撮った相模湖の風景写真を挿し絵代わりに掲載致します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
同じ様に中国は1966年から1976年の文化革命という凄惨な内戦があり、荒廃した中国の復興期があり、続いて経済の高度成長期があり、そのGDPは日本を抜いて世界2位になっています。
この日本と中国の高度成長を支えてきたのはどちらも欧米の技術を導入した工業技術の進歩によるものでした。
さて、ある国の経済の高度成長にはいろいろな要因があります。政府の経済政策、資金調達に関する法律の整備、工業団地の設置、アメリカ式の経営と品質管理方法の導入などなど多数の要因の相乗効果で経済の高度成長が起きると考えられます。
しかしそれらを支える優秀な人材が集まらなければ高度成長は達成できません。
必要な人材にはいろいろな分野の人材があります。その中で重要なものの一つは、優秀な技術者を集めることです。そしてそれを育てる大学の工学部の学生が熱心に勉強することが非常に重要です。
日本の復興期と高度成長期の工学部の学生は猛烈に勉強をしたものです。大学を卒業して会社に就職した後も、技術者は職場で熱心に勉強会を開催して欧米の技術書を原語で読むことをしていました。兎に角、工学部の学生はよく勉強しました。工場の技術者達も職務時間の後も会社に残って欧米の専門書を読み、輪読会もしていたのです。そんな時代があったのです。
今日は日本と中国の工学部の学生や技術者が猛烈に勉強していた様子を少し具体的にご紹介したいと思います。全て自分の体験にもとづいたご紹介です。
(1)日本の工学部の学生と技術者の勉強ぶり
日本の戦後の復興期の工学部は旧制の大学時代の教授が学生を教えていました。学生は勉強するのが当然な時代でした。授業の内容は欧米の工業技術を分野ごとに整理して教えます。そしてその分野の基礎科学を教えます。その上、実験教育の時間が長かったものです。その専門教育では英語の専門用語が徹底的に教え込まれました。会社に入ってから欧米の技術を学び、導入するために英語の専門用語が絶対必要だったのです。
その上、卒業論文は自分の実験に基づいて書かなければいけません。
4年生になるとあまり講義は無くなり、連日、卒業実験をさせられたのです。先輩の助手や大学院生が指導するのですが、実験ノートの書き方から始まって、それは厳しいものでした。そして卒論提出の期日が迫ってくると連日、徹夜で実験をするのです。
こんな教育を受けて会社に入り技術者になると会社の職務時間の終わった後に勉強会をするのです。工場勤務は3交代です。夜の勤務は暇があるので欧米の専門書を読むのです。このような猛烈な勉強のお陰で欧米の技術が素早く導入出来たのです。そして大量生産と品質管理で日本の高度成長が達成出来たのです。
このような事情は実は中国でもあったのです。それを実際に見たことを次にご紹介いたします。
(2)中国の工学部の学生と技術者の勉強ぶり
中国の凄惨な内戦は、毛沢東の死んだ1976年に終了しました。その直後に行った北京と瀋陽は丁度、戦争直後の日本のように荒廃していました。街路に汚物が散乱し、公衆便所は極端に汚くて使えません。町には人民服を着た栄養失調の人々が群れていました。その光景はあまりにも貧しいものでした。
中国の文革後の復興期は1976年から天安門事件の1989年までの鄧小平の時代と考えられます。
それに続く1990年から現在までを経済の高度成長期と考えて大きな間違いがないでしょう。
中国の学生と技術者の猛烈な勉強ぶりに圧倒されたのは1981年のことでした。
その年の秋に北京鋼鉄学院で集中講義をしました。聞いてくれたのは北京鋼鉄学院の学生と全国の鉄鋼会社から電報で呼び集められた技術者達でした。私の言葉の一言半句も聞き逃さないように真剣に聞くのです。講義は英語で、それを通訳が説明します。
通訳の説明をノートに書きつけてます。講義は1週間くらいでした。終了後、配った手製のテキストを瀋陽の東北工学院でも使おうと回収しました。ところが半部以上が返って来ません。周栄章教授が、「兎に角、専門書に飢えているのです。遠方から来たのですから勘弁して下さい」と言います。
そして周栄章教授が学生の猛烈な勉強ぶりと会社の技術者の自主的な勉強会の様子を縷々説明してくれたのです。
それは日本の復興期の猛列な勉強ぶりと同じだったのです。いえ、日本よりもすごかったのです。
北京鋼鉄学院と瀋陽の東北工学院で実際に見た彼等の勉強ぶりを思い出すと、その後の中国の高度成長も当然なように思えます。そして嬉しく思います。努力が報われるのを見るとだれでも嬉しく感じるのではないでしょうか。
今日の記事の構想は先週、相模湖畔を散歩しながら考えたことです。そこでその折に撮った相模湖の風景写真を挿し絵代わりに掲載致します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)